仏の飄泊

 他田おさだ王は、父広庭ひろにわ王の体制と政策を、そっくり受け継いだ。物部もののべ蘇我そがという二大貴族の長者を重く用いることももとの如くである。物部氏からは、さき大連おおむらじである尾輿おこしの子、守屋もりやが大連となり、蘇我氏からは、前の大臣おおおみである稲目いなめの子、馬子うまこが大臣となった。仏と呼ばれる、海外から寄りつく神に対する慎重な姿勢も先代のままだった。

 仏のことは、広庭王の世に溯る。そのころ、仏の像が、諸国の海岸に度々流れ着いた。また、からの諸国から贈り物としてもたらされることもあった。特に百済くだら聖明しょうみょう王から金銅の釈迦像が送られてきた時などは、それが王から王への贈答品でもあるだけに、どう扱うかが政治上の問題となった。百済王の使者は、

「仏ののりは諸々の法の中で、最も優れています。遠くは天竺より、ここに百済に至るまで、その教えを尊び敬わずということ無し。仏の、我が法は東へ伝わらん、とのたまえることを果たしましょう」

 とその君主の言葉を伝えた。

 広庭王は群臣に意見を求めた。

「百済王より贈られた異国の神の像はきらぎらしく、今まで見たこともないものだ。祀るべきか否か」

 稲目は答えた。曰く、

「仏教は、はるか西のかた天竺なる国に起こり、それより東へ伝わって、百済、新羅しらきに至るまで、敬わざる国はない。どうして独りわがくにのみ背けましょうか」

 反対意見を述べたのは、尾輿である。

「大王がやまと王たりうるのは、我らが島々の百八十神ももやそがみをば、季節ごとの礼を以て、一つ所に祭っておられるからであります。それを改めて異国の神を拝みたまえば、恐るらくは国つ神の怒りを招きましょう」

 祭儀を執行する職能を以て歴代の王府に仕えてきた物部氏の立場からして、仏教など納れることは認められない。物部流の神道では、海から漂い来る神は、海に帰すのが作法である。だから尾輿にはそうする義務がある。

 稲目にとって仏教は、祭儀よりもまず外交の問題だった。今や仏教は世界を風靡し、これを知らない者など、海外では格下に見られるのである。それに最新の知識や技術は、仏教を媒介として流通している。わが邦の発展のためには、これを採用しなくてはなるまい。

 尾輿はかさねて反駁する。昔から病が流行るのは、異国の神を容れる者に国つ神の心が祟るからである。今わがはかりごとを用いたまわざれば、必ずまた疫病を招く。早く流しやって、国つ神のさいわいを求めたまえ。

 慎重な王は、判断に迷いを持ったものの、結局は保守的な尾輿の意見を採った。尾輿は仏像の魂を、依り代とする木の人形に移して、難波なにわの堀江から海へ流した。そうした古めかしい儀式などは、進歩的な稲目から見れば滑稽なものだった。

 稲目は広庭王の晩年に世を去った。馬子は父の、仏教によってこの邦を時代遅れと国際的孤立から救う、という志を受け継いだ。もう一人の仏教派は、王女、炊屋姫尊かしきやひめのみことである。

 炊屋姫は、広庭王の第十三年に生まれた。容姿は端麗、挙措は乱れず、人を従わせる才能があった。他田王の第四年に、正妃の広姫ひろひめが夭折すると、炊屋姫はその地位に取って代わった。炊屋姫は、他田王の仏教に対する姿勢を次第に軟化させた。他田王の第十三年に、馬子が百済の国から仏陀の像と弥勒の像を取りよせたことは、炊屋姫の影響力のもとで黙認されたのである。

 さらに馬子は、かねて密かに高麗こまの国より招いて、針間はりまの国に隠棲させておいた法師恵便えべんと尼僧法明ほうみょうを呼び寄せた。迎えには、東漢池辺直氷田やまとのあやのいけべのあたいひたと、鞍部村主司馬達等くらつくりのすぐりしめだちとを行かせた。家と別荘の、それぞれ一角を割いて仏殿を営み、恵便と法明をそこに居らせ、三人の女性を出家させて法明の弟子とした。司馬達等のむすめしま、戒名は善信ぜんしん漢人夜菩あやひとやぼの女、豊女とよめ、戒名は禅蔵ぜんぞう錦織壷にしこりのつぶの女、石女いしめ、戒名は恵善えぜん、この三人である。翌年には、初の舎利塔を大野の丘に建て、そこで法会ほうえを催した。そこまでを、黙々ながら公然とやりおおせた馬子の次の課題は、仏教に他田王の公認を取りつけることである。

 おりから、巷では流行り病で多くの死者が出ていた。それは西からやって来た。くれの国やからの諸国から筑紫つくしの国へ、筑紫から難波へ、舟に乗って病魔はやって来た。初めは船乗りがその病気に罹った。その家族も同じ病気になり、それを哀れに思って世話をした人にもうつった。病魔は、難波から川をさかのぼって、倭の国にも入ってきた。患った者は、まず急に高い熱が出て、身に打たれる様な痛みを覚える。三、四日するといったん解熱するかにみえるが、それから全身に無数のかさができる。また五、六日すると再び高熱となり、身を灼かれ砕かれるような痛みに苦しみながら死ぬ。治癒しても瘡の痕がのこり、のちに肺を病んだり、悪い血がたまったりして死ぬ者もある。

 やがて伝染を恐れて世話をしようという者もいなくなり、そうなると病人は食うものも食えず、独り泣きいさちつつ死んだ。死ねば家ごと燃やされ、その煙は野に溢ちた。ただ運良く治癒した者は二度と罹らないらしいことがわかってからは、そうした者たちが病人の世話や遺骸の処理に当たった。

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