懐中の手駒

 馬子うまこの嶋の屋敷には、主人一族の住む母屋の他にも、郎党のための別棟や、下人が寝起きする長屋が、広い土地の中に並んでいる。しかしそうした家屋からもやや離れて、さびしくやせた柳を頼るように、ぽつねんと建っている一つの小屋があった。

 昼でも日当たりの悪い室内には、中旬の月も冷たく顔を隠し、ただ蝋燭の灯し火だけが、四面に迫る壁を照らしている。

 小屋の住人は、かつて池辺直氷田いけべのあたいひたと呼ばれた男である。池辺氏は東漢やまとのあや氏のわかれなので、姓を重ねて東漢池辺直やまとのあやのいけべのあたいと称することもあった。

 馬子の手先として健脚辣腕を振るい、荒い仕事を担ったこの男も、いつかかさの病に冒されて、熱と痛みにさいなまれる身となった。その時の苦しみといえば、死をも覚悟したほどだった。幸い命は取られずにすんだものの、肺に障りが残って、主君のために奔走することはできなくなった。

 馬子は、病み上がりの氷田に扶持を与えて養い、屋敷の片隅の小屋に住まわせた。それから今に至る三年ほどは、氷田にとっては辛い暮らしだった。待遇が不満なのではない。主人から頂く恩ばかりが増えて、恩に報いるのに十分な働きができないのだ。時には舶来する文献の整理を任されることもあるが、そんなでは満足するに遠く及ばない。

 借りた恩を負ったままの魂は、死んでも神の里に帰ることができず、黄泉の岩根に塞がれた、暗い土の中の牢獄に囚われると、世々伝えて故老は謂う。そういう話しは誰もが幼い頃に聞かされている。

 ――恩を返さぬ腐ったやつ。

 という誰かの陰口が耳に入ると、それが自分に向けられたのでなかったとしても、胸の底に重いものが沈殿するのを感じる。病でなくても死にそうな気分になる。

 そういう時には、懐に手を入れて、一つの手拭いを取り出す。しろい布地に、黒々と墨を走らせて、摩訶般若波羅蜜多心経まかはんにゃはらみったしんぎょうを書き写してある。

観自在菩薩かんじーざいぼーさち行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃーはーらーみったーじー照見五薀皆空しょうけんごーうんけーくう度一切苦厄どーいっせちくーやく舎利子しゃーりーしー色不異空しきほちいーくう空不異色くうほちいーしき色即是空しきそくぜーくう空即是色くうそくぜーしき受想行識ずーそうぎょうしき亦復如是やくぶくにょーぜー舎利子しゃーりーしー……)

 教理の奥深い所は解らない。それでも念経すると、心が鎮まった。

 死ねば、恩は返せない。生きるほどに債務は貯まるが、最期にはきっと命を捨てて報いる機会が得られよう。

 氷田は、主君の恩を決して忘れていないという証に、馬子にかけて、、即ち、

こま

 と名を改めた。東漢直駒やまとのあやのあたいこま、というのが今の名のりである。

 

 さて泊瀬部はつせべ王の第五年冬十月中旬、肥えた月高く照らす空の下に、駒は暗い小屋からそっと外へ出た。人目に立たず、夜陰の中を、どこそこへ来いとは、むかし病気をする前に、裏の仕事の指図をしに、馬子が駒に命じた言葉。

(それを今宵は、何の話しに、おれを呼び出すのだろう)

 駒は、広い庭をしずかに歩いて、池へ向かう。中の嶋へは、浮き橋が渡してある。馬子は、嶋に植わった松の樹のもとで待っているという。

 駒より一足先に、馬子は浮き橋を踏む。板を縄で繋いで浮けただけのものだから、歩けば揺れて波がさざめく。馬子は考えを反復させる。

 ――もし。

 炊屋姫かしきやひめの本意であるとしても、明確な指示があったわけではない。実行した結果として、状況がまずくなれば、自分が罪を被せられることになろう。だが、しなかったとしても、生きる道は無い。からこそ炊屋姫の腹心でいられるのだ。

 物事には、押しとどめられない勢いというものがある。今その力が、馬子の背を押している。かつて馬子がこともこの勢いを作る一部となっているのだ。

 駒は、馬子よりも身軽に、すっと浮き橋を渡ってきた。

「近う、もそっと」

 再三促されて、駒は馬子の肩に触れるほどの所に近づいた。馬子は駒の顔や息をする具合を窺う。体の調子は悪くなさそうだ。平生の容子からしても、急に走ったりしなければまず障りはないのだろう。

「実は、いらつめのことだが」

 と馬子は切り出す。馬子の末のむすめ河上娘かわかみのいらつめというのは、駒も同じく瘡の病に冒された者として、噂を聞けば同情を寄せている。ただ普段は母方の家で養生しているというので、姿を見ることはほとんど無い。馬子は月を見上げて話す。

「王よりの重ねての仰せで、とうとう縁談をまとめることと相成ったが、わしも人の親。輿入れをする前に、一たび顔合わせをして、もし王が少しでも嫌な色をおもてにお出しなされれば、この話しは無かったことにして下さるやと、願い出た所、王も慈悲あるお方、御承知を賜った。そこで」

 馬子は駒の方に向き直る。

「ことがことだけに、人払いをして謁見を賜るが、誰か立ち会いをせねばならぬ。それをそちに頼みたいのじゃ」

 駒は、馬子の意図を測りかねた。そんな用事なら、もっと体面良く使者を務められる人が、大臣の手には少なくない。しかもそれだけなら、こんな所で内密に話すまでもないことだ。きっとこの件には何か裏の使命があるのに違いないと、駒は答えずじっと大臣の次の句を待つ。

「これを取らす」

 と馬子は、懐から一つの紙包みを取り出して、駒に差し出す。駒が手に受け取って、折り目を開いてみれば、月明かりにも鈍く沈んで、身は細くとも手に重る、鋭い鋼の五寸の針が、中に挟まっていた。

「宮人の口から聞くに、このごろ王には時おりにわかにご乱心なさることがあるとか。内裏に参らせるゆえ、脇差しも持たせられぬが、万一の時にはそれで身を守れ」

 静かな宵闇に、冬の寒風が、びゅーっと吹いて、肺を刺した。

「これがそちに言い付ける最後の仕事じゃ。戒々ゆめゆめわしの意を違えるのではないぞ。

 という馬子の言葉で、駒は己の使命を完全に理解した。ついに積年の恩を返す日が来るのだ。

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