花の散りぎわ

 海石榴市つばきちの宮には、塀の外にも庭の中にも、海石榴つばきが植えられている。春に彩りを添えた花は、もうすっかり落ちて、緑の葉が朝の陽をてらてらと照り返している。

 物部守屋大連もののべのもりやのおおむらじは、身軽な者を木に登らせて、中の様子を窺わせてている。先ほどまでは雨戸の内に、ちらちらと人の気配が見えていたが、いつかふっとそれが消えて、包囲の兵士だけが、ざわざわとささやき声を立てている。斥候たちが建物の方を探ろうと、その方へ気を取られていると、不意にがさと木の葉がさやぐ音が鳴った。宮の庭に植わった海石榴の中で、ひときわ高く育って、外からもよく見える樹の上に、人々の目が注がれる。

「兄のみことより預かった矢を取らす。これで賊を射よのことだ」

 泊瀬部王子はつせべのみこは、穴穂部王子あなほべのみこえびらを守屋に与えた。守屋は、海石榴の上から辺りを見渡している人物を見据える。病気をする前なら躊躇なく弓を構えるところだが、今は間違いなく射落とすという自信がない。いくら気を落ち着けても、手が勝手に震えるのだ。ええ、忌々しいことばかりだ! 守屋は自分の家来で、弓の名人として知られる捕鳥部万ととりべのよろずを呼び寄せ、矢を手渡す。

「この矢は穴穂部の命の形代だ。一つたりとも外すことは許されん」

 万が弓を構えて、鏃をぎらと輝かせる。樹上の人物も守屋を睨んで眼を光らせる。

「いたな、誰が謀反を企んだのか知っているぞ」

 という三輪君逆みわのきみさかうの声が、守屋の耳には聞こえた様な気がした。守屋はかっと顔にいかりを表して、

「やれ!」

 と合図をする。緑ばかりの海石榴の枝に、ぱっと血の花が咲いて、はらりと落ちた。その様子を池辺直いけべのあたい氷田ひたは、包囲の陣営に紛れて見守っていた。

 守屋は衆を率いて池辺いけのえの宮まで戻り、穴穂部王子に復命をした。穴穂部は自分の矢に著いた血を観て溜飲を下げ、それを以て王位への望みにひとまずの償いとした。

 

 もがりの儀式が終わると、遅れている政治日程の上で次の課題は、昨年から行われていない新嘗にいなえ祭をいつ行うかだった。この儀式は、例年冬の半ば頃に行われ、秋に収穫した稲と粟を、王が自ら祖先に祭り、次の年の稔りを祈る。また特に、新たな王が最初に行う新嘗祭には、その即位を完成させる意味がある。この儀式によって王は、歴代のやまと王が継承してきた、はるか昔の始祖王の霊力をその身に迎える。これをしなければ、真の倭王として認められないのである。

 その儀式の前に、王は数ヶ月にわたって潔斎をしなければならない。儀式そのものも体に負担を強いる。病弱なたちばな王のために、この年の新嘗は先送りにされ、翌年の四月まで遅れてしまった。

 新嘗の宮は、磐余の河上の野に設営された。庭には群臣が参列するが、本儀は奥の殿中で秘かに行われ、王室の祭儀に関与する権能を持った限られた者の他は、誰も見ることは許されない。物部氏の長者が、王と祖霊の間を媒介する役目を負うしきたりである。

 まず守屋とその配下の神官数名が奥に入り、橘王と近習の宮人数名が呼び入れられる。太陽はまだ低い。朝臣たちは、各々が属する氏族の格に従って庭に整列し、しばし漏れ伝う音を聞くばかりの退屈な午前である。

 日がひるにやや近づく頃、にわかに奥の殿に宮人の出入りがあり、あわただしく医師くすしが呼ばれて中に入った。どうしたのかと人々がざわざわと声を交わしていると、人夫が輿を奥の庭へ運んでいく。やがて輿は出てくる。橘王は輿の上で、蒼い顔をして身を崩した姿をかいま見せる。王は池辺の宮へ運ばれる。その後を群臣が追う。新嘗の儀式は完了されなかった。

 雲が山を越えて至り、黒く垂れ込めて昼夜の境を曖昧にする。蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみは、寝殿に呼び入れられた。橘王は枕に頭をもたれさせて、近う寄れ、と絶えそうな声を絞って馬子を招く。その顔色は、この際だから煩瑣な作法はなしにせよ、と訴えている。馬子はいなびることなく、王の枕元に両膝をすり寄せた。

「新嘗の宮で、粟と稲を摂ったが、それがまだ胸にわだかまっている」

 王はみぞおちの辺りをさすると、あさっての方向に目配せをしてみせる。

「あれは、少しも効かぬぞ」

 外では、守屋が指揮を執って病気平癒の祈祷を行っている。王は、馬子の顔を間近く観た。かさの病に罹ったと聞いていたのに、その痕が全くない。そこで王は、馬子の病気が治った所以に思いを致した。

「予も仏ののりに頼りたいとおもう。どうか予のために計らってくれよ」

 王は守屋に祈祷の中止を命じた。守屋はしぶしぶ祭壇を片付けさせると、鼻柱に固い皺を寄せながら、奥の庭から朝堂へ入る。すると表の門から、とかいうけったいな服を着た、禿げ頭の高麗こま人が、穴穂部王子に連れられてやって来る。守屋は硬い表情を一層強ばらせた。しかしよく見ると、穴穂部王子だと思ったのは、実は泊瀬部王子だった。高麗人の方は、仏の道を行う恵弁えべんという人物である。二人は内裏へ向かった。

 守屋は幾重にも厭な気持ちになって、早く家に帰ろうかと思ったが、ふと気付くと、二、三の宮人が、守屋を見て何かひそひそと話しをしている。その方をきっと睨むと、目をそらして知らぬそぶりをする。朝堂を見回すと、他にもそんな手合いがいくらかいる。柱に身を寄せて耳をそばだてていると、毒がどうの、厭魅えんみがどうのとか言うらしく聞こえる。

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