崇峻天皇は死んだ

敲達咖哪

暗殺

 崇峻天皇は、その治世第五年の十一月三日に暗殺された。この年は、隋の文帝の開皇十一年、高麗こま嬰陽えいよう王の三年、百済くだら威徳いとく王の三十九年、新羅しらき真平しんへい王の十四年、西暦では592年に当たる。当時は天皇号はまだ無く、実際の地位はやまと王で、その人物は泊瀬部はつせべ王と呼ばれていた。追尊して崇峻天皇とおくりなされるのは、これより百数十年後のことである。

 殺害の現場は、倭の国の平野部の南端、山の尾の狭間に入り込んだ倉梯くらはしという土地である。倉梯の宮は、王宮とは名ばかりかと思わせる寂しい所に在った。

 王は、死が迫る間に、自分を刺した男の顔を見た。かさの痕がうろこをなし、肺病みらしく障りのある息を切らせている。土気色の皮膚の中に、澄んだ瞳の輝きが二つの穴を開けている。この男は確か、蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみの使者で、東漢直駒やまとのあやのあたいこまなる人物だったはずだ。

 もう一人、誰だったか女の気配がある。ついさっきまで誰だか判っていたのだが、もう思い出せない。王の眼は誰の姿も捉えることはできなくなった。ただ微かに光を感じ、それも限りなく暗くなっていく。生を死へと追いやる強い手、抗えない大きな力が声を発する。

 ――目を閉ざすがよい。汝の時は過ぎた。その国、民、全ての宝は、新たな主を迎えなければならぬ。天なる父の子は、全てわが征服するところとなるのだ。

 王は思う。この国、民、全ての宝は、我が物ではなかった。この世の栄光はもとよりこの手に付くものではなかった。今はなおさら遠ざかるだけである。


 世間は全てかりそめ、死ぬことだけが真実だ――


 泊瀬部王は、広庭ひろにわ王(欽明天皇)の第十二子であり、祖父は彦太ひこふと王(継体天皇)である。彦太王は、高志こしの国と淡海おうみの国の王であった。その時に倭の国では、王家が断絶して継嗣が無かったので、彦太王が招かれて新たに倭王となった。

 彦太王は、尾張連草香おわりのむらじくさかむすめ目子媛めのこひめとの間に、勾王子まがりのみこ高田王子たかたのみこを生んだ。また、旧王家の手白香姫たしらかひめとの間に、広庭王子を生んだ。次に、三尾角折君みおのつのおりのきみの妹、稚子媛わかこひめは、大郎王子おおいらつこのみこ出雲王女いずものみこを生んだ。次に、坂田大跨公さかたのおおまたのきみの女、広媛ひろひめは、三女を産んだ。神前王女かむさきのみこ茨田王女まむたのみこ馬来田王女うまぐたのみこである。息長真手公おきながのまてのきみの女、麻績娘子おみのいらつめは、荳角王女ささげのみこを生んだ。茨田連小望まむたのむらじおもちの女、関媛せきひめは三女を産んだ。茨田王女まむたのみこ白坂王女しらさかのみこ小野王女おののみこである。三尾君堅楲みおのきみさかたひの女、倭媛やまとひめは、二女二男を産んだ。大娘子王女おおいらつめのみこ椀子王子まろこのみこ耳王子みみのみこ赤姫王女あかひめのみこである。和珥臣河内わにのおみかうちの女、荑媛はえひめは、二女一男を産んだ。稚綾媛王女わかやひめのみこ円娘王女つぶらのいらつめのみこ厚王子あつのみこである。根公ねのきみの女、広媛ひろひめは、兎王子うさぎのみこ中王子なかつみこを生んだ。大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじ物部麁鹿火大連もののべのあらかいのおおむらじ巨勢男人大臣こせのおひとのおおおみが治世をたすけた。

 彦太王は三人の王子に領地を分け与えたが、二人の兄は早くに死んだので、結局のところ全て広庭王が継ぐところとなった。

 広庭王は、六人の妃との間に、十五男八女を儲けた。正妃、王の姪、石姫いしひめは、箭田王子やたのみこ他田王子おさだのみこ笠縫王女かさぬいのみこを生んだ。石姫の女弟いもうと稚綾姫わかやひめは、石上王子いそのかみのみこを生んだ。またの女弟、日影姫ひかげひめは、倉王子くらのみこを生んだ。次に、蘇我稲目大臣そがのいなめのおおおみの女、堅塩媛きたしひめは、七男六女を産んだ。橘王子たちばなのみこ磐隈王女いわくまのみこ臈嘴鳥王子あとりのみこ額田部王女ぬかたべのみこまたの名は炊屋姫尊かしきやひめのみこと椀子王子まろこのみこ大宅王女おおやけのみこ石上部王子いそのかみべのみこ山背王子やましろのみこ大伴王女おおとものみこ桜井王子さくらいのみこ肩野王女かたののみこ稚子王子わくごのみこ舎人王女とねりのみこである。次に、堅塩媛の女弟、小姉君おあねのきみは、四男一女を産んだ。茨城王子うまらきのみこ葛城王子かつらきのみこ間人王女はしひとのみこ穴穂部王子あなほべのみこ泊瀬部王子はつせべのみこである。次に、春日臣日爪かすがのおみひつめの女、糠子あらこは、山田王女やまだのみこ麻呂王子まろのみこを生んだ。大伴金村大連、物部尾輿大連もののべのおこしのおおむらじ、蘇我稲目大臣が政治をたすけた。

 広庭王は治世三十有余年にして薨去し、翌年に他田王子が立って倭王となった(敏達天皇)。他田王は、四人の妃との間に、六男十女を儲けた。前の正妃、息長真手公おきながのまてのきみの女、広姫ひろひめは、押坂王子おしさかのみこ逆登王女さかのぼりのみこ磯津貝王女しつかいのみこを生んだ。春日臣仲君かすがのおみなかつきみの女、老女子おみなご夫人は、難波王子なにわのみこ春日王子かすがのみこ桑田王女くわたのみこ大派王子おおまたのみこを生んだ。伊勢大鹿首小熊いせのおおかのおびとおぐまの女、兎名子うなこ夫人は、太姫王女ふとひめのみこ糠手姫王女あらてひめのみこを生んだ。後の正妃、炊屋姫尊は、二男五女を産んだ。貝蛸王女かいだこのみこ竹田王子たけだのみこ小墾田王女おはりだのみこ鵜守王女うもりのみこ尾張王子おわりのみこ田眼王女ためのみこ弓張王女ゆみはりのみこである。物部守屋大連もののべのもりやのおおむらじ、蘇我馬子大臣が輔佐の位を継いだ。

 他田王が位に即いたとき、兄弟が何人生存していたか、泊瀬部王子はしかとは覚えなかった。同じ父の子でも、母が違えば親しくするとは限らないもので、実際に兄弟が何人いるのかも正確には把握していなかった。確か上の一人か二人かは早くに死んでいたはずだが、それにしてもすえの方の弟である自分には、兄が王となってからも、政治向きのことには大して関わることもない。。他田王は健康そのもので、父の王と同じく長く国を治めると期待されていたし、子宝にも恵まれていた。きっと兄の王が天寿を全うするころには、跡継ぎは十分に成長して、自分はといえばもう老人になっている。王座などというものに縁があるのではなし、富貴な身分をたのしみながら気楽な一生が送れるはずだったのだ。

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