空位の陥穽
「恐れながら、殿を謗るような噂が流れているらしゅうございます」
と万は忠告した。さきほど朝堂で見た人々の訝しい様子が、守屋の腑に落ちる。
その時、向こうの道を、騎馬に率いられた一団が、松明を掲げて小駆けに走っていく。その道は守屋の家に通じている。
「あれは誰だ」
と守屋が問うと、
「
と万が答えた。土師連八嶋は、
橘王の病は軽くならず、七日して世を去った。
五月になると、馬子は守屋の消息を覗いに、
「仲夏の候、いかがお過ごしでしょうか。こちらは穏やかに過ごしております。
さてこのほどは大いなる不幸があり、王は我々を見捨ててゆかれました。葬礼を行うべきですが、大連がおられないので式が進みません。どうしてお戻りにならないのでしょうか。……」
云々と。守屋は返事を書かない。伝えたいことは使者をやって伝えさせれば良い。そういう昔ながらのやり方で、守屋は少しの不便も感じていないつもりである。守屋の使者は馬子の所へ行って、主人の言葉を正確に伝える。
「この頃ようよう暑くなって参りますが、別に変わりはありません。
わたくしが河内の国に退いたのは、朝臣の誰かがわたくしを陥れようと謀っていると聞いたからです。もしそれが根拠のない噂に過ぎないのであれば、どうか大臣のお力によって、安心して帰れるように取り計らっていただきたく存じます。……」
云々と。
こんなやりとりで時間を稼ぐ一方、守屋は
守屋は穴穂部の所へ密使を放った。王子には狩りの装いをして家を出てもらい、そのまま西へ峠を越えて河内入りさせるという計画だ。ところが馬子は馬子で抜かりなく警戒をしていた。守屋の密使は、馬子の手の者によって捕らえられた。謀は漏れ、守屋と穴穂部には、
六月七日、炊屋姫は馬子をしてその配下の部将に命令を伝えさせた。
「穴穂部王子は、亡き
馬子は部将らとともに兵を率いて、この日の夜半に穴穂部王子の宮を包囲した。空には雲が出て、上弦の月に目隠しをしている。穴穂部が異変に気付き、櫓に登って周囲を見回した時には、塀の外にはどこもかしこも松明がうごめいていた。
「いたぞ!」
という声が響いたかと思うと、穴穂部の肩を鋭い衝撃が襲った。穴穂部は一本の矢とともに櫓から転げ落ちて、建物に逃げ入り、そのまま立て篭もった。屋敷の周りには濠が巡っていて、外とは橋一つでつながっている。正面の門には、こういう場合のために、まっすぐ走り込めない様に工夫がしてある。そこを
もし寄せ手が虎口から攻め入ろうとすれば、いかに多勢に無勢であるとしても、穴穂部方は守り手の利を活かして、勝てないまでも痛手を与えることができる。それを避けるなら、馬子方の作戦としては火攻めが考えられた。しかし王子を焼き殺してしまうと、確かに本人が死んだかどうか判らなくなる場合がある。後々、本当は生きのびているといった噂が立ったり、自分がその王子だと詐称する者が現れたりして、騒乱に発展する懸念がある。
そこで馬子は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます