殺意の忖度
――かふ。
という耳慣れない言葉が、このごろ炊屋姫尊の近習たちの間で使われている。
「
「苦しゅうない、近う」
炊屋姫は、
「どうじゃ、これは」
炊屋姫は、両手に支え持った一つの神像を示した。それは
弁才天というのは、天界に在って仏法を守護する神の一つで、弁説や音楽に優れ、大梵天の妃とされる。また一説に、財宝天女との間で、梵天王の寵愛を争ったとも云われる。炊屋姫もかつて、
「
真新しい弁才天像は、今でこそきらきらしているとはいえ、時が経てば緑青が浮いてくる。輝きを失わせないためには、金が要る。それは
「いや、あれを溶かしてはどうかと思うてな。あのくらい有れば足りようが」
とやや冗談めかした言い方をして、あははと笑った。それは、泊瀬部王の懐に存る物を指しているらしい。この冬の、緑を枯らす
馬子の家は、豊浦の宮から南へ行った、なだらかな丘のふもとに在る。この屋敷は、このごろ新たに普請したもので、庭を広く取って池を掘り、川の水を引いたその中には、松の木を植えたのどかな嶋が、わずかに寄せる波を受けている。その様子が珍しいので、
「嶋」
というのが馬子のあだ名になった。
さて馬子がこの嶋を眺める座敷に、ゆるりとした午後を過ごしていると、日もいくらか傾く頃合いに、ゆくりなく貴賓の訪れがあった。客は、
「ところで、末のお嬢様はつつがなくおすごしでしょうか」
馬子の末の
「わが君はそのことで気が伏せておいでになるのです。このところは夜もずっと離れにおられて、
これでは妃として顔が立たぬ、
「あの子は、
あら、と小手子は馬子の目を見返す。
「打ち明けて申しますけど、わが君は顔などご覧になりませんよ。ただ大臣との仲を気にしているだけでございますもの。とにかくあの子を納れてくだされば、ご安心なさってまたわたくしどもの閨に通って下さるでしょう。いつまでも」
と王妃はそこで声の調子を低くする。
「焦らされましては、お優しい王もお怒りになられますよ。この間のことですけれど」
こんなことがあったという。
五日ほど前に、王宮付きの狩人が、王に猪を献上した。森で猪をしとめると、その首は山の神に祭るから、里に下ろされた時には頭が無い。手慣れた狩人の仕事だけに、切り口は鮮やかだった。
泊瀬部王は、しばし胴と
「いつかこの猪の頸を斬るが如くに、わが
と叫んだという。
小手子は、この容子を実際に見てはいないが、宮人の間から伝わって、炊屋姫の耳に入ったようだ、と言った。馬子も倉梯の宮には間者を潜ませているが、この話しは初耳だった。
「実はそのことで、さきほど豊浦の宮にも伺ったのです。
と小手子は、次の間に控えさせていた供の者を呼ぶ。馬子は、小さい文箱を受け取った。蓋には紐を固く結んだ上に、墨で〆を引いてある。結び目を解いて中を開けると、便箋がただ一枚、
「
とだけ記されていたが、その紙をどけた底に、浅く溝が切ってあり、その切れ間には、鈍く光る鋼の五寸の針が沈められていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます