懐中の手駒
昼でも日当たりの悪い室内には、中旬の月も冷たく顔を隠し、ただ蝋燭の灯し火だけが、四面に迫る壁を照らしている。
小屋の住人は、かつて
馬子の手先として健脚辣腕を振るい、荒い仕事を担ったこの男も、いつか
馬子は、病み上がりの氷田に扶持を与えて養い、屋敷の片隅の小屋に住まわせた。それから今に至る三年ほどは、氷田にとっては辛い暮らしだった。待遇が不満なのではない。主人から頂く恩ばかりが増えて、恩に報いるのに十分な働きができないのだ。時には舶来する文献の整理を任されることもあるが、そんなでは満足するに遠く及ばない。
借りた恩を負ったままの魂は、死んでも神の里に帰ることができず、黄泉の岩根に塞がれた、暗い土の中の牢獄に囚われると、世々伝えて故老は謂う。そういう話しは誰もが幼い頃に聞かされている。
――恩を返さぬ腐ったやつ。
という誰かの陰口が耳に入ると、それが自分に向けられたのでなかったとしても、胸の底に重いものが沈殿するのを感じる。病でなくても死にそうな気分になる。
そういう時には、懐に手を入れて、一つの手拭いを取り出す。
(
教理の奥深い所は解らない。それでも念経すると、心が鎮まった。
死ねば、恩は返せない。生きるほどに債務は貯まるが、最期にはきっと命を捨てて報いる機会が得られよう。
氷田は、主君の恩を決して忘れていないという証に、馬子にかけて、こうま、即ち、
「
と名を改めた。
さて
(それを今宵は、何の話しに、おれを呼び出すのだろう)
駒は、広い庭を
駒より一足先に、馬子は浮き橋を踏む。板を縄で繋いで浮けただけのものだから、歩けば揺れて波がさざめく。馬子は考えを反復させる。
――もし。
それが
物事には、押しとどめられない勢いというものがある。今その力が、馬子の背を押している。かつて馬子がしたこともこの勢いを作る一部となっているのだ。
駒は、馬子よりも身軽に、すっと浮き橋を渡ってきた。
「近う、もそっと」
再三促されて、駒は馬子の肩に触れるほどの所に近づいた。馬子は駒の顔や息をする具合を窺う。体の調子は悪くなさそうだ。平生の容子からしても、急に走ったりしなければまず障りはないのだろう。
「実は、
と馬子は切り出す。馬子の末の
「王よりの重ねての仰せで、とうとう縁談をまとめることと相成ったが、わしも人の親。輿入れをする前に、一たび顔合わせをして、もし王が少しでも嫌な色を
馬子は駒の方に向き直る。
「ことがことだけに、人払いをして謁見を賜るが、誰か立ち会いをせねばならぬ。それをそちに頼みたいのじゃ」
駒は、馬子の意図を測りかねた。そんな用事なら、もっと体面良く使者を務められる人が、大臣の手には少なくない。しかもそれだけなら、こんな所で内密に話すまでもないことだ。きっとこの件には何か裏の使命があるのに違いないと、駒は答えずじっと大臣の次の句を待つ。
「これを取らす」
と馬子は、懐から一つの紙包みを取り出して、駒に差し出す。駒が手に受け取って、折り目を開いてみれば、月明かりにも鈍く沈んで、身は細くとも手に重る、鋭い鋼の五寸の針が、中に挟まっていた。
「宮人の口から聞くに、このごろ王には時おりにわかにご乱心なさることがあるとか。内裏に参らせるゆえ、脇差しも持たせられぬが、万一の時にはそれで身を守れ」
静かな宵闇に、冬の寒風が、びゅーっと吹いて、肺を刺した。
「これがそちに言い付ける最後の仕事じゃ。
という馬子の言葉で、駒は己の使命を完全に理解した。ついに積年の恩を返す日が来るのだ。
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