人魚の呪縛

 瑠海が入り江に下りて行くと、ドルーチェの姿は既に無かった。ただ、物見台の上に炊かれた松明が、彼女を待っていた様に赤々と水面を照らしていた。


 人魚は別れも告げず海に帰ったのだ。彼女を海に返す事が望みだったのに、いざその時になると寂しさは誤魔化せなかった。


 暫く入り江の静かな波の音を聞きながら、瑠海はその場に佇んでいた。


 海を見ていると色んな事が頭に浮かんだ。


 大学の学園祭の終わりに花火が打ち上げられたあの夜。仮装のまま屋台船で繰り出した彼等の目の前に数頭のイルカの群れが現れ、人懐っこく周りを泳ぎ始めたのだ。丁度持っていたデジカメで、瑠海は花火と彼等を一つのフレームに納めようと狙っていた。何度目かのシャッターを切ったその時、一頭のイルカが花火と同時に水しぶきを上げて舞い上がった。千載一遇と身を乗り出した刹那、船が大きく揺れ瑠海は海に投げ出されたのだ。


 まさかこんな所で目を覚ますとは……


 城へ帰ろうと出口に向かう彼女の耳に、誰かの慌てた足音が飛び込んで来た。


「瑠海! 殿下は!」


 ランドーだ。全速力で小道を下って来たらしく、松明を掲げ額に汗を張り付かせていた。


「殿下って……いらっしゃってないわよ。」


「そんな筈は。ここへは一本道だ。何処へ行かれたのだ。」


「いなくなったの?」


「窓から、ここへ行く道を歩いておられるのが見えたのだ。まだ油断出来ないお体だと言うのに、事も有ろうに裸足で……」


「何が有ったの?」


「腹が減ったとおっしゃったので、厨房に降りたほんの少しの隙に。とにかく早くお探ししなければ。」


 彼は入り江を見渡し焦りを隠せず息も荒い。瑠海も目を凝らして見た。例の海の家の窓に人影が見えた様な気がして二人は走った。


 行ってみると、閉まっているはずの木の戸が開け放たれていて、二人は中へ飛び込んだ。しかし、照らし出された居間にあたる部屋にはシャルルの姿は無く、二人の目は、そこに落ちている見覚え有る兵士の衣服と、甲胄に釘付けになった。


「いるのか! エド!」


 瑠海は、脱ぎ散らかされた衣服の乱雑さに不自然なものを感じ身構えた。


 砂だらけの床に付いている二つの足跡の一つは恐らくエドの物。そしてもう一つは、大きさからして明らかに子供か女性の物だ。エドが誰かとここで服を脱いで何をしようとしていたのかは一目瞭然なのだが、落ちているのはエドの物だけで、もう一人の衣類は始めから裸で現れた様に履物さえ見当たらなかった。彼は何処だ。この部屋以外、バルコニーの向こうは海だと言うのに。


 瑠海は思わずバルコニーへ走り出て、静かな水面に目線を走らせた。物見台の松明の明かりと、月の光が照らす入り江に人影は無かった。王子ばかりかエドまでいなくなるとは一体何が起っているんだ。そう思った時、瑠海は後にいる筈のランドーがいなくなっている事に気付いた。


(えっ、何処へ行ったのよ?)


 瑠海は海の家を飛び出した。


 すると今まで王子の姿を探して真剣に走り回っていた彼は、波打ち際で沖の方を見る様に波に膝まで濡らしてぼんやり立っていた。


「何か分ったの? シャルル殿下は!」


 走り寄った彼女の声も聞こえていないのか、彼は振り返ろうともしなかった。明らかに様子がおかしい彼の前に回り瑠海は顔を見た。彼は瞬きさえもせず、無表情のままじっと魅入られた様に海を見ているのだ。


 何をそれ程見ているのかと、彼の目線を追った瑠海は、水面から突き出た岩の上に座っているドルーチェに気が付いた。


 金色の髪を風に緩やかに揺らし、横座りした様は、あの髪飾りに彫られた乙女そのものだった。水を手でそっと撫で小さな声で歌を口ずさんでいるのか微かに唇が動いていた。水面を見ていた彼女が瑠海に気付き、いや、ランドーに気付き顔を上げた。赤く怪しい光を放つ濡れた瞳はぞくりとする程に美しく、同時に不気味さを孕んでいた。いつもの無邪気な彼女とはまるで別人だった。


「ドルーチェ……なの?」


 そう言ってから、瑠海は彼女が咄嗟に出た自分の人間の言葉に応じている事に気付いた。


「理解出来るの? 私の言葉が。」


 愕然と問いかけた彼女に、ドルーチェは微笑んだ。その表情は正に魔性の者だった。


 瑠海は彼女の近くに人影を見た。


「エドに、その子に何をしたの?」


「誰の事?」


「とぼけないで!」


「この人は、呼びもしないのにここへ来たの。私は、私の望む人しか受入れないのに。」


 恐るべき事に波は無く水面はまるで鏡の様に静まり返り、そして信じられない事に彼女の尾ビレは人間の足に変化していた。彼女に追い縋ろうとしているエドは哀れにもその下に踏みつけられ拒まれても諦めない様は知性も無いただの獣の様だった。


 ドルーチェは手を差し出し、人間の声で波打ち際に立つランドーに呼び掛けた。


「この時を待っていたのよ。ここへ来て。」


 身動きもせずじっと立っていた彼の足が一歩海の方へ歩いたのを瑠海は見た。しかしその足取りはまるで操り人形のようだった。


「しっかりして! ランドー!」


 瑠海は形振構わず彼に縋がり付いた。そんな彼女の手を彼の手が握り返してきた。瑠海はその手の柔らかな感覚に、彼が完全に操られているわけではないのだと気付いた。彼は必死に呪縛を解こうとしているのだ。


 しかし次の瞬間、彼は彼女を放り投げた。


 着慣れないワンピースでなければこんな転び方は無かっただろうと、無造作に投げ出された自分に愚痴る暇もなく瑠海は立ち上がり、今度は思いっ切り地面を蹴って後から彼の腰の辺り目掛けてタックルを掛けた。正気の時ならばた易くかわしたに違い無い彼女の体当たりを正面に喰い、二人は縺れ合う様に波間に倒れ込んだ。


 その様子をただ座って見ていたドルーチェが、何を隠す恥らいの仕草も見せず岩の上に立ち上がった。


「なぜ邪魔をするの? 友達でしょ?」


 悲しそうな声が静まり返った入り江に響いた。瑠海は、海水で張り付いた前髪を横へやるとドルーチェを見た。


「この人の正気を奪って海に誘って何をする気? この人は人間よ。分かってるの?」


「今夜は満つ月の夜。私達人魚が、生涯で唯一人の伴侶に巡り逢えるかもしれない大事な夜なのよ。」


「それが、この人だと言うの?」


 瑠海は、塩辛い海水で噎せながらまだ水に腰まで浸かったまま座り込んでいるランドーを支えてドルーチェを見た。彼女を見ながら、瑠海は自分の中に轟々と音を立てて流れる激流の様な音が有る事に気が付いた。こちらを見ているドルーチェは息を呑む程美しい。瑠海の目から見ても自分には彼女に勝てるものなど一つとして無いと分かっている。しかし、不思議と今は何も恐れるものは無かった。


 人魚の呪縛。それはローレライ伝説にも語られている。


「見て、この姿。私の願いが叶ったのよ。貴女達と同じ人の姿よ。その人も私がこうなる事を望んでくれたのね。嬉しいわ。」


「違う。そんな事、彼は望んでいないわ!」


「知らないのは貴女だけ。互いの望みが同じでなければ、私は人の姿にはならなかった。その人も、何処かでそれを望んでいたのよ。」


 ドルーチェの言葉に、瑠海は一瞬言葉に詰まったが、心の中には、そんな筈ない、と強く何度も念じる自分がいた。


「全て承知で、この月の夜に帰って来たの? 月が昇ってしまえば、月夜草が枯れてしまう事も、ランドーに偶さかその気が無くても誘惑する事が出来るようになる事も。殿下を助けてくれたお礼を言おうと思っていたのに。」


「全ては私達の力なのよ。彼は心に秘めていた想いを月に向けて開放したに違いないわ。」


「人魚の魔力? そんなバカな。」


「私も初めてよ。素晴らしいでしょ? 見て、私を。何て綺麗なの。楽しいわ。早く来て。」


 彼女には何の悪気も無いのだと、手を広げて岩の上で回って見せる一見お伽噺の妖精の様な清楚で美しい中にも艶めかしさを見せるドルーチェを見て思ったが、瑠海は拳を握りしめ、涙が溢れそうになるのを必死に堪え、自分を見ようとしない彼の目を覗き込んだ。


「目を覚まして、フィリップ・ランドー!」


 彼女は尚も表情を虚ろに立ち上がろうとしたランドーの頬を打った。不意の平手打ちに彼の顔に表情が戻って行くのをドルーチェは見た。操られたままの様なおぼつかない仕草で、彼は彼女を振り返り、震える手で抱き寄せた。そして堅く目を閉じた。腕に力が入った。しかし、彼は再び彼女を突き放し、ドルーチェの方へ足を踏み出したのだ。


 その時突然、音も無くランドーの側で水面が凄まじい勢いで盛り上がった。


 耳を劈く咆哮を上げて、黒い巨大な影が波間から立ち上がり、身構える事もしない無防備な彼に襲いかかった。


 瑠海は咄嗟に、人形の様に動かないランドーを庇うように割って入ったが、代わりに怪物の一撃を受けて跳ね飛ばされてしまった。


 波間に二人が倒れ込むと同時に、ドルーチェの叫び声が入り江に響いた。


 その途端、自由を奪っていた呪縛が解けたのか、ランドーは波の中から立ち上がった。怪物に対峙して咄嗟に剣を抜いたが、瑠海の姿が無い事に気付き慌てて周りを見回した。彼女は気を失い、うつ伏せで波間に漂っていた。


「瑠海!」


 ランドーは剣を納め、彼女を助け起こした。


「しっかりしろ。」


 怪物は、自分に背を向け波間に座り込んだ彼には目もくれず、呆然と岩の上に立ち尽くすドルーチェの元へ泳ぎ寄った。そしてそっと水面から顔を出した。


 まるで凪いだ海の様な優しく穏やかな響きが空間を埋め尽くし、ランドーはその全身を揺るがす微かな波動に総毛立ち怪物を見た。


「これが……人魚の……歌。」


 満月が煌々と照らす入り江は、先程までの喧騒が嘘の様に、怪物の歌う恋人への愛の歌で満たされて行った。


 気を失っている瑠海を抱き上げ、ランドーが立ち上がると、エドも正気を取り戻したらしく、こちらに逃げて来る最中だった。


「先に行ってゲイリーに準備をさせろ。それから、人手を繰り出し殿下をお探しする様に全員を叩き起こせ!」


 ランドーは自分の背からマントを取り裸のエドに渡し、人魚達の方をもう一度見た。


 交互に鳴き交わす海の生き物達は、何の不自然さも感じない光景だった。


〈誰なの? セラト?〉


〈私は私。他の誰でもない。お前に会いに来た。この世で唯一人愛するお前に。〉


〈私に? 会いに来てくれたの?〉


〈そうだ。この広い世界に、唯一人のお前に。〉


〈貴方だったのね。私を呼んでいたのは。〉


〈他に誰がいると言うのだ。愛しい人魚よ。〉


 ドルーチェは、海面から半身乗り出し腕を差し出した怪物に躊躇いも無く身を任せた。そして恍惚とその目を見詰め合う二人の人魚は、陸を一度も振り返らず静かに波間に消えて行った。




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