黒い怪物

 入り江の波打ち際に佇むシャルルの姿に、ランドーは我を忘れ立ち上がった。思わず走り寄ろうとした彼を、瑠海の声が引き止めた。辺りを見回したが彼女の姿は無く、それどころか彼自身の体も砂浜に透けているのだ。


「ランドー……大丈夫?。」


 見えない手に触られ驚いたが、彼女の気配と温もりが徐々に朧げな人型をとった。幻覚ではないのだ。


 二人は手を繋ぎシャルルに近付いて行った。


「殿下。」


 思わず声を掛けたが、彼はじっと海を見ているだけだった。


「ここはきっと過ぎた時間の中よ。だから殿下にはもう私達の声も聞こえないし、姿も見えない。あのドルーチェの腕輪に封じられていたのはこの空間そのものなんだわ。」


 ランドーの脳裏を白臘の様なシャルルの死に顔が過った。彼の喉元を惨たらしく抉った三日月形の傷が血の気の無い口を開けている。その現実が、見えない凶器の様にランドーの心をも深く切り裂いたのだ。


「自殺なんて絶対ウソよ。」


 その時、シャルルが思い詰めた様子で波間に跪いた。頬にかかる波が涙に見えた。


「もう一度でいいのだ。もう一度会いたい。」


 波は静かに彼の言葉を飲み込んで行く。


「私達の子が其方の命を縮めてしまうなんて。望まれない子供などと。神は残酷だ……」


 瑠海は彼の言葉に愕然とした。


「子供って……どうして? うそ、あの時のオスの人魚は殿下だったって事?」


 ランドーが瑠海の手を強く握った。


「シャルル……この馬鹿が……」


 瑠海はハッとして、跪いたままの王子をじっと見ているランドーを見た。彼は薄々気付いていたのかもしれないが、それが自分の単なる憶測であると願っていたのだ。


「海よ、お願いだ、答えてくれ。私はどうすればいいのだ。苦しみもドルーチェと二人で分ち合えたらどんなに幸せか。」


 ランドーは、深い苦悩に打ち沈む触れる事も叶わないままの彼の背中に添えるように手を伸ばした。


「なぜだ。それが月の呪いだなどと。其方を愛する資格も無いのか、人である私には。」


 咽ぶシャルルの言葉に答える者は無く、ただ波の音だけが寄せては返していた。


 その時、中程の所に有る岩の影から小さな声がしてドルーチェが現れた。信じられない事に、彼女は人魚の姿のまま人間の言葉を発したのだ。


 シャルルは、波に掻き消えそうなその声に顔を上げ、彼女の姿を見付けると形振構わず海に入った。

 服が水を含んで重くなり彼は見る見る沈んで行く。

 それを見かねてドルーチェが泳ぎ寄り、波打ち際へ引っぱって行った。

 砂浜に引き上げられた彼は、咳き込みながらも彼女の顔を愛しそうに見詰めた。


「……会いたかった。」


 しかし、彼の言葉にもドルーチェの表情は堅く、目を伏せたまま海の深みに帰って行こうとした。その手をシャルルが掴んだ。


「行かないでくれ。」


「私の事は忘れて。お願いだから。」


「誰にも打ち明けられぬこの想い。其方だけには分かって欲しい。」


「手を放して。海に帰らせて。」


 そう言った彼女の体は、以前の艶めかしい程の光も無く痩せ細り、異様に大きな腹を支えているだけで壊れてしまいそうだった。


 シャルルはそれでも手を放さなかった。


「せめて側にいさせてくれ。愛している。」


 ドルーチェは涙を溜めて彼を見た。


「愛なんて軽々しく口にしないで。」


 彼女は小さく言って目を伏せた。


「ごめんなさい。私、後悔しているのよ。恐いのよ。たまらなくなるの。」


 シャルルは言葉を失くした。そして、


「私にお前を責める資格はない。こんな臆病者の私には。自分の犯した過ちを詫びる勇気さえないのだから。」


「貴方もこうなってしまった事を後悔しているのね?」


「違う。そうじゃない。言えなかったのだ。フィリップにも、瑠海にも。あの時のアレが私だったなどと。フィリップがお前の元へ引き寄せられようとしているのを見た時、体の中を抑えられない何かが駆け巡った。私は本気でフィリップを……振り下ろした腕の下に入ってきた瑠海に気付かなかったら、取り返しの付かない事になっていた。」


「でも、そうはならなかったでしょ?」


「瑠海の背中の大きな痣は消えないかもしれないと、あの者を診た医師が言っていた。」


 そう言って下を向いたシャルルの肩をドルーチェはそっと抱いた。


「誰にも祝福してもらえないこの子は、きっと化物のような恐ろしい醜い姿で生まれてくる。それを見たら貴方も後悔するのよ。」


 ドルーチェの大きな腹の中で胎児が動く度、彼女は苦しそうに体を捩った。


 蛇か魚が薄い革袋の中で藻掻いているように蠢く彼女の腹に、戸惑いながらもシャルルは手を触れた。


「どんな姿であろうと、私と其方の子である事には変わり無い。」


 首を横に振りながらドルーチェは、


「それはこの子の姿を見ていない今だから言えるの。私は人ではないのよ。」


 人であれば、まだ懐妊すら気付かない時期だろう。しかし、彼女のこの状態は異常だ。


「ドルーチェ。私にとって其方と過ごしたあの時は何にも代えられない体験だった。海に抱かれたあの不思議な懐かしい感覚。地位も名誉も何もかも一切の束縛から解かれ、其方と共に海の一部になれたらどんなによいか。其方とあの海に帰れたらどんなに。……」


「シャルル……」


 ドルーチェは顔を上げ彼を見た。そしてあの満つ月の夜の事を思い出していた。月の光はこの体を人と変えてくれた。月に奇跡を感謝したが、姿こそ確かに人だったが心は血の赴くままオスを求める人魚だった。オスに姿を変えたシャルルの歌う声を聞いた時、彼の事以外何も考えられなくなっていたのだから。


「私は人魚よ。本当の人にはなれない事を月は知っていた。私は試されたのよ。それでも愛しているって言えるの?」


 見守る瑠海は漠然と感じる不安に身震いし、ランドーにピタリと寄り添った。


「私は其方に初めて触れた時、心に隠れていた其方への想いに気付いたのだ。それを月は叶えてくれた。愛している、ドルーチェ。」


 何処かで彼の純粋さに引かれていた自分をドルーチェは思い出した。海の匂い。手を触れた時感じたのは、彼女が見た事も無い深く澄んだ感情の海だった。そしてその海に彼女は沈み、限り無い愛しさを感じたのだ。


 瑠海の視界の中、ドルーチェとシャルルはどちらから求めるともなく抱き合った。


「これでお別れよ。月が満ちれば私は二度と海には帰れない。この浜辺でこの子を産むわ。私の命をこの子に与えて、私は海の泡に成るの。だからもう、ここへは来ないで。」


 シャルルは彼女の言葉の真意を探るように彼女の瞳を見詰めた。


「どういう事なのだ、ドルーチェ。命を与えるとは。私がいてはなぜいけないのだ。」


「この子は、人との間に生まれる子。どちらの命を受け継ぐかで姿が決まるの。もし母親の私がこの子に命を与えれば人魚になり、父親の貴方の命を受ければ人の姿になるって海の魔女が教えてくれた。そもそも何故雄の人魚が少ないか分かる? 雄はね身籠った私達雌の糧になってしまう事も有るの。私は貴方を死なせたくはない。だから早くここから立ち去って。せめて私の血をこの子に注いで上げるわ。そうすればこの子は人魚になれる。」


 瑠海は凄惨な光景を想像し息を飲んだ。


「子供を産む為に人魚は雄を食べてしまうの?」


 シャルルは顔を手で覆い肩を落とした。


「私はどうすればよいのだ。其方と共に、共に生きたいと願うのがそんなに……」


 長い沈黙の後、シャルルはもう一度ドルーチェを抱き寄せた。


「どちらかの命と引替えでしか、この子は産まれ出る事も出来ないのか。」


 ランドーはじっと目を閉じた。


 その時だった。


「やはりそうか! この身の程知らずめが!」


 国王の声がいきなり二人に割って入った。


 ランドーと瑠海が振り返る暇も無く、黒い怒りと殺意に満ちた影が二人の中を通り抜けた。その手には剣が無造作に握られ、渦巻く様に放たれている闇は、今から起こる全てを暗示していた。


 シャルルとの間に確執が有る様に装っていたのも全て彼を護り抜く為だった。彼の命と引き換えなら、彼にどう思われていようと構わなかったのだ。ランドーは思わず瑠海の手を放し、シャルルを助けようと王に掴みかかろうとした。しかし、これは過ぎ去った時間。誰も変える事は出来ないのだ。彼の体は王に触れる事も出来ず無情にもすり抜けた。


「ごめんなさい。私もこんなの見たくない。でも、私達は見なきゃいけないのよ。」


 彼は瑠海の手に自分の手を重ね強く握った。


 二人の視界の中、残酷にも事は進んで行く。


「父上!」


 ドルーチェを庇う様に立ったシャルルを突き飛ばし、王は恐怖に怯えたドルーチェに向かって剣を振り上げた。


「この忌ま忌ましい化物め!」


 シャルルは王の足に噛り付いた。


「人魚と心を通わせるなど、余は許さんぞ、シャルル! 見ておれ。その目に今、この化物の正体を見せてくれる!」


 振り下ろした切っ先がドルーチェの肩を切り裂き、鮮血が花ビラの様にシャルルの服に散った。その瞬間、ドルーチェは美しい顔を豹変させ、再び剣を振り上げた王に向かって物凄い形相で耳を劈かんばかりの咆哮を浴びせた。そして王がひるんだスキに彼女は素早く海に潜った。


 目の前で見せられた彼女の人魚としての本性にシャルルは息を呑んだ。


「洞門を閉めろ! 人魚を捕らえるのだ!」


 王の一喝と共に鉄格子が水しぶきを上げて海への出口を塞いだ。何人もの兵士が投網を投げ入れる。


「やめさせて下さい。ドルーチェは身重の体。腹の子に障ります。」


 王の目は狂人の様に血走っていた。


「何を言うか。気でも狂ったかシャルル。人魚の産む子がお前の子である訳が無い。」


「何をなさる気ですか!」


 王に掴み掛かろうとしたシャルルを一人の兵士が後から羽交締めにした。


「お許しを、殿下。」


 言うが早いか、シャルルは砂の上でうつ伏せに押さえ付けられてしまった。


 大きな水しぶきが立て続けに上がった。


 激しく抵抗していたが、ドルーチェは網に捕らえられてしまった。金色の髪を振り乱し、辺り構わず鋭い牙を剥いて吠えかかる。


 シャルルはその凄まじさに呆然とし、兵士の腕から逃げようと藻掻いていたのを止めた。


「これが真の姿だ。よく見るがいい。お前の心にこ奴が居座ると言うのなら、今ここで全てを消し去ってやる。若輩者のお前などに人魚が心を許す訳は無いのだ。」


 王の出した剣に噛み付いたドルーチェは海の獣そのものだった。


「ドルーチェ……」


 シャルルは目を閉じ、地面に顔を伏せた。


「おぞましい魔物め。吊り下げろ!」


 網を引きずる兵士に鋭い爪と牙を剥き、激しく威嚇するドルーチェの胸を一本の槍が貫いた。飛び出そうとする瑠海を今度はランドーが止めた。


 この世の者とも思えぬ叫び声を上げてのたうち回るドルーチェ。辺りは騒然となり、彼女の腕から腕輪が外れ、シャルルの目の前に転がって来た。顔を上げた彼の目に縄で縛られ物見台の庇に吊り下げられぐったりと動かなくなったドルーチェが写った。口からは細い血の糸が滴っている。胸に突き刺さったままの槍。凄惨な光景とは裏腹に彼女の顔は穏やかなまるで天使の彫像の様だった。薄らと目を開け、ドルーチェはシャルルを見た。


「これが本当の私。恐れている自分を恥じないで。私は貴方を恨んだりしない。全て私が招いた運命だったのよ。早く行って。早く……ここから出て行って。」


 彼女の大きな緑色の瞳から真珠の様に光る涙が零れ落ちた。


「ドルーチェ……ダメだ。君を置いては行けない。」


 王は憤然と彼女に近付くと、剣の柄で殴り付けた。金色の髪をべっとりと濡らし、彼女の頭から血が吹き出した。


「この化物が! その美しい顔と声で男をたぶらかそうとは。」


「貴方は誰と私を重ねているの? 貴方の意のままにならなかったあの人かしら?」


「なんだと?」


 訝しげにドルーチェを見る王。彼女の瞳が淡い赤い光を放って彼の瞳を射貫いた。


「私には見える。貴方の中に棲む魔物が。その剣は叫んでいるわ。二十年前の忌まわしいその月の夜、この浜で貴方が犯した大罪を。兄の妻となったその美しい人を貴方は無理矢理犯そうとして抵抗され、その剣で刺し殺したのよ。愛する人を守れず、ずっと無念な思いをその剣は抱き続けているわ。」


 彼女の言葉に王は目を見開き睨んでいた。


「父上……それは本当なのですか。」


 シャルルの瞳に血走った王の目が映った。


 自分達が知らない秘密が有るのか。父の兄とは、即ちランドーの父親。先代の国王だ。そしてその妻は彼の母。兄同然に思って来た彼の母を自分の父が殺害したなどと言う許しがたい過去が。重い扉に鍵を掛け,この浜を長年に渡り閉ざしたのも、その記憶ごと封印せんが為だったと言うのか。


「黙れ。この化物が!」


「兄を毒殺し、その妻だった彼女を我ものにしようとするなんて、嫉妬に狂った貴方こそ化物よ!」


 思いも寄らない形で暴かれた秘密に、王は顔をまっ黒にしてドルーチェを睨み付けた。


 拳を痛い程握り絞めているランドーに今は何を言っても耳には届かないだろう。決してこの手を放してはならない。ただそれだけだ。


 父の形見の王の宝剣は現国王が幼い彼から取り上げた物だ。彼の心の中に、胸に下げたあのルビアを、彼の母が恥知らずにも夫の弟の愛人になり下がった見返りだと、噂する侍女達の声が聞こえていた。母を想い出す事も卑下する様に幼い彼に仕組まれた罠だ。ましてやその母の死は自害とされ、名前すら無い墓に葬られ、花を手向ける事も許されない。


〈ギャーーー!〉


 突然、辺りに雷の様なドルーチェの悲鳴が響いた。王は全身に返り血を浴び、手には血に染まった剣をぶら下げていた。平然とシャルルを振り返り、手にした黒い血まみれの何かを投げて寄越した。


 弾んで鼻先に転がった物を彼は見た。あまりの事にシャルルを押さえ付けていた兵士までもが手を放して後ずさった。


 断末場の痙攣がドルーチェの体を揺らしている。


 見守るしかない瑠海もギュッと目を閉じた。


 震えながらその黒い塊をシャルルは胸に抱いた。そこに残された温もりは、ドルーチェの温もりそのものだった。彼の手の中で薄皮に包まれたそれは表面に滴らせていた母親の血を吸収すると、発光と共に急激な変化を遂げた。そして急に伸び上がり、薄皮を破ると奇妙な産声を上げた。


 シャルルの目にヌメヌメとした粘液に覆われ、下半身が魚の様な格好をした赤ん坊が写っていた。


「見たか。そのおぞましい姿を。その怪物の子を殺せ。即刻始末するのじゃ!」


 王の声も耳に入らないのか、シャルルは激しく泣き続ける赤ん坊を抱き上げ、そっと背中を摩ってやった。すると赤ん坊は泣き止み、小さな手で彼の首にしがみ付いて来た。


「よい子だ。私が分かるのか? そうだ、私がそなたの父だ。」


「狂ったかシャルル!」


「狂っているのは貴方だ、父上。」


 静かに言うと、シャルルはフラリと立ち上がり、ぐったりと動かなくなったドルーチェの側に近付いた。しかし、その顔に触れようと手を伸ばした瞬間、息絶えたと思っていた彼女が牙を剥いてシャルルに吠えた。その荒れ狂う炎の様な形相に、悲しげに顔を曇らせたが、彼は彼女に噛まれるのも構わず手を差し伸べた。鋭い牙が食い込み血が流れた。


「今度は逃げなかったよ、ドルーチェ。父の仕打ち、愚かな私を許してくれ。」


 ドルーチェの憤怒の形相が一瞬にして崩れた。彼の手を放し、目を上げた彼女は以前の美しい顔に戻っていた。赤ん坊が彼女の髪を小さな手で捕まえた。産まれたばかりと言うのに、彼の瞳はしっかりと世界を写している。


「可愛いい子だね。元気な男の子だ。」


「シャルル……」


 ドルーチェは、赤ん坊に頬ずりをした。その彼女の唇に、何処からか血の飛沫が飛んだ。


「うっ……」


 ハッとしてシャルルの顔を見たドルーチェは、目の前の彼が首に後ろから回された何者かの手を掴んでいるのを見た。その手には短剣が握られ、振り解くように引き抜かれた銀影が三日月の様な赤い残像を描いた。


 短い呻きと共に口から血の塊を吐き、首筋から血を吹き出させながらシャルルは膝から砂浜に崩れた。ただ赤ん坊を抱いている彼の両腕は小さな命を守る様に重ねられていた。


 王が周りにいる兵士達に大声で下知した。


「王子は、心の病の為、自ら命を絶った!」


 一部始終を目の当たりにしていたにも関わらず、血の滴る短剣を下げた王に物申す者は誰一人いなかった。


 人形の様に砂浜に横たわったシャルルの側で、火が付いた様に泣いている赤ん坊を、王はまるで猫の子でも扱う様に鷲掴みにしようとした。その手を、赤ん坊は精一杯の力を込め尾ビレではたくと、素早く海へ飛び込んだ。


「痛っ……何だこのっ! 逃がすか!」




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