風鈴

青山天音

6月の空気がじっとりと肌にまとわりつく。

 壁の薄い1Kのボロアパートでは隣の部屋のテレビの音すら防ぐことはできない。

窓を閉め切った部屋の中、愛用の眼鏡が汗でずり落ちた瞬間、ついに風鈴が鳴った。

「あなたは私の親類縁者の方?」

 ちりん。

「もしやあなたは僕のおじいちゃん?」

 ちりんちりん。今度は2回。

慌てて手元にある古めかしい書物のページをめくる。

「1回の場合は『是』、2回の場合は『否』の合図。ということは、ノーということなんですね!」

 ちりん。

 そう、僕は今、降霊術を行っているのだ。

 僕は内心おののきながら、親戚の名前を片端から挙げて行く。

なにしろこの風鈴に降りた霊は、是非しか問えない。

つまり、イエスかノーでしか答えてくれないのだ。

「…するとあなたは私の曽祖父のいとこの娘の子供、もしかして正三郎さん?」

 ちりん。

128番目の質問を口にした時、ようやく風鈴はため息のような音を1回鳴らした。

うーん。一応親類縁者にあたるのだろうけど。

一抹の不安が胸中をよぎる。

しかし、贅沢を言っている場合ではない。


 僕の実家には蔵がある。

ゴールデンウィークに母から呼び出されていってみると、蔵の虫干しを手伝えといわれ、蔵の中のものと一緒に日向ぼっこをすることになった。

日長1日、暇を持て余して並べられた品物を見聞していたところ、その中に古めかしい怪しげな桐の箱を発見したのだった。


 組紐を解いてカビ臭い箱を開けてみると、中には筆でしたためられた和綴じの本と年代物の風鈴。

流麗な草書で書かれた本のタイトルは「秘伝の書 門外不出の事」。

その日から僕はこの怪しい古文書に夢中になった。

父に頼み込んで譲ってもらい、仕事が終わると夜なべして古文書の読み方を猛勉強し、古今東西の降霊術についての言い伝えを隅から隅まで調べ尽くし、ようやく、本に書かれた「秘伝」を体得するに至ったのだ。


 僕は姿勢を正して眼鏡をかけ直し、窓に下げた風鈴に改めて向き直り、恐る恐る問いかけた。

「では、正三郎さん、質問、というかお願いがあります。聞いてもらえますか?」

 ちりん。

「実は私、今、ちょっと悩み事がありまして…」

みるみる自分の顔が赤面してゆくのを感じながら僕は早口でまくし立てた。

「あの、その、実はす、好きな人ができましてっ!」

沈黙が話を先にすすめろ、と促す。

「そこでその人と結ばれるかどうかを教えていただきたくて…お出ましいただいた次第でございますです…私の恋は叶うのでしょうか?」

しばし沈黙が流れた後、風鈴が鳴った。

 ちりん!

「1回! 1回ということはイエスということなんですね!」

ちりん!

自信ありげに風鈴は鳴り、そして沈黙した。

「やった! ありがとうございます!」

僕は六畳一間のアパートの中で一人、ガッツポーズを決めた。


 意中の人というのはこのアパートの2階に住んでいる僕と同い年くらいの女性のことだ。

ゴミ出しの時によく会うという程度で、名前も知らない。

ただ、学生という年齢でもなく、かといって、どこかに出かけて仕事をしているわけでもなく、大抵は家にこもったきりで、一体なにを生業にしているのかもよくわからない。

 一つわかっているのは、毎晩、僕が仕事から帰って一息ついいている時間、つまり7時45分頃になると、大きなバッグを持って部屋に鍵をかけ、どこぞに出かけてゆくことだ。

実は一度、好奇心からこっそり後をつけてみたことがある。

すると彼女は10分ほど歩いたところにある駅前の銭湯「竹の湯」を目指していた。

 すっかり常連の様子で番頭と談笑しながら女湯の暖簾をくぐる彼女を見送って、僕はラウンジの隅にあるベンチに腰をかけ、新聞を読むふりをして彼女が出てくるのを待つことにした。

しばらくすると風呂上がりの彼女が出てきた。時刻はちょうど8時25分。

風呂を出た彼女は、自販機で買ったいちごオレの瓶を片手に扇風機がよく当たるベンチに腰をかけて涼み始めた。そしてきっかり8時45になると席を立ち、湯上りで上気したおでこを夜風に当てながらアパートに帰っていったのだった…。

 その日から、僕は夜の9時になると、エアコンを切って、夜風を入れるためと言い訳しながら細く窓を開けておくことにした。

すると彼女の帰宅とともに、ふんわりと石鹸の匂いが窓伝いに漂ってくる。その石鹸の香りは毎日のように、僕の部屋をきっちり同じ時刻に訪れ、その香りを嗅ぎながら僕は自然といちごオレやらあの汗ばんだおでこやらを思い出すこととなり…そうこうしているうちに、どうやら僕は彼女に恋をしてしまったようなのだ。

 相変わらず彼女のことは他には何一つとして知らないのだけど…そう、そしてようやく風鈴、いや正三郎さんとコンタクトが取れた今、彼女について知見を深めるチャンスがやってきたのだ!


「で? ど、どうすれば僕は彼女に気持ちを伝えられるのでしょう?」

畳み掛けるように僕は風鈴に向かってたずねた。

しかし風鈴は沈黙したままだ。

「あ、そうか。イエスかノーでしか答えられないんだっけ、ええと、」

僕は思案の末、次の質問を発した。

「僕はいますぐ彼女の部屋に行って告白したら?」

風鈴はちりんちりんとイライラとした様子で激しく音を立てた。

「そう、ですよね。正三郎さんの言う通りだ。さすがにいきなりは無理に決まっていますよね。…じゃあ、僕も銭湯に通って偶然を装い、さりげなくお近づきになる」

ちりんちりん。

「ああ、この部屋、風呂がついているのに、不自然ですよね。まるで待ち伏せているみたいで、あはは!」


「じゃあ、これはどうかな。彼女の部屋の前に僕の名前入りのハンカチか何かを落とすとか」

ちりんちりん。

「うーん、気がつかれないかも…か」


「じゃあ、彼女のポストに僕宛のダイレクトメールとか、わざと間違えて入れてみる?」

チリンチリン…

「え、それは犯罪すれすれ…確かにごもっとも」


「じゃあ、じゃあ、朝彼女がゴミ出しにゆく時に、背広を着た僕が食パンをくわえて家をとびだし、ぶつかる…」

ちりんちりん!

「さすがにあり得ないよねえ…」


 それから僕は『彼女とお近づきになる方法』について思いた端から質問を繰り返した。

しかし、風鈴は「ノー」の一点張り。

頭を振り絞って考えた186個目の質問も言下に否定され、とうとう僕は万策尽きてしまった。ふてくされて思わず叫ぶ。

「じゃあ、どうしろっていうんだ! 何にもするなってことかよ!」

すると、風鈴は涼しげにイエス、と答えた。

「『何もするな』ってなんだよ! 正三郎さんよぅ! このまま座っていろってことか」

 ちりん。

「ああ、もうお手あげだ!」


 ピンポーン


 唐突に玄関のチャイムが鳴った。

ハッとして時計を見ると短針は夜中の1時を指している。

隣の部屋から聞こえていたテレビの音ももうしない。

…こんな時間に、誰だ?


「どなた様ですか?」

僕は扉越しに小さく尋ねた。

 すると聞こえてきたのは女性の声。

「上の階に住んでいる者なんですけど、あの、ちょっとお話が」

あわてて扉を開けると、なんと件の彼女が立っていた。

「あの、風鈴の音、この部屋ですよね。ちょっとなんとかしてもらえませんか? 気になってしかたないんですけど…」

 全身から冷や汗がどっと噴き出した。

どうやらボロアパートの薄い壁伝いに風鈴の音が這い上がっていったらしい。

これでは恋愛が成就するどころかかえって逆効果だ!


『あああ…もうだめだ!』

僕は心の中で頭を抱えた。


 しかし、その時、彼女が言った。

「あの、それで…これ、もしよかったら」

差し出されたのは大きなどんぶり鉢に入った煮物!

ラップできっちり蓋をされていたが、彼女が目の前でラップを剥がすともうもうと湯気が立ち上り、瞬間、僕のメガネが真っ白に曇った。

曇ったメガネの向こうで彼女の声がした。

「これはイカと大根を煮付けたもの、なんですけど、私、実は締め切りが近くて、忙しいんですよ。

でも風鈴の音がきになってなんだか仕事にならないし…

あ、私、在宅で物書きの仕事をしているんですよ。しょっちゅう家にいるの、わかりません?こういう時にうるさい音ならされちゃったら気になって集中できないんですよ!

で、気分転換にこれを作り始めたら、なんだか作りすぎちゃったみたいで…。

だから、このイカ大根、責任取ってもらってくれません?

器は後で返してくれたらいいですから!」

 

 眼鏡を拭いて掛け直すとようやく彼女の顔が見えた。

きつい言葉とは裏腹に、彼女の顔はにかんで真っ赤!

僕はやっとの事で言葉を返した。

「…え、いただいちゃっていいんですか?」

 手渡されたどんぶり鉢のあたたかな温もりを手に感じながら、幸せの絶頂にいる僕の背後で、風鈴、いや正三郎さんは、満足げに1回、ちりんと鳴った。


                                 (了)

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風鈴 青山天音 @amane2018

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