宴の後
ランドーは瑠海の肩を抱いて別宅への道を寄り添い歩いた。宴は始まってしまえば余程の予定変更が無い限り滞りなく進んで行く筈だ。とにかく今彼女から目を離すのは得策ではないと思ったのだ。
そこへ後ろから声がかかった。
「ランドー様。婚約者の姫を何処に隠しておられたのです? 異国の話しなど聞かせて頂きたかったのに。独り占めはいけませんな。」
「これはルドルフ様。少し気分が優れず休ませておりました。」
「それはいけませんね。お大事になされよ。では明日またお会いしましょう。」
挨拶を交わし通り過ぎて行く間も、瑠海はランドーの袖を掴んで目を閉じていた。本当の事が見えず、まるで心に灯りの無い状態だった。でも今は彼がいてくれる。
別宅の玄関から中に入ろうとしていると、ガードナーが駆け寄ってきた。
「ランドー様。執事殿が明日の狩りの事でお聞きしたい事がお有りとか。至急おいで下さいとの事です。」
「ルカーが?」
打合せは全て終わっているのにと、少し眉を寄せたが、何か不手際でも有ったのならば行かねばならない。
「風呂に水を入れておいてくれ。すぐ戻る。」
少し心配だったが、彼女も彼の役割りを十分承知している為、大丈夫だから、と送り出した。
お手伝いのマリアも部屋に引き上げたらしく、中はランプの明かりが一つ有るだけで暗くされていた。
さっきの花の香りが廊下にまだ残っている。いくら何でもフローラがまだここに留まっているとは考えられないが、わだかまりを残したままでいるのは釈然としなくて気に入らない。しかし、今は話しをする気にもなれないのが事実だ。何と言っても相手が面と向かっての話合いも無用と拒否するならどうしようも無い、などと思いながら湯殿に近付いて行くと、不意に有るはずの無い大勢の人の気配を家の中に感じ瑠海は立ち止まった。
引き返そう。咄嗟に思う程の嫌な予感だ。
ドアがいきなり開いて明るい部屋の中から数人の見た事の無い侍女がわらわらと出て来たかと思うと、瑠海は無言のままの彼女達にたちまち取り囲まれてしまった。
「あなた達、人の家で一体何をしているの? 衛兵を呼ぶわよ!」
「衛兵を呼ぶですって。生意気な。下働きの卑しい女が。」
「私にはこの国の身分制度は適用されないわ。ここで働いているのもお世話になっているからってだけよ。あなた達とは根本的に違うと言う事を覚えておいて。」
瑠海は先頭に立つ侍女を見た。そう言えば彼女には見覚えが有った。
「あなた、さっき私にスープを掛けた人ね。わざとだった事に私が気付かなかったとでも思っているの? あなたのご主人様は誰?」
瑠海の言葉に彼女は一瞬口籠った。
「あなたなんかに言う必要は無いわ。」
「あの服も、あなたが燃やしたのね。」
「だったら何なの。」
「ご主人様のご命令で仕方なくやりましたと素直に認めれば、許さないでもないわ。」
「あんな汚い服。ゴミかと思いましたの。あんなのでよければ、私のお古をどれだけでも届けて差し上げるわ。」
嘲笑う様に言った侍女に、逆に確証を得た瑠海の静かな眼差しが注がれた。
そこへフローラの声が奥から聞こえた。
「何を騒いでいるの?」
熱くなっていた女達が一気に引いて、瑠海もつい油断した所をいきなり体格の良い中年の侍女に後から羽交締めに合い、全く身動きが取れなくされてしまった。
「何するのよ! 放しなさい!」
叫ぶ声も無視され、女達は瑠海を声のした方、即ち湯殿の方へ担ぎ運んで行った。
ランドーは、訝りながらではあるがガードナーに案内させてその場所に行ってみたが、そこにいるはずの執事の姿は無かった。
「どう言う事だ、ガードナー?」
「私にもさっぱり。私はフローラ様から言付かっただけで……」
「姉上から? しまった!」
ランドーは別宅へとって帰した。
これは瑠海と自分を引き離す為の罠だったのだ。フローラはまた何か企んでいるに違い無いのだ。
瑠海は、明かりが煌々と照らす湯殿で大勢の女達に服を剥ぎ取られようとしていた。
「何するのよ! 触らないで。」
「綺麗に洗って差し上げるのよ。さぁ、お脱ぎあそばせ姫君。疚しい事がなければ平気でしょ。女同士ですものね。」
「余計なお世話よ。一人で出来るからみんな出て行って。」
「そうは参りません。これが私どもの仕事ですから。」
瑠海には、侍女達が逃げ回る彼女のドレスを面白半分で脱がせようとしているとしか思えなかった。これでは立派に虐めだ。
「大事なお洋服を破かれたくなかたら、素直になさいませ。」
瑠海は必死に侍女達の手を搔い潜りながら睨んだが、いい加減息が切れて来た。
「この家の主人はランドーよ。これは彼の意向ではないわね。誰の差し金?」
「そんな事は、貴女には関係の無い事よ。」
「いい加減にして下さい。貴女方もそんなに暇を持て余している訳ではないでしょう?」
「貴女のお洋服を脱がせるのが、私達の仕事なのよ。」
単なる打ち身とは言え、あの怪物の巨大な手跡はなかなか消えず、立ち直るのに三日はかかった。その影響からか以前より疲れ易くなった気がしていたが、椅子の角にドレスの裾が引っ掛かり、瑠海はバランスを崩して転倒し咄嗟に起き上がる事が出来なかった。
とうとう腕を掴まれ、振り払う力も言い返す気力も無くなっていた。
奥から聞こえた声が侍女たちに命令した。
「さあ、この間に脱がせなさい。」
「ロゼッタ様ぁ、この服にはボタンも紐も付いておりませんよぉ。どうやって合わせてあるのか見当も付きませーん。」
「きっとこれだわ。何なの、この仕掛けは。」
背中のファスナーに手がかかった。少しずつ下ろされてゆく。
「見て、コレ見た事も無い見事な刺繍だわ。」
「この縫い目、どうやってあるの?」
侍女たちは瑠海の着ているドレスを珍しそうに弄くりだした。
その時、何かに気付いた侍女が悲鳴をあげた。それと同時に全員が騒然となった。
「フローラ様、これは……」
「何という……」
その時、戸口で言い争う声が聞こえたかと思うと、ドアが蹴破られる様な勢いで開いた。
「姉上! 一体何をしているのです!」
目に飛び込んで来たとんでもない光景に、ランドーはマントを取るのも早いか、瑠海に駆け寄り、彼女を包み守る様に抱き起こした。
「大丈夫か。これは何の真似です。全員ここから出て行って下さい!」
怒りに肩を震わせる彼に少しも動じず、フローラは口に手を当て眉を顰めた。
「そんな醜い痣があるなんて。それに……」
「どうであった?」と傍らに黙って立っている老婆に聞いた。老婆は首を横に振るとスゴスゴと後ずさりで姿勢を低くしたまま部屋を出て行った。
「フィリップ。聞いた通りよ。その娘は貴方には相応しくないと言う事よ。どう言う意味かお分かりでしょう? その体、既に何処の馬の骨とも分からない男に汚されているのよ。どんなに貴方が望もうと、この事実を曲げる事は出来ないわ。叔母上もこれを知ればご納得下さるわ。残念だったわね。騙されているのよ貴方は。いいわね、フィリップ。」
フローラの頭の中には純粋な弟が、信じていた瑠海に裏切られた事実に打ちのめされ、立ち尽くしている図が既に出来上がっていたのかもしれない。瑠海がどう思おうと、彼女にとってはどうでもいいのだ。しかし、目の前の彼は彼女をじっと見据え、その眼差しの静かさに彼女は半ば言葉を失っていた。
「姉上。私をも馬の骨呼ばわりですか。」
静かに言いながら、部屋の隅に無造作に落ちている瑠海の髪に留めてあった筈の髪飾りを見た途端に、顔色を変えて立ち上がった彼の目はまるで剣を握った時の様だった。
「やめて。私は大丈夫だから。」
思わず袖を掴んだものの止まる筈もない。
「何と言ったの?」
「はっきり申し上げなければなりませんか。この様な辱め、姉上でも許せません!」
ランドーは腕の中の瑠海を一層強く抱き、彼女が何か言い出そうとするのを止めたのだ。
「生涯に唯一人の伴侶とお互いに司教の前で誓い、その思いを宣誓書に認めて教会に納め、改めて然るべき良き日を選び互いに身を清め床を共にしました。私達は名実ともに既に結ばれているのです。今更それを引き裂こうとするのは神のご意向に背く行為です。」
「私に一言の相談も無く、そこまで。」
「姉上。私達は互いに愛し合っています。姉上も兄上の元に嫁がれ、子を成した身なればお分かりのはず。もし私がここで愛する者を諦め、姉上の言う通り他の娘を娶ったとして、生涯その者を寝所に入れる事は無いでしょう。愛する者と過ごす幸せを姉上は私から奪うとおっしゃるのですか。それに、この痣は私を命がけで庇って受けた傷跡です。それを醜いとおっしゃいましたね、姉上。」
「貴方を庇って? でも、何と言おうと、私は認めないわ。本当にその娘にとって貴方が初めてだったのかどうかも分からない。他に見ていた者がいたとでも言うの? バカらしい。貴方の負けよ。諦めなさい。」
「見ていた物なら有ります。出さねばなりませんか。王子の妃選びではないのですよ。」
瑠海は、ランドーの言葉に何が出るのか咄嗟に分かってしまって彼を見た。
「ダメよ。あれだけはゼッタイ、ダメ!」
それでも構わず彼は、奥で休んでいる年寄りの侍女を呼んだ。マリアは腰を伸ばして、やっとお呼びが掛かったと自分のベッドの下から何気なく嬉しそうに箱を出して来た。探しても、探しても見付けれなかった箱。瑠海にとっては人生最大の重荷。どうしても洗わせてもらえなかったその夜に使っていたシーツだ。
箱を開けようとしているフローラ。
「見ないで下さい。お願いです。」
(何で私こんな所に来ちゃったの。何でこんな恥ずかしい目に遭わなきゃなんないのよ。どうしてくれんの。勘弁してよぉ!)
瑠海は彼女を止めようと前に手を伸ばしたが、運悪くドレスの裾を踏ん付けてつんのめり、ランドーが慌ててそれを抱き止めた。
不意の拍手の音に振り返る一同。
「お前の負けだよフローラ。瑠海さんのその慌て様をご覧。これが本物たる証だ。」
そこには瑠海には見覚えの無い長身の男が、シャルルと並んで立っていた。
「お見事。さすが三国一の剣の名手だ。大勢の美女を相手の大立回り、感服致しました。」
「兄上。」
「殿様……」
フローラは決まり悪そうに男を見た。
彼女の夫、ジャン=ジャック・ローザンブルグは、地方豪族とは言えその財力は国王をも凌ぐと噂される程の資産家である。見た目の怪しさとは裏腹にその性格はいたってざっくばらん。フローラが嫁ぐまでは色恋の相手は星の数と歌われる程のプレイボーイだったのだが、彼女の美貌に一目惚れし、一切の遊びの相手と縁を切った。もちろん妾も持たないと誓ったのだ。長らく子供に恵まれなかったが、この度ようやく男の子を授かり。只今親バカ遂行中なのである。
「これ以上は見苦しいな。」
彼はその腕には大事そうに赤ん坊を抱き、お母しゃま、僕にも少しは構ってぇ、などと赤ちゃん言葉を喋りながら、その小さな手を人形でも扱うように動かしてみせた。
「いやぁ、フィリップ殿。証拠品をお持ちとはさすが軍師。用意周到ですな。名を捨て実を取る見事な戦術でした。恐れ入りました。」
瑠海は、新たな目撃者に気を失ってしまいたくなった。シャルルにフローラの夫まで。シャルルなどはしみじみと観察している。
「何だか汚れている様だが、何だコレは。」
ランドーは然り気無く箱の蓋をパタンと閉めた。
回りを取り囲んでいた侍女達は、何時の間にか部屋の隅に下がリ、フローラは赤ん坊を抱くとローザンブルグを見た。拗ねた様なその表情は、毅然としていた先程とはまるで正反対だった。
シャルルが、ランドーを見ながら申し訳無さそうに言った。
「姉上、瑠海がその怪我をしたのは、この私にも責任の一端が有るのです。ですから……」
付け加える様にすかさず口を開くランドー。
「もうこれ以上の口出しも手出しも願い下げです。瑠海がどれだけ我々の間にひびが入らない様にと我慢していたか。」
「私が他にも何かしたっておっしゃるの?。」
「彼女の服を暖炉で燃やしたり、新調したドレスを汚して人前に出られなくしたり、私の名誉を汚す悪辣な嘘を侍女達に言わせたり。その為に彼女は城の塔から飛び降りようとまでしたのですよ。」
「えっ……どう言う事、本当なの?」
「もう少し遅かったら、私もここにはおりません。」
「私は、私はそんな事はしていないわ。」
「では他に、誰がそんな事をさせるのです。」
「知らないと言っているでしょっ!」
「フローラ。弱い者イジメは犬猫にも劣る行為だな。少し反省なさい。」
「でも……」
ローザンブルグの言葉に涙ぐむフローラ。
「待って、ランドー。服を燃やさせたのはお姉様ではないわ。多分、あの人の主人よ。」
瑠海は先程の侍女から目を離さず真っ直ぐ指差した。
指差された侍女は、フローラ以下全員が自分に注目している事に思わず後ずさった。
「そういえば貴女は確か……ロザリーの家の。何故こんな所にいらっしゃるのかしら? 身内以外はご遠慮して頂いていた筈よ。」
「お……お嬢様に様子を見て来るように言われて……」
彼女は自分を見るフローラの足元の床に額を付けんばかりにひざまづいた。
「奥様。どうか、どうか、お許し下さい。 お嬢様のお言い付けに背けば辞めさせられます。もし私が辞めさせられたら、幼い弟と妹達が路頭に迷う事になります。お許し下さい。」
先程までの悪口雑言はどこへやら。彼女はの足元に取り縋がって泣き出した。
「スープ騒ぎも彼女の言い付けなの?」
涙を流しながら小さく頷く侍女。信じられないとばかり見下ろすフローラ。
「そんな卑怯な真似をするなんて。それもご自分の手を汚さずに何食わぬ顔をしているなんて。他には何をやったの? 白状なさい。」
彼女の口調はあくまで静かだが逆らえない。
「でもあれは……ランドー様の婚約約定の儀式は、全部相手の女性を騙して行われたただの芝居だってお嬢様がおっしゃったから。」
彼女の言葉にフローラは溜息を吐いた。
「貴女達は、何を言ったか分かっているの? 同席されていた国王陛下のお名前にも泥を塗ったのよ。ましてや弟の名誉を軽んじて侍女を使って踏みにじるなんて、縁談はもちろん無かった事にさせてもらうわ。伝えて頂戴。もう少しでご自分の愚行が私の仕業にされてしまうところだったって。そんな真似をされて黙っている程、私は寛容ではなくてよ。」
「でも、奥様もそんな異国の女は弟君のお相手には相応しくないとお思いの筈だと……」
「私が大事な弟を汚す行為を許すと思うの? 勘違いして勝手に増長されては、恥をかかされるだけだわ。さっさと出て行きなさい。」
頭を下げたまま肩を震わせている彼女を、先程の中年の侍女が立たせて連れ出して行った。
「瑠海さん、何故この子が私の侍女ではないと分かったの?」
「ここにいらっしゃる方は、皆さん古くからフローラ様にお仕えしてきた人ばかりですね。この中に、私が着ていたあの服を燃やせる人は誰一人いらっしゃらないと思います。」
「あの服って何?」
ランドーが申し訳無さそうに言った。
「姉上が、輿入れされる前によく着ておられた内の一枚で、胸に刺繍の有る服を仕立て直させた物です。」
「それが……どうして?」
「あの刺繍は亡くなられたお母様がご自分でなさった物。それを燃やせる人は、その事を知らない人だと思いました。」
フローラの一瞬戸惑った顔に、瑠海は言葉を切った。ランドーも瑠海を見ている。
「何故……知っているの?」
そう言ったフローラを見るランドー。
「母上の物がまだ残されていたのですか?」
「誰がその事を、この方に教えたの?」
侍女達を振り返るフローラだったが、当然誰も手を挙げる者はいない。
「もう一度聞くわ。誰が貴女に教えたの?」
瑠海に詰め寄る様に言うフローラの真剣な眼差しに、彼女がずっと隠し通していたものが、自分の言葉で一気に日の当たる場所に出された様に瑠海は感じた。母が刺繍した服。なぜそれを隠さねばならないのか分からない。
「誰かに聞いたのではありません。」
大きく瞬き、瑠海はフローラを見た。
「教えてくれたのは刺繍です。あれにはとても深い愛情が込められています。ただひたすらに子供の健康と幸せを願うとても温かい想いの篭もった品物なのだと感じます。」
瑠海は、塔の上で垣間見た幻影の様な光景を、はっきりと脳裏に描いていた。
「お母様は、この家の海の見える部屋がとてもお気に入りでしたよね。右に海を眺めながら窓辺で一針一針一生懸命刺しておられた。」
彼女が歌う子守歌が脳裏を埋め、意識が呑み込まれそうだった。
「瑠海。」
ランドーは、彼女の眼差しに危うさを感じて声を掛けた。フローラはもちろん湯殿にいる全員が瑠海の空洞の様な目を見て慄然としていた。それでも彼女は構わず続けた。
「この場所も……ランドー、あなたにとってはとても重要な場所なのよ。」
「もう、よい!」
フローラの一際高い声が彼女を制止させた。瑠海はゆっくり目を閉じた。ランドーは倒れ込んで来た彼女を支えた。
「方々、席を外して下さる? フィリップとその方だけに話が有ります。」
その心の中に渦巻くであろう無数の言葉を何一つ出さず、フローラは静かに言った。
「好い加減にしないか、フローラ。」
ローザンブルグの言葉に、彼女は静かに視線を投げた。
「勘違いなさらないで。ただ聞きたい事が有るだけなの。」
侍女達は何も言わず部屋を出て行き、残されたシャルルもローザンブルグを促し、赤ん坊を彼女から預かると部屋を出て行った。
三人だけになった部屋の中は、湯船に張ったお湯から立ち上る湯気で温かく湿っていた。
「貴女が巫女だと言う噂を、私も聞いたの。幽霊が……見えるのですか?」
目眩に耐えながら目を開け、瑠海は搾り出す様な声で答えた。
「残念ながら幽霊ではないと思います。多分、その物に残る誰かの想い出……」
意識をこの場に留めさせようとするように、ランドーは瑠海の手を握った。
「さっきは何を言おうとしていたんだ。この場所が私にとって、とても重要な所だと。」
「フィリップ、それは。」
フローラは慌てた様にしゃがみ込み、彼の肩を後ろから包む様に抱いた。彼に知って欲しくない事とは何なのだろうかと瑠海は思った。
「もう私は子供ではありません。何を聞いても平気です。教えてくれ、瑠海。」
瑠海は支えられながら立つと、湯船に歩み寄った。そしてそっと手を触れ、
「この石の船の中で……お母様はあなたをお産みになった……たった一人で。」
フローラは顔を両手で覆った。
その様子に瑠海は彼女を振り返った。
「私の国でも水中出産はあまり行われません。でも全く無いとは言えません。とてもリラックス出来て産まれてくる子供にはいいと聞きます。だから別段変わっているなんて思いません。フローラ様、なぜ隠そうとなさるの?」
瑠海の言葉に、フローラは涙を溜めた目を上げた。もしかしたら、その事で彼女は、自分達の母親が人魚か何かだと思い込んでいたのかもしれない。それで事更に隠そうとしていたのだ。水の中で子供を産み落とそうとしている姿を目撃した侍女から話を聞かされたとしたら、入浴の習慣が無いこの国の人ならばそう言うに違い無い。でも分からないのは、彼女の母親がなぜそんな危険を冒したかだ。そんなに孤立していたのだろうか。
ランドーは、湯から立ち上る湯気に何を思っているのか黙っていた。
「それじゃぁ、あの服の事は?」
「触っていると見えて来たんです。」
瑠海は、ポケットに入れていた例の服の刺繍の燃え残りを、手の平に乗せ取り出した。
「この刺繍は、元はヤグルマソウの形ですね?」
手を差し出したフローラにそのまま刺繍糸の塊をそっと渡し、瑠海は目を伏せた。
「大事になさっていた服を、こんな姿にしてしまって……申し訳有りません。」
「貴女がやったんじゃないでしょ。それより私の方こそ……ごめんなさい。」
「瑠海、部屋に戻って休め。姉上、もう宜しいでしょう?」
二人の声が何処か遠くで鳴っている鐘の様に聞こえていた。瑠海は果てしない優しい海の囁きに包まれ、そのまま静かに子守歌が聞こえる幻の波間に崩折れた。
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