空位の陥穽

 物部守屋大連もののべのもりやのおおむらじは、怏々おうおうとさせられるような雰囲気を感じて、たまらず朝堂を後にした。池辺いけのえの宮から外に出ると、家来の捕鳥部万ととりべのよろずが馬を引いて馳せつける。

「恐れながら、殿を謗るような噂が流れているらしゅうございます」

 と万は忠告した。さきほど朝堂で見た人々の訝しい様子が、守屋の腑に落ちる。新嘗にいなえの儀式で、たちばな王に勧める神饌みけに毒を盛るとか、厭魅えんみのまじないをするなどということが、もし誰かにできるとすれば、それは守屋しかいない。しかしそれは守屋にとってありえないことだ。自分はたとえ王を裏切ることはあっても、先祖から受け継いだ祭儀を穢すようなことなどするはずがない。

 その時、向こうの道を、騎馬に率いられた一団が、松明を掲げて小駆けに走っていく。その道は守屋の家に通じている。

「あれは誰だ」

 と守屋が問うと、

土師連八嶋はじのむらじやしまかと見えます」

 と万が答えた。土師連八嶋は、蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみの配下である。とっぷり暮れた空の下で、守屋は疑いを募らせる。あの噂にしても、馬子がわしを陥れようとしてのものだ。八嶋が馳せていったのも、わしの退路を断とうというのに相違あるまい。守屋はその場で集められるだけの手勢を集めて、馬を河内の国の渋河しぶのかわの別荘に向けた。また別に万を難波の別荘にやって、衆を集めてそこを守らせることとした。

 橘王の病は軽くならず、七日して世を去った。炊屋姫尊かしきやひめのみことは、今年もまた葬礼を執行する身となった。今度のもがりは、その後すぐに始められた。守屋も渋河の家で哀哭の礼を行って、叛心なきことを示した。しかし馬子の罠があろうと疑って、やまとの国へは戻らなかった。

 五月になると、馬子は守屋の消息を覗いに、てがみを出した。守屋は、漢字というあやがびっしり並んでいるのなどは、ごく嫌いな方である。口と耳があるのだから、筆やら紙など必要ないではないか。馬子の使者が、文面を読み上げる。

「仲夏の候、いかがお過ごしでしょうか。こちらは穏やかに過ごしております。

 さてこのほどは大いなる不幸があり、王は我々を見捨ててゆかれました。葬礼を行うべきですが、大連がおられないので式が進みません。どうしてお戻りにならないのでしょうか。……」

 云々と。守屋は返事を書かない。伝えたいことは使者をやって伝えさせれば良い。そういう昔ながらのやり方で、守屋は少しの不便も感じていないつもりである。守屋の使者は馬子の所へ行って、主人の言葉を正確に伝える。

「この頃ようよう暑くなって参りますが、別に変わりはありません。

 わたくしが河内の国に退いたのは、朝臣の誰かがわたくしを陥れようと謀っていると聞いたからです。もしそれが根拠のない噂に過ぎないのであれば、どうか大臣のお力によって、安心して帰れるように取り計らっていただきたく存じます。……」

 云々と。

 こんなやりとりで時間を稼ぐ一方、守屋は穴穂部王子あなほべのみこを河内の国に迎えようと画策している。王座が空いている今の内に、穴穂部を擁して諸国に号令すれば勝算が立つ。王の金印は炊屋姫に押さえられているが、それは後で良い。物部の祭儀で即位さえさせてしまえば、海外へはともかく、倭人の間では立派にやまと王で通用するのだ。

 守屋は穴穂部の所へ密使を放った。王子には狩りの装いをして家を出てもらい、そのまま西へ峠を越えて河内入りさせるという計画だ。ところが馬子は馬子で抜かりなく警戒をしていた。守屋の密使は、馬子の手の者によって捕らえられた。謀は漏れ、守屋と穴穂部には、太后おおきさきに弓を引き国を傾けようとしたという疑いがかけられた。

 六月七日、炊屋姫は馬子をしてその配下の部将に命令を伝えさせた。

「穴穂部王子は、亡き広庭ひろにわ大王おおきみの子で、王の位を継ぐ資格を持っている。しかるに性格は粗放であり、日々いよいよ甚だしい。わたくしはしばしば教え諭して、行いが改まることを期待したが、かえって不平を述べて妾を謗った。昨年などは、殯の宮の奥の殿に押し入って、狼藉を働こうとさえした。今また物部の大連と謀って、宗廟に矢を向けようとしている。このままでは国を保つことができず、死んでも父上やわがに合わせる顔がない。よって汝らは、速やかに往きて、太后の名において穴穂部王子をつみせよ」

 馬子は部将らとともに兵を率いて、この日の夜半に穴穂部王子の宮を包囲した。空には雲が出て、上弦の月に目隠しをしている。穴穂部が異変に気付き、櫓に登って周囲を見回した時には、塀の外にはどこもかしこも松明がうごめいていた。

「いたぞ!」

 という声が響いたかと思うと、穴穂部の肩を鋭い衝撃が襲った。穴穂部は一本の矢とともに櫓から転げ落ちて、建物に逃げ入り、そのまま立て篭もった。屋敷の周りには濠が巡っていて、外とは橋一つでつながっている。正面の門には、こういう場合のために、まっすぐ走り込めない様に工夫がしてある。そこを虎口こぐちと呼ぶ。

 もし寄せ手が虎口から攻め入ろうとすれば、いかに多勢に無勢であるとしても、穴穂部方は守り手の利を活かして、勝てないまでも痛手を与えることができる。それを避けるなら、馬子方の作戦としては火攻めが考えられた。しかし王子を焼き殺してしまうと、確かに本人が死んだかどうか判らなくなる場合がある。後々、本当は生きのびているといった噂が立ったり、自分がその王子だと詐称する者が現れたりして、騒乱に発展する懸念がある。

 そこで馬子は池辺直氷田いけべのあたいひたを呼び寄せて、一つの仕事を命じた。

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