海石榴市の宮へ

 広瀬に設営された亡き他田おさだ王のもがりの宮の奥の殿に、蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみは、従者の氷田ひたを連れて入っていく。背後では再び門が固く閉ざされる。氷田は庭に控え、馬子は殿舎の中へ招き入れられる。

 馬子が座敷に上がっていくと、炊屋姫尊かしきやひめのみことは二三の近習と何か耳打ち話しをしている。どうやら何が起きているのかとうにご存じらしい。炊屋姫は太后おおきさきとして上座で馬子を迎えたが、人払いをすると、姪として下座に移り、馬子に上座を勧める。馬子は慇懃に辞退をして、ともに下座に並んだ。

舅父おじさまのお考えの通りになさってください」

 と炊屋姫の方から切り出す。馬子がこの問題をどう処理するつもりなのかも察しているのだ。

(誰よりも頭の切れる人だ)

 と馬子は思う。それと同時に、もし自分の考えがこの姪の予想と違っていたら、という恐れも抱く。しかしまた必ず一致しているという自信も持っている。ただ馬子には、一つ懸念があった。あの三輪君逆みわのきみさかうという男は、他田王のお気に入りだったが、忠義が過ぎて融通が利かない所がある。今後の仕事をする上で邪魔になるかもしれず、この際だから抹殺しておくのも手だ。それについて炊屋姫はどう思っているだろう。

「逆も君主の恩に応えるために死ねるなら、命を惜しみはしますまい」

 馬子の問いを待たずに、炊屋姫はそう言った。そこで馬子は氷田を池辺いけのえの宮へ走らせた。氷田は自慢の脚にものをいわせて、韋駄天走りに走った。

 物部守屋大連ものべのもりやのおおむらじは、大それた野望を秘めながら、どうせ容易な仕事だと決め付けて、急ぎもせずに戦の装いをし、手勢を率いて池辺の宮に寄せた。宮の外周りの衛兵はもとより物部の郎党だから障害にならない。四方の門を差し固めさせて、宮人を呼び出し、三輪君逆はおるかと問えば、

「つい先ほどまでは王の御許みもとにおられました」

 との答えがある。だがどうもいつの間にやらお帰りになったらしい、という。人を入れて探させてはみたものの、確かに見当たらない。さてはこちらの動きを知って逃げたか、しまったな、

(どうもつまらないことになったぞ!)

 と守屋は舌打ちをした。守屋には逆など問題ではない。しかしまあ、穴穂部王子あなほべのみこが殺したがっていることだから、次の機会を狙うためにも片付けておかなければならぬ。逆が身を隠すなら、領地の三輪、中でも三輪山だろう。空は暮れかかっている。守屋は手勢をやって三輪山を探らせる。その一方で、穴穂部王子の家に参向して、その庭に本陣を設け、大将の位置に王子を座らせた。

 逆は、その夜、氷田に伴われ、人目を忍んで、海石榴市つばきちの宮に入った。この宮は、炊屋姫の別荘だが、市が立つ所に近いため人の往来が多い。それで流行り病が入るのを恐れて、昨年から閉鎖され、この時もひっそりとして無人だった。雨戸の隙間から北東を望めば、星明かりに山なみが黒く浮かぶ。

「やあ、ありがたい。三輪山を眺めながら末期の酒が呑めるわい」

 氷田はわずかばかりの飯と酒を並べる。

「三輪どの、よろしいか」

 逆は杯を取って氷田の酌を受ける。この忠臣は、どのみち他田王に殉死するつもりだったらしい、と氷田は感じ取る。

「かたじけないのう。太后さまと蘇我どのにもよろしく伝えて下され」

 逆は多くを語らず、ただ一杯の酒を飲み干した。

 翌朝、本陣で待つ守屋のもとに、探索方からの報せが届いた。明け方、三輪君のうがら白堤しらつつみ横山よこやまと名のる二人が現れて、逆は海石榴市の宮に隠れていると告げた、と云う。

(どうも嘘くさい名前だな)

 と守屋は訝った。白堤、横山などいうのは、たしか三輪の所領の小さい字名あざなにあったはずだ。それだけにできすぎている。その二人を連れて来させようとしたが、もう姿を消したという。そこで斥候を海石榴市の宮へやって探らせると、はたして本当に逆らしい者が潜んでいるのを見つけた。報告を受けた穴穂部王子は、

「汝、行って逆を討て。おれも後から行くぞ」

 と守屋に命じた。守屋はさっそく兵を率いて発つ。穴穂部も戦の装いを整えて、門を出ようとすると、そこへ馬子が馳せてきた。馬子はこの血気盛んな王子を、守屋からはできるだけ離しておきたい。

「王子ともあろうお方が、罪人に近づくなど忌むべきことです。自らおいでになることもありますまい」

 と馬子は諫めた。穴穂部はそれを聴かず、そこをどけよと押して通る。泊瀬部王子はつせべのみこはこの時、穴穂部と行動をともにしている。泊瀬部には何という考えもなく、こういう事には複雑な裏表があるものだとも思わずに、ただ漠然と親しい兄に同情をしていた。穴穂部に泊瀬部が従い、馬子も後を追った。

 海石榴市へ向かって、磐余いわれの地、池辺いけのえの宮に近い所まで来ると、馬子はまた再三諫めを延べて王子の耳を患わせた。それでようやく穴穂部も気が変わって、

「代わりに弟を往かせるぞ。それなら良かろう」

 と言って、ここで待つことにした。そして自分の甲冑と弓矢を泊瀬部に帯びさせて、海石榴市の宮へと送り出したのだった。

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