心の居場所
別宅に入ると何かいつもと違う香りがしていた。花を新しくしたのは確かだが、これは違う。誰かの香水だと思った時、赤ん坊の泣き声が奥から聞こえ、部屋へ入って行くランドーの顔がなぜか一瞬引きつった様に見えた。
暫くして、賑やかな笑い声がしてきた。瑠海も後に続きたかったが、途中で女中頭のマーガレットにお茶を運ぶのを手伝うよう声を掛けられ、一緒にワゴンを押して行く事にした。
彼女は、二人がいない間にランドーの姉が到着したのだと説明してくれた。瑠海は胃の辺りがキュッと痛くなるのを覚えた。なぜあの場に彼女がいてくれなかったのか。一度で済む話を、もう一度繰り返さなければならない。そして今回の相手は、そう簡単には落ちないかもしれないと言う悪い予想もしていた。何と言っても相手は、血を分けた彼の姉なのだから、どう思っているのか不安だった。
声のして来た部屋は、普段から居間として使っている所だった。瑠海とマーガレットが入って行っても話は途切れなかった。二人に気付いたランドーが、話を切り出そうとしたが、先手を取られ彼女に話題の優先権を一方的に独占されてしまった。
「お茶が来たわ。貴方の好きな茶葉を持って来たのよ。入り江では大騒ぎだったらしいわね。貴方もいい年頃なのだから、いつまでも遊んでないでしっかりなさい。」
「姉上、実は……」
「まぁ、それに砂だらけじゃないの。晩餐会の前に着替えてしまいなさい。マーガレット、お風呂の準備は出来ているわね。」
「はい、フローラ様。」
「もう下がっていいわ。ご苦労様。そこの新人さんもね。それにしても、侍女にそんな立派なドレスを作ってやるなんて、貴方もどうかしているわ、フィリップ。」
ランドーは、話を聞こうとしないフローラの態度に苛立たしげに彼女を見たが、傍らに置かれたベビーベッドに寝かされている愛らしい甥の手前、言葉を押し殺した。
彼女からすれば、瑠海はただの待女にしか見えないのかもしれないが、充分承知で認めるわけには行かないと言わんばかりの態度だ。さっきまで上向きだった気分もあからさまに無視されれば下を向く。瑠海はランドーに着替えをするからと小声で告げて部屋を出た。
庭園に戻ろうと廊下を歩いていると、玄関脇からいきなり出て来た見慣れない待女とぶつかった。
「あっ!」
バランスを崩した侍女は、持っていた冷めたスープを瑠海に掛けた。頭から派手に被りビックリしていると、部屋から騒ぎを聞き付けランドーが出てきた。冷めていたのは不幸中の幸いで大火傷を負うところだった。
「何が有ったのだ! その有様は……」
髪もドレスもびしょ濡れ、ランドーはスープを被った瑠海の姿に言葉を失った。
「申し訳有りません。部屋を出た所で出会い頭にぶつかってしまって。お許し下さい。」
「いいのよ。注意を怠ったのは私も同じよ。」
フローラは、ドアからチラリと覗くと呆れた様に見ただけで部屋へ戻って行った。
「ごめんなさい。」
「それにしても見事に……」
ランドーは堪えられずにとうとう笑い出してしまった。笑われた瑠海はふてくされ、
「人事だと思って……」
「すまん、すまん。そうだ。風呂が湧いている。綺麗に洗ってこい。」
「あなたの為に沸かしてあるのよ。私が先に入るなんて出来ないわ。お姉様にただでさえ嫌われているみたいなのに。」
「訳を話せば分かって下さる。」
奥にいたマーガレットが慌てて飛んで来て、ランドーが持っていた雑巾を取った。
「いけません、私が致します、ランドー様。」
そう言えばスープを掛けた待女は片付けをするでもなくいつの間にかいなくなっていた。 瑠海は後始末を手伝いながら、チラリと奥の部屋の方を見た。
「でも、なんでスープを持ってこんな所を歩いていたのかしら、導線ではないはずよ。お客様とぶつかったりしたら大変……だもの。」
彼女は何かに気付き手を止めた。あの侍女は偶然を装って自分が来るのを待っていたのではないだろうか。だから素知らぬ顔でどこかへ消えたのかもしれない。
「冷ましてあったのがせめてもの情けか。」
自分が思っていた事を先にランドーに言われ、瑠海はハッとして彼を見た。彼は多分誰が仕向けた事かも承知しているのだ。
「ドレスはすぐに洗いに出して来る。今のうちなら、きっと綺麗にお洗濯出来るわ。」
「すまない。」
「何で、ランドーが謝るの?」
「それは……」
「言わなくてもいいわ。後でお風呂入らせてもらうから。仕事を代わって貰えば少しくらいスープ臭くても平気よ。」
瑠海は片付けを終わらせ、着替えをした奥の部屋へ行った。ところが、そこに有るはずのエプロンも服も跡形く消えていた。そう言えば暖炉の季節でもないのに赤々と火が燃えている。
「まさか、そんな事までしないでしょう。」
悪い予感は的中した。中で燃えているのはやはり瑠海の物だった。あまりに露骨で幼稚なやり方に溜息しか出なかった。
人のお古を着るのは初めてだったが、結構気に入っていたのだ。やはりフローラは自分の着ていた服をこんな者に着させるぐらいなら、燃やした方がましだと思ったのだろう。一応確かめようと火掻き棒で探ると、胸の刺繍部分が燃え残っていた。灰を払って手に握り込むと瑠海は部屋を出た。
他に着られる物が無く、瑠海はあの仮装パーティー用のドレスを着る事にした。
しかし、アイロンも当ててないからもちろん表には出られない。人手はとりあえず足りている様だから一人ぐらい居なくても大丈夫だろう。
心配するだろうからランドーには話さず、彼女はこっそり裏口を出た。晩餐会は残念ながら不参加だ。この服では給仕にさえ出られない。なぜこんな真似までして嫌がらせをしなければならないのだろう。仕掛けた者の思惑に瑠海は溜息を吐いた。
汚されたドレスを抱いて洗濯場へ向かう途中、普段はダイニングに使っている部屋の後を通ると、コソコソと話す声が聞こえてきた。それを耳にした瑠海は愕然とした。
「瑠海様お可哀想だわ。ランドー様って酷い方よね。いくら殿下の喜ばれるお顔が見たいからって。あれじゃ本気になさるわよ。」
そう言って溜息を吐いているのは、はっきりしないが城勤めの侍女達の様だった。
「正式な婚約者の方が他にいらしたなんて。」
「本当、知らなかったわよね。」
「でも、芝居がかっていて、本当に面白い余興だったわね。王妃様もお芝居がお好きだから。ランドー様の立回りもお見事だったし。あれを見ないと一年が過ぎたって感じがしないのよね。でも、もう終りね。あの方も結婚か。今まで何人騙されたかしらね。」
「仕方無いわよ多少の事は。殿下のお誕生日なんですもの。みんな本国の後宮に暮らしているんでしょ。ところで婚約者の方って?」
「ほら、あそこ。王妃様と一緒にいらっしゃる薄紅色のドレスの方よ。お綺麗ね。」
瑠海は暗い廊下で立ちすくんでいた。
(こんなの……ウソよ。)
震える手で壁に支えを求めた。そうしないと立っていられなかった。頭の中が白くなりそうだった。
(「すまない…」)
麻痺しかけた脳裏に、スープの後片付けを手伝ってくれたランドーのつぶやきが蘇った。
あれは彼の本心だったとでも言うのか。
晩餐会に瑠海を出席させない為に……
信じられなかった。今まで自分は何を見ていのだろう。
「貴女達、何を余計な事言ってるの。さっさと仕事に戻りなさい。」
不意に飛び込んで来たマーガレットの声が更に追い討ちを掛けた。まるで分かり切った事の様に侍女たちの話を一喝もしないのだ。
(みんな、グルって事なの?)
女達はいなくなり、後には影で立ち尽くす瑠海だけが残った。
鉛の様に重い足が歩くことを拒否していた。
瑠海は、庭園を見渡せる普段は使わない小さなテラスに木戸を開けて出た。
海から吹く風に抱えたドレスが靡いた。
その頃、ランドーはフローラを伴い、王と王妃を探して庭園を歩いていた。彼等を見付けたシャルルが嬉しそうに走り寄って来た。
「姉上。お久し振りです。ようこそおいで下さいました。」
「シャルル、お誕生日おめでとう。遅くなってごめんなさいね。」
そこへ例の隣国の王女が追い着いて来た。慌ててフローラに、後でゆっくり話しましょう、と言いながらシャルルは行ってしまった。
「何なのです? あの子は。騒々しい。」
「お妃候補の隣国の姫、ソフィー様が来ておいでなのですよ。」
「いつまで経っても子供のままね。そうだわ。私も貴方に紹介したいお嬢さんがいるのよ。豪族の姫よ。とても明るくて素敵な方なの。」
ランドーは眉を潜め、フローラを見た。
「姉上。私には既に婚約者がおります。その旨のお知らせは届いている筈ですか。」
「あんな事後報告の手紙、承諾できないわ。それで? 何故ここにいらっしゃらないの? 連れ歩く事も出来ない様な人なのかしら? 婚約と言うのも冗談でしょ?」
「姉上。好い加減にして下さい。」
ランドーの言葉にフローラは正面に向き直り、怒りも露に眉を吊り上げた。
「好い加減にするのはどっち? 私に相談も無く婚約なんて、許せる筈が無いでしょ!」
正に臨界状態とはこの事だ。ランドーの次の言葉で彼女の平手打ちが炸裂するのは目に見えている。
何かを隠そうとする後ろめたさ。プライドが高ければ高い程、それが逆に激しい感情表現となって現われる。それなら始めからやらなければいいのだとランドーは彼女を睨んだ。
その時、王妃の声がこの姉弟に水を差した。
「フローラ、ここにいたの。」
「叔母様!」
今までの怒りの形相は何処へやら。振り返った時には、フローラは元の顔に戻っていた。その様子にランドーは溜息をついた。王妃は懐かしさで二人の険悪な雰囲気に気が付かない振りをして、彼女を連れて行ってしまった。
「大変ですね。」
不意に横から声を掛けられ、振り返ると見掛け無い令嬢が立っていた。彼女も王妃に置き去りにされた一人らしい。
「貴女は?」
「ロザリーと申します。こんなパーティーは初めてで、気後れしている所を妃殿下にお声を掛けて頂いて……」
「そうでかすか。私は、皇太子殿下にお仕えするフィリップ・ランドーと申します。宜しければ少しご案内致しましょうか?」
「助かります。一人では心細くて。」
瑠海は、庭園の中を見知らぬ娘と並んで歩み去って行くランドーの姿をテラスからぼんやり見ていた。目の前の世界も自分自身の心の中も、全てが分からなくなりそうだった。いっそここから飛び降りてしまおうか。そんな淡い衝動が突き上げて来ていた。確かに自分には身寄りが無い。離れてしまえば後腐れも無いだろう。
ここへ来てからの時間が積み重なる度、以前の時間よりずっと重くなっていた。孤独など感じずに済んでいたのはなぜだろう。なのにその全てが脆い幻だったのだろうか。
〈そんな事は無い。彼を信用出来ないの?〉
不意に呟く存在が頭の片隅にいた。
何時の間にか日が傾き、綺麗な夕陽が空を染めていた。庭園に出ていた者達も晩餐会の行われるメインダイニングに入って行ったらしく静かになった。
瑠海はドレスのポケットに入れたあの服の刺繍糸の燃え残りを取り出し、手の平に乗せた。それは微かな風に何処へともなく飛び散ってしまいそうだった。まるで、信じろ、と言って抱き締めてくれた存在のように。
一陣の風が不意に後ろからそれらを浚って行こうとした。彼女は慌てて手を強く握った。
握った途端目眩が襲ってきた。
その不快な暗転の中に、見慣れた別宅の窓際に座っている女性の姿が見えた。その有り得ない空間から歌が聞こえて来た。
(……誰?)
窓辺の女性は、女児用のドレスの胸に花の刺繍を施しながら楽し気に歌を口ずさみ、最後の一針を仕上げると、傍らで待つ女の子に広げて出来栄えを見せた。
「さあ出来たわ、お待たせ、お姫様。」
彼女の肌は透き通る様に美しく、金色の髪は陽の光を移して輝いていた。首には彼女の髪によく映える水色のリボンに通された赤い宝石の首飾りが掛かっていた。それを見た時、瑠海の視線は釘付けになった。形は随分違う物になっていたが、間違い無くランドーが母の形見だと言ってドルーチェに託した物だった。
(では、この女性が彼の母親なのだろうか……そう言えばあの絵の人に似ている。)
祝賀会の初日最後を飾る晩餐会が幕を開けた。弦楽を奏でる楽師。料理を次から次へと作り出す厨房の活気溢れる料理人達。ワイン蔵はこの時とばかりに開け放たれ、着飾った王族と貴婦人達は余興に呼ばれた劇団の下らない喜劇に喝采の嵐を浴びせた。
そんな中でランドーは、給仕の中にも厨房にも瑠海の姿が無い事に気を揉んでいた。劇でわざとらしい涙を誘っていた俳優の話しをする女達を尻目に、会場を抜け出そうとしたところをフローラに呼び止められた。振り返ると、先程庭園を案内した令嬢が一緒だった。
「貴女は……先程の。」
恥らう様に下を向き加減で弟をチラリと見た彼女に、フローラもしたり顔だ。
「まあ、もう顔見知りになったの? 貴方も隅に置けないわね。フィリップ、彼女が私の言っていた豪族の姫君よ。とても素敵な方でしょ。さぁ、そろそろ着席しましょう。ロザリーさんは、弟の隣がいいわね。」
ランドーにはフローラの明るい口調もただわざとらしいとしか聞こえていなかった。自分が身動きの取れない役回りでいるのをいい事に好き勝手な事を、と苛立っているのだ。
「姉上、申し訳ありません。私の席は始めから用意されておりませんので、失礼。」
言うと、引き止める暇を与えず、着座したての彼女達をその場に置いて席を立った。
マーガレットを見付け瑠海の居所を聞いたが、見てないと言われ焦った。最悪の事を考えるときりが無い。招待客に付いて来ている者達の中には紳士的とは言い難い輩もいる。注意しろと言わなかった事を今更悔やんだ。それとも疲れて別宅に帰ったのだろうか。
庭へ出てみると外はすっかり暗くなり、城は各所に篝火を炊き闇の中に浮かび上がっていた。振り返り見た高い塔のテラスに見覚えの有るドレスの裾が風に翻っていた。
階段を上がって来たランドーが木戸を開けようとした時、瑠海が小さな声で歌を口ずさんでいるのが聞こえた。それはこのロッシフォールに古くから伝わる子守歌だった。
「懐かしいな。その歌を誰に教わった?」
ランドーの声に瑠海は視線を彼に向けた。
「どうした、そんな服を着て。ここから出て行こうとでも言うのか?」
「着る物が他に無かっただけよ。」
「あれはどうした。いつも着ていた服は。」
「暖炉で燃やされていたわ。」
瑠海は足元に目を落とした。
「私は何処へ行けばいいの? 風習なんて言わなくても芝居だと始めから言えばよかったのよ。余興ならちゃんと協力したのに。歌でも踊りでも何でもやってあげたのに。」
瑠海は無表情のままテラスの端によじ登った。吹き上げる風にスカートが翻った。
「何の事だ。おい、何をする気だ。」
彼女のあまりに静かな口調と表情は全くその行動と釣り合っていなかった。
「私ね、おめでたい事にすっかりその気になって信じ込んでいたのよ。あなたとの婚約。」
「何の話だ。余興だ何だと。」
「貴方の婚約者のお嬢様ってどんな人? ここからは桃色のドレスしか見えなかったわ。」
ランドーは呆れたように溜息をついた。
「どこからそんな話を聞いた。」
「みんな知ってるわ。知らなかったのは私だけだったみたい。」
「あれは姉上が勝手に。さぁ、こっちへ。」
ランドーは瑠海に手を差し出した。
「お姉さまには逆らえないのもね。殿下のお誕生日を汚したくもないし。さっきまで本当に死んでやろうと思ってたわ。こんな仕打ちに耐えてまで生きるのは自分に対して横暴だって。あなたの事、信じてたから。」
「それなら、最後まで信じてくれ。」
瑠海は海の方へ目をやった。夜の帳に何も見えはしないが、海鳴りが聞こえている。彼女は手の平に刺繍の燃え粕を乗せ差し出した。
「この糸はあの服の刺繍だったものよ。誰がそれを縫ったか知ってる?」
「さぁ、何処かのお針子だろう。」
「やっぱり知らないのね。さっきの歌はね、その刺繍をした人が歌ってた歌なの。」
「そんな事はいい。早く降りろ。」
大広間で行われている晩餐会で沸き起こった笑い声が、何処からともなく聞こえて来た。
「祝賀会お決まりの余興だったんですってね。今まで何人も騙されて本国へやられたって。」
「誰がそんな事を! 全部根も葉も無い作り話だ。陛下や司教がそんな余興にお付き合い下さると思うのか? どうせ姉上の差し金だ。人を陥れる為の無責任な言葉に簡単に引っ掛ってどうするんだ。さぁ、そこから降りろ。どうしてもお前がそこから飛ぶと言うのなら、私も後に続いて飛んでやる。お前がいない世に未練は無い。」
腕を強く掴まれ、身体中に電気が走った様な感覚に瑠海はランドーを見た。
悪夢から一気に覚めたような思いだった。
「私……」
「目を逸らさずに、私の目だけを見ろ。」
冷静に考えてみれば分かった事なのに、何処からこの不安は始まったのか、自分は彼の瞳をどの時点から真っ直ぐに見ていなかったのかと、瑠海は腹の底から込み上げて来る震えを止められず、その場に座り込んだ。
「ごめんなさい、本当に……どうかしてた。」
彼女をランドーはそっと抱き寄せた。
「お前が謝る必要は無い。お前が悪いんじゃない。」
ランドーは、自分達の周りを交錯する様々な思惑に対する苛立ちを必死に抑えていた。
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