人魚の呪い
敵方の兵士に見つからない様に、騒ぎが起こっている城の中庭が見渡せる場所にいどうすると、松明の炊かれた庭に兵士に急き立てられ街の住人達が大勢入って来た。何事かと不安そうな彼等が王の前にすわらされ、暫くすると、何かを乗せた荷車が引かれて入って来た。
王はそれを見て口元を醜く吊り上げた。
乗せられているのは、無残に切り裂かれ息絶え絶えのドルーチェだった。人ならばとっくに絶命していてもおかしくない状態だが、彼女はまだ生きていた。
「なんと言う惨い事を。」
「お止め下され、陛下。人魚を焼き殺すなど。海の神の怒りをかって、祟りが起きまする。」
王は、人々の言葉をせせら笑った。
「ただの獣だ。何匹殺そうと構わんわい。」
力の誇示が目的としても訳が分からない。何か恨みでも有ると言うのだろうか。
「かわいそうに、まだ息をしているよ。」
「ランドー様は……ランドー様は
町衆の言葉を、王は更に笑った。
「あの者は謀反人ぞ。明朝処刑してやる。」
「まっ、まさか。あの方に限ってその様な。」
「あぁっ、海がお怒りじゃ。お助けを!」
よく見ると、集められているのは年寄りと女子供ばかりだった。男達は瑠海の頼みも聞かず密かに蜂起しているのではあるまいか。漠然とした不安に、柱の陰から見ている瑠海は焦る心をどうしようもなかった。
そんな瑠海の心配を思ってか、ランドーが言った。
「無抵抗な民を傷付けはしないだろう。むしろ彼等に見せ付ける事が目的だからな。」
王の兵達は、ぐったりと動かないドルーチェを中庭の真中に作った台の上に付き出した様に立てた一本の杭に、人で言えば座った格好で縛り付け、周りに薪を積み上げ始めた。俯いた彼女の顔には以前の面影は無く、海の獣そのもの、耳まで裂けた口元で牙がガチガチと音を立てていた。
「どうか、お止め下され。神の怒りが海を荒れさせ、人が大勢死にまする。」
街の者達は一人残らず頭を抱え、地面に平伏し祈り始めた。
「愚か者等めが。祟りなど起こりはせぬ!」
そう言って突き出した拳に、黒い大きなアザが有るのを瑠海は見た。シャルルを殺害した際、赤ん坊に尾鰭で叩かれた痕だ。彼女には、それがまるで蠢いている様に見えた。
「ランドー、王様の腕を見た?」
「アレと同じ毒か。」
瑠海は、遠目にも血の気を失ったドルーチェの顔を見詰め、唇を噛んだ。
「何であんな風に彼女を曝し物にしなくちゃならないの? 人魚って、そもそも関わってはいけない者じゃないの?」
「私にも分からない。ただなぶり殺しにしたいだけとしか思えない。あまりに惨い。」
その時……中庭が一層騒がしくなった。
「陛下、見付けて参りました。」
庭の入り口に視線をやると、一人の兵士が、あのドルーチェの赤ん坊の首根っこを掴んで、意気揚々と中庭に入って来るところだった。
飛び出そうとする瑠海をランドーが止めた。
赤ん坊は生まれたばかりと言うのに身をくねらせ、激しい威嚇音を立てて抵抗している。
「おとなしくしろ!」
兵士は、小さな彼を無造作にドルーチェの足元に放り出した。その時、赤子の尾の所から水しぶきの様な光が四方八方に飛び散り、周りを取り囲んだ兵士達の頭上に降り注いだ。彼等は或る者は顔を、或る者は手を、虫に刺された時の様に軽く掻き始めた。
「ねぇ……今のももしかして毒針……」
「幼くても、あの子も人魚だ。変化が始まるかもしれん。今夜は図らずも満月。全ては神のみぞ知るだ。」
瑠海は、鳥肌が立って来るのを感じた。
「火を掛けろ!」
王の残酷な下知が飛び、兵士達は何か言い様の無い不気味な高揚感に騒然として、異様にギラギラと目を光らせ、手にした松明で積み上げられた木に火を付けようと近付いたが、異変はその時既に起きつつあった。一人、また一人と、彼等は地面に倒れ始めたのだ。
「何をもたもたしておるのだ!」
彼等の様子に苛立ち、駆け寄る王の右手が黒くなり始めているのを瑠海は見た。彼は痛みも何も感じないのか、見る見る内に変化の範囲は顔にまで及んだ。
王は、動かない兵士の胸ぐらをまるでボロ布の様に掴んだが、彼等が既に血の気の無い躯となっている事に気付くと放り出した。
「こっ……これはっ! 死んでいる。」
(えっ、……小さくても針に刺された者は死ぬの?)
瑠海も目を見張った。てっきり人魚の毒は、あくまで生きた人の脳を侵し凶暴な行動を引き起こすもので、まさかその行動が絶命した後だとは思っていなかったのだ。
ようやく自らの腕の変異を目にし、王は真っ黒く変色した皮膚を振り払おうと闇雲に振り回した。
連れて来られていた町の老人達は、震えながら思わず手を握り合って立ち上がった。
「海の祟りじゃ。お助け下され。この通り、人魚はお返しますじゃ。」
目の前で怪物に変化して行く王を見た彼等は、口々に恐怖の叫びを上げ、蜘蛛の子を散らす様にワラワラと逃げ出した。
雄叫びが城内にも響いた時、王は最早人の姿ではなかった。
騒然と見守るランドーと瑠海の視界の中、今まさに血を吸った様な赤く不気味な光を湛え、月が山の稜線から顔を出そうとしていた。
ドルーチェではない別の人魚の声が、瑠海の頭の中に囁いた。
〈血を受けた者は呪われ、恨みの毒によって帰れぬ海に引き裂かれるのだ。〉
「……誰?」
瑠海の呟きに振り返るランドーだったが、 そこへ、物陰からラキアが現れ、静かに囁く様な声で彼に耳打ちした。
「城内の敵捕縛及び中庭の配置完了です。捕らえた国王の私兵の一人が、殿下を殺害したのは確かに国王だと証言致しました。現場にいた国王の侍従も確保致しました」
ラキアは目の前で起きつつある光景に絶句した。彼等の視界の中で死んだ筈の兵士達が次々に立ち上がったのだ。
「あれは一体。何が起こっているのです。」
「これが、人魚の祟りと言われて来た現象らしい。人魚の毒により死んだ者が蘇り無差別に人を襲う。ただ生きながらにして怪物に成り果てる者もいるという事だ。」
「国王は……いえ、謀反人は?」
「あの怪物だ。連れて来られた町の者達を城から出した後、城門を堅く閉じろ。決してアレを外に出すな。恐れる者は外にて待て。」
「逃げ出す腰抜けなど、一人もおりません。」
「頼もしい言葉だ。行け。」
顔を下げ、ラキアが夜陰に紛れて行った。
グォーーー!
咆哮にランドーが振り返ると、怪物と兵士達の濁った目が、ドルーチェの躯を見ていた。
その時、彼女が顔を上げ、赤く光る目を見開き彼等を見ると、耳障りな人魚の声で唸った。正に執念と言うに相応しい響きだった。
〈私が欲しくば、互いに殺し合え。最後に生き残った唯一人の者に私をくれてやる。〉
兵士達は一瞬動きを止めたが、彼女の言葉が合図とばかりに動き出した。
爪と牙で互いに掴み合い、相手の首筋に噛み付こうと縺れ合った。これが元人間だったとは考えられないまるで地獄絵図さながらの光景だった。
どれくらいそれが続いただろうか、やがて闘いは決した。
月の光に鈍く光る王の宝剣を手にした一匹の怪物が、圧倒的な力で他を倒し、累々と重なり合って血を流す亡者どもの上に立っていた。
奴は鼻息も荒くドルーチェに近付いた。彼女の足元で、激しく威嚇しながら足に噛み付いてくる赤ん坊を振り払い、縛られている彼女に牙を剥いて卑しい笑いを見せた。
ドルーチェの目が怪物を見た。
〈
彼女の声は、既に肉声ではなく、その場に残った怨念とでも言うべき響きだった。
彼女の腐って溶け始めた身体を、怪物は柱からむしり取った。
その時、空を切る唸りと共にその手の甲に一本の矢が突き刺さった。
振り返る怪物の赤い目に、2矢目を番えたランドーが映った。怪物はニヤリと笑うと、ドルーチェを放り出し彼に正面を向けた。
「恥辱に耐えかね、首を括ったかと思えば。」
怪物の牙の間から漏れた嘲笑にランドーは眉間にシワを寄せた。生き残った王は見る影も無く変化した姿だが、その残忍さに映すならより相応しいと言えた。
「貴様の犯した罪、全て貴様の兵士が吐いた。シャルルを殺したばかりか、名誉までも踏みにじるとは、妃殿下の名により貴様を紂す。」
月は赤い色を湛え不気味に鈍く光っていた。
怪物は剣を抜き対峙する彼を嘲った。
「余を殺せるのかお前に。この恩有る叔父を。父母に死なれて行き場を無くしたお前達姉弟を我が子同然に育ててやったのは余である。」
その芝居がかった口調に、呆れたように溜息を吐くランドー。おおよそこの男は人を蔑む事でしか己を保てないのだ。姿は変わっても、それに何の変わりが有ると言うのか。
「そんなに権力が欲しいか。人の心を失ってまでも。義兄である我が父に毒を盛り某殺し、意に沿わなかった母までも殺した。そして、最後はシャルルまでもその手にかけた。そんな輩に弓引く事を誰が恐れるものか。」
怪物は哀れむ様に首を振った。
「何を気の触れた事を言うか。其方の父母は心の病に侵され命を縮めたのじゃ。ましてや、毒を盛った、殺したなどと世迷い事を並べるにも程が有る。おまけの果てに可愛いい我が息子まで余が手に掛けたとは。其方もやはり、親であるあの男と同じじゃな。狂っておる。」
「世迷い事を並べる狂人は貴様だ。シャルルは、己を手に掛けた者の袖口のボタンを引き千切り事切れていた。その金ボタンの紋章は、確かに貴様の物と叔母上に確認して頂いた。最期に残されたシャルルの遺志と知れ!」
怪物は右腕を覗き込んだ。
「金のボタンだと? クッ、全て露見したか。あの巫女の入れ知恵だな。何としても始末すべきであった。座した獅子を起こすとは。」
その言葉に、ランドーは怪物と化した王の胸に矢を放ったが、どれだけの堅さか矢じりは軽い音と共に跳ね返された。怪物も自らの強硬さを自覚し、にやりと笑った。
ランドーはゆっくりと腰の剣を抜き怪物に近付いた。その瞳は月の光の様に静かだった。
「明かりを!」
彼の声と共に、中庭を囲んだ大勢の兵士達が一斉に松明に明かりを灯した。
彼等を振り返り、ランドーが言った。
「手出し無用、これは私の果たし合いだ。」
夜明けを待てば彼は人魚の毒により絶命し、この手を血で汚す事も無い。しかし、許す訳にはいかないのだ。
怪物は明かりが目に入る度に顔を背けた。
その機を逃さず切り掛かるランドーだったが、怪物の皮膚は堅く、傷一つ付かなかった。
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