満つ月の夜の終わり
ずぶ濡れの瑠海を診療所に担ぎ込むと、行方不明の王子を心配したゲイリーが落ち着きなく歩き回っていた。王子が運ばれて来たかと思ったのに、気を失って抱きかかえられているのが瑠海だと見ると更に焦り、泣き出さんばかりの様子で詰め寄って来た。
「なんで瑠海様までこんな事に。殿下はまだ見つからないんですか、ランドー様!」
「まだお探ししている最中だ。」
頬をランドーに軽く叩かれ瑠海が目を覚ますと、口の中は塩辛く砂だらけで思わず咳込んだ。起き上がろうとしたが肩に激痛が走り思わず彼女は診察台の上でうずくまった。
「大丈夫か。」
彼女が頷くのを見てゲイリーに早口で、後は頼む、と言って慌てた様子でランドーは診療室を走って出て行った。
ゲイリーは取り乱した事を詫びる様に、
「何が有ったのですか? 私はてっきり殿下かと思ったのです。何処が痛みますか?」
彼女は必死に浅い息を繰り返した。
「肩と背中と首……頭痛も……」
ゲイリーは彼女の濡れた衣服をそっと脱がせ愕然とした。
「こりゃぁ何だ。背中に大きな手形みたいな跡が付いて腫れています。傷や骨折が無いか調べます。触りますよ。」
シャルルが城門を出た形跡は無く、騒ぎを聞き付けた町の者達も総出で明け方近くまで隈無く城内を調べたが、一体どこへ行ってしまったのか彼を見付け出す事は出来なかった。
山の端が段々に白み始めていた。
探していないのはもうあの砂浜だけだが、あの騒ぎの時も彼の姿は微塵も無かったのだ。もし他の場所で海に落ちたのなら、彼はもう生きてはいないだろう。不吉な思いがランドーの胸に過った。
重い足取りでランドーは入り江に入った。全てはここから始まった。アレさえ現われなければ、人魚さえ。いや人魚には罪は無い。むしろ王子としての自覚に欠けるシャルルの人魚に対する執着から生まれた事だ。
砂浜に出た彼は、波打ち際に人影が有るのを見た。一瞬シャルルかと駆け寄ろうとしたが、それは一糸纏わぬ人の姿のままのドルーチェだった。思わず近くにあの怪物がいないか見回したが、幸い奴はいなかった。
彼女はランドーを見ると、ハッとして背中を向けた。そして恥ずかしそうに肩越しに振り返り、物言いたげな、それでいて悲しげにも見える眼差しを彼に寄越した。
「瑠海は……」
彼女の声は、途中で人魚の声になった。満つ月の夜が終わったのだ。
小さな水音を立てて、ドルーチェは海に飛び込み深く潜って消えて行った。
ランドーが入り江を後にしようとしたその時、彼女とほぼ同じ場所で、もう一つ動く人影が有った。波打ち際へは少し低く傾斜している為、見えていなかったのだ。
金色の髪が朝陽に光って見える。彼は思わず叫んだ。
「殿下!」
紛れも無く王子だ。
彼は波打ち際に横たわり、小さな波に揺られている。
「シャルル!」
砂に足を取られながら傍らに駆け寄ったが、子供の様に砂の上で寝返りを打った彼に気が抜け、ランドーはその場に座り込んだ。
彼が何も身に着けていないのを見て、取り敢えず自分のマントを外して彼に掛けた。
安らかな寝息。王子はただ眠っているのだ。幼ささえ残す寝顔の無防備さが腹立たしい場合も有る。ランドーは再び寝返りを打ったシャルルを揺り起こそうと手を彼の肩に手をやったが……
「えっ……酒? 殿下?」
そう、彼からはアルコールの残臭がしているのだ。それもかなりの臭いだ。それでゲーイリーの焦りが尋常で無かった理由が分った。
ともかく無事でよかったのだが、何たる事だ。あの恐ろしい状態から脱し、辛うじて命拾いしたばかりだったと言うのに。深酒とは。どう言う事だ。
「シャルル! 起きろ!」
「……ん……」
目を吊り上げ、見下ろしているランドーに気付き、彼は目を瞬かせた。
「フィリップ……」
「とにかく。ご無事で何よりでした。」
自分が裸だと分ると、驚き慌て王子は掛けられたマントを体に巻き付けた。
「私は……なぜこんな所に?」
「お聞きしたいのは、私の方です。」
シャルルはしどろもどろに目を泳がせた。
「……何が有った・のだ……」
「私にも分かりません。突然お姿を見失い、皆で探しておりました。それよりも、ご酒をお召しになられたのですか。」
「酒? あぁ、確かゲイリーが気付けにと。」
「気付け……それだけではないでしょう!」
彼は二日酔い状態らしくこめかみを押さえ、
「やけに美味くて、つい二瓶。……喉が酷く乾いていて腹も減っていたせいかな。一気に飲んでしまった。」
殆ど飲まず食わずだった事は否めないが、ゲイリーも迂闊な事をしてくれたものだ。事情によっては死罪も免れない。
「私が席を外したほんの僅かな時間で二瓶? それでフラフラと海へお散歩ですか。何処まで覚えておいでなのですか。あんなご様子で一体何のつもりだったのかお答え下さい! その間に怪物までが再び現れ大混乱ですよ! もしあヤツに掴まっていたら、取って喰われていたかもしれないんですよ!」
肩を竦ませ、彼を覗き見るシャルル。
「怪物? それは知らなかった……悪かった。悪かったフィリップ。少し静かにしてくれ。」
珍しく素直に言ったシャルルにランドーは更に眉を吊り上げた。
「散々心配させた挙句がコレですか、殿下! 将来は国を背負って立つ御方が何たる亊! 兵士全員徹夜ですよ。まったく!!」
「そう怒鳴るな。頭に響く。頼むから……」
頭を抱えながらもなぜか嬉しそうな口調の彼に、気を静めようと呼吸を整え、無事だった彼の姿にランドーは改めて目を閉じた。
「もう二度と、人魚に関わらないと、ここで約束して頂きたい。」
波が寄せて、足元を濡らした。
「分かった。約束する。」
自然に洞門に目が行ってしまう。
「お願いしますよっ!」
溺れかけていた王子を浜へ上げてくれたのか、一緒にいたドルーチェの事が胸に過ったが、それを彼に告げれば、また彼はあの人魚に会いたいと言い出すだろう。
ランドーは王子に強い口調で言いながらも一人の胸に仕舞っておこうと思った。
人魚は海に帰ったのだから。
満つ月の夜が過ぎても、王子は生きている。
解毒は成功したのだと信じたい。
そして、人魚が二度と戻らない事をひたすら祈ろう。
二度と人に捕らえられてはならない。
二度と人に想いを寄せてはならない。
それで秩序が保たれるのならば。
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