赤い月の涙
「ムダだ!」
ランドーの一撃を、怪物は血染めの宝剣で受け、勝ち誇った様に吠えた。
「これは愚かなお前の父の形見か? だが今は余の物だ。お前の母も、余の言うがままになっておればもっと良い思いをさせてやったものを。ましてや余の企てを暴くなど、笑止千万!」
記憶に残る母は、ただ儚げで美しい人だったが、そればかりではなかったのだ。
「最初に浜辺で助けたてやった余ではなく兄を選んだ報いだ。お前の母親こそ禍をもたらす人魚だ。そして今度は事もあろうにシャルルをたぶらかすとは、復讐のつもりか。何故蘇る。何度殺したら、終わるのだ。」
毒により脳に異常を来した王は、ランドーの母親とドルーチェを混同している様だった。
満月を赤く映した剣に滴る兵士達の血糊が、まるでルビアの様に光を放った。
「何故、余を愛さぬ。何故、余ではないのだ。」
怪物の目が更に濃く血の色を放った。
「余を育てた父、つまりはお前の祖父は、事あるごとに繰り返した。お前は我が子同然と。その言葉の本当の意味が分かるか? あの笑顔の下で、お前は所詮、情けで養われている身。死ぬまで主人である王子に仕えるのだと言われていたのだ。言われる度に何時の日か必ず思い知らせてやると思った。どうだ? 同じ境遇を味わった気分は。」
「芯まで腐った獣め。」
嘲る様に笑い、怪物は牙を剥いた。
「何とでも言うがいいさ。そのお蔭で余は全てを手にし、この国の王に成れたのだからな。」
ランドーは怪物の目を見た。
「貴様の言う全てとは、中身の無い空箱の事か。大事なのは
誰かを愛する人の心ではないのか。」
彼の言葉に怪物の表情から嘲笑が消えた。
「確かにそうだ。余は余を産んだ母にさえ捨てられた。何故傍にいてくれなかった。もう誰にも渡さぬ。人魚は、人魚は余の物だ!」
ランドーは、怪物の目の中の業火とも呼べる身震いするほど浅ましく歪んだ人魚への妄執に、言葉を失くした。
渾身の鍔迫り合いに二振りの剣が火花を散らした。ランドーは、微かに唸る様な低い音を目の前の王の剣が発している事に気付いた。
次の瞬間、赤く光る宝剣が半ばで音を立てて折れ、刀身が高く宙に舞った。
勢い余ったランドーの切っ先が、怪物の目に突き刺さり、目をやられた痛みの苦し紛れに振り回した王の腕に、ランドーは弾き飛ばされ、地面に無造作に叩き付けられた。
咄嗟に手に触れた物を見ると、無残に顔を地に伏せたドルーチェの死体だった。しかし、死骸とばかり思っていた塊が、月光の中でムクリと起き上がり、一瞬ランドーを見たが、怪物と化した王を炎の様な赤い目で睨んだ。
可聴音より低い音と感じたのは人魚の声だったのだ。ドルーチェがその波動で王の剣を折ったのだ。
次の瞬間、彼女は体をくねらせ両手だけで地を這い、見る間に王の体に取り付いた。一度は美しい人の姿を見せた事も忘却させる程の海の獣の凄まじさ、更に激しく顔を歪ませ、驚愕し身動きの取れない王の喉笛を、息を付く暇も与えず鋭い牙を突き立て噛み切った。
ドッと血煙を上げ、地面に倒れ込む王と共にドルーチェも地面に投げ出された。
黒い巨体に断末魔の痙攣が不自然に走った。
唖然として立ち尽すランドーの足元に怪物の手に有った剣の柄が転がって来た。
汗を拭い、彼は髪を掻き上げた。
動かなくなった二つの死骸を見ながら、柄を拾い上げようとした彼は不意に掛けられた芳しい吐息に思わず総毛立った。
顔を上げると、青い月影の中に人の姿をして立っているドルーチェがいた。穏やかに微笑む裸体には傷も無く、海から上がったばかりの淡い真珠の様な艶めかしい光を放っていた。あの満つ月の夜の感覚が何処かから這い上がって来た。
「ドルーチェ……」
よもや再び月の力を借りて、この身を誘惑しようと言うのか、彼の背中に緊張が走った。
彼女の発した人魚の声は、幻の様に優しく風の様に囁いた。ランドーをじっと見詰め、彼女は目を閉じた。
その時、彼女の頬を涙が一筋伝い落ちた。それに驚き、彼女は自分の頬に手を当てた。
「海の雫……これが涙なのね。私も、本当の人になれたの? こんな私でもあの人は私を愛していると言ってくれた。その優しさに報いたかったの。」
悲しげに少し微笑んだ彼女の姿が、蝋燭の炎の様に揺らぎ始めた。
「最後に貴方に謝りたかった、ランドー。本当に勇敢な騎士ね。」
植え込みの中から、赤ん坊を抱いて瑠海が出て来た。
「ドルーチェ。赤ちゃんは無事よ。」
そっと差し出された赤ん坊の頬に触れ、
「ごめんなさい、坊や。一緒にはいてあげられないの。お前は強い子よ。一人でも大丈夫ね。海がお前を優しく守ってくれるわ。」
瑠海は、声の震えを抑える事もなく言った。
「お別れなの?」
「あの時はごめんね。貴女が羨ましかった。貴女達みたいに成りたかった。始めからその人が貴女の事しか見ていないって分かっていたの。なのに私は。本当に許して。」
「ドルーチェ。誰も責めてなんかいないわよ。貴女には何度も助けてもらったでしょ?」
「私を許してくれるの?」
「当たり前でしょう、友達だもん。」
瑠海の手首の腕輪を見て微笑むドルーチェ。
「燃やさずに持っていてくれたんだ。」
瑠海は、自分の中に有った腕輪に対する別の思惑をも彼女が見抜いていた事に驚いた。
「知っていたの?」
「貴女がそれを使って、何かを知ろうとしている事ぐらい分かっていたわ。それが貴女を更に悲しませるかもしれない事も。でも貴女は腕輪を私の心だと受け取ってくれたのね。」
涙を零して頷いた瑠海に微笑み、ドルーチェは名残惜しそうに赤子に手を伸ばした。
「さようなら、瑠海。愛しい坊や。一緒に海へ……海に……帰りたい。」
言い終わると、彼女の姿は幻の様に消え、そこには息絶えた無残な姿のままの遺骸が有った。目の前でミイラの様に急速に縮んで行く様は、浜に打ち上げられたセラトの最期と同じだった。
瑠海は、ドルーチェの遺骸の前に跪くと、乱れた髪を整えてやりながらも、涙が止まらなかった。
その肩を、ランドーはそっと包み込んだ。
「赤ん坊と一緒に、海へ返してやろう。」
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