揺れる炎

 池辺直氷田いけべのあたいひたは、蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみの命を受けて、穴穂部王子あなほべのみこの宮へ潜入する。警戒の薄い裏手から、夜陰に紛れて濠に板を渡し、塀を越えて忍び込む。氷田は、大臣の供をして内裏などへも出入りしているから、主な王族の容姿や風采は見知っている。逆に貴公子流はこんな従者の顔など視もしないから都合が良い。暗い庭に潜んで時を待つ。

 東の空がかすかに白みかけるころ、折良く宮の正面に向けて微風が吹いた。

 にわかにタタタという物音が外から聞こえて、正門側の塀に火矢が立つ。木材の焼ける匂いが庭に流れ込む。虎口こぐちを固めていた衛兵は退かざるを得ない。さらに火種が邸内に投げこまれて、雨戸の隙間へも紅い光を差しこむ。こうなると中の人々は、まだ暗い内にどこかへ落ち延びてしまおうという思いつきで、火のない方をめがけてわっと動き始める。氷田はとっくに暗がりに目が慣れているので、慌てる人々の内に穴穂部王子の姿をもう見分けた。

「王子さま、こちらへおいでなせえ」

 と氷田はいかにも下人らしい口ぶりで、穴穂部に接近して声を掛ける。高貴な王子は賤しい召使いのことなど気にかけたことがなく、どんな顔が何人いるのかも頓着しない。

「濠に浮き橋をかけてござんす、裏口からお逃げんなってくだせえ」

 氷田を自分の下男と思って疑わず、言われるままに裏手の戸をくぐり、濠に浮けた板を踏んで走った。寄せ手は正面に集中していて、裏側は包囲を欠いている。

(おれは運がいいらしいぞ!)

 と穴穂部は思った。このまま物部守屋大連もののべのもりやのおおむらじの所へ抜けられれば、どうにか生きる道が開ける。下男に導かれて、太陽に追われるように西へ走る。

「そち、人目に立たず河内の国へ通れる道やあるか」

 と穴穂部は問うた。

「へえ、こちらへ」

 と下男の姿は答える。木々の生い茂ったなだらかな地形に入ったが、どこの山だか分からない。一緒に逃げてきたはずの人々は、いつの間にやら散り散りになって、自分を連れ出した男だけが前を歩いている。もし立ち止まれば、すぐにも追っ手の矢がかかりそうな気がする。振り向けば立ちのぼる煙が見える。

 とにかく歩いて行くと、このあたりの猟師でも使うのだろうむろが、森の中に一軒だけある。しばしこちらにお隠れなさい、とその男は言って戸を開け、かしこまって先に入るようにと促す。誰か先に辿りついたものか、中には何か煮炊きでもする気配がある。穴穂部は思わず空腹を感じて、そこへ頭を入れたが、

「王子、お待ちしておりました」

 と中から知った声で迎えられた。

「あっ」

 と叫んで、喉を震わせ、おう、おれは何も悪い考えは持っていない、どうか姉上に取りなしてくれよ、と声になったかどうか、一瞬、首筋に冷たいものを感じて、ドウと前のめりに倒れた。馬子はその場で穴穂部の死を確かめた。

 

 炊屋姫尊かしきやひめのみことと馬子は、守屋の追討には、なお慎重に手数をかけた。物部の縁者は諸国に多い。彼らが守屋のために動けば厄介なことになるかもしれない。馬子は監視や根回しを怠らない。守屋は王子の擁立に失敗したが、馬子には太后を後ろ盾とする強みがある。

 馬子は守屋の打とうとする手を、一つ一つ未然に潰していった。その一方で、善信尼ぜんしんのあまらを百済くだらの国へ留学させる手続きなども忘れなかった。

 七月、馬子は、紀臣男麻呂きのおみおまろ巨勢臣比良夫こせのおみひらぶ膳臣賀拕夫かしわでのおみかたぶ葛城臣烏那羅かづらきのおみおなら、さらには大伴連噛おおとものむらじくい阿倍臣人あへのおみひと平群臣神手へぐりのおみかむて坂本臣糠手さかもとのおみあらて春日臣仲君かすがのおみなかつきみなどの、重だった貴族連に、炊屋姫の名において号令し、いよいよ実力を行使する軍を興した。

 泊瀬部王子はつせべのみこは、竹田王子たけだのみこ難波王子なにわのみこ春日王子かすがのみこ、それに厩戸王子うまやとのみこらとともに、軍に随行することを炊屋姫より命じられた。

 軍勢は、やまとの国の平群へぐりより発して、信貴しぎ高安たかやすの峰に臨み、倭川を下って、河内の国の志紀しきみ、守屋の待つ渋河しぶのかわを目指した。

 馬子はとっくに勝算は固めている。どちらが有利かは明らかだ。しかしもし功を焦って攻め急げば、それだけ守屋に守り手の利点を活かした作戦の幅を与えることになる。馬子にとっての問題は、どれだけ少ない損失で勝つかにあった。守屋は自ら榎の枝間またに登って矢を射かけたりして、しきりに攻め手を挑発した。馬子は乗らない。矢も矛も無駄に費やすつもりはないのだ。

 王子らは、軍陣のはるか後方で戦況を眺めるという位置に留められていた。泊瀬部は、なぜここに自分が呼ばれたのか判らなかった。先だって親しい兄がなぜ太后から死を賜ったのか、それとこれがどうつながっているのかも知らない。とにかく争いが起きているという事実が見て取れるだけで、それが何を意味しているのかもよく解っていない。

 厩戸王子は、年かさの泊瀬部よりもずっと鋭敏に事件の意味を感じ取っている。額で結う髪型は、まだ年の頃せいぜい十五、六であることを表している。この紅顔の美少年は、他の誰よりも前に立ち、瞳を煌々と燃やして西のかたを望んでいた。

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