月の魔力

 瑠海は入り江への道を足早に歩いていた。


 あの怪物騒ぎ以降、海辺での工事は中断され、木槌の音も無く静かになっていた。


 ゲイリーによると、満つ月つまり満月は今日だ。

 ドルーチェは間に合うのだろうか。


 暇そうにしていた訳でもないのに、瑠海は途中食堂へ向かう一人の給仕係に呼び止められた。


「瑠海様、おはようございます。」


 運悪く長話しで有名な彼女だった。瑠海は適当に挨拶をしてかわそうと思った。


「また別宅の係なんですって? 大変ね。」


 何て情報の回りが早いんだと思いながら、彼女の興味津々な言葉にも瑠海は足を止めなかった。今は世間話に時間を使いたくない。


「仕事ですから。」


「ランドー様の寝室も貴女がお掃除しているのよね? 一度でいいから私も入ってみたいわ。」


 彼が王子の従兄弟だと知った今は、特に若い女達からは複雑な心境をもって遠巻きにされている事も納得した。彼女達からすると、よそ者の瑠海が彼と普通に話しをしている姿は許せなかったかもしれない。


「何処へ行くの? お屋敷は反対方向よ。」


「玄関に飾るお花を摘みに。どれでも好きなのを取っていいって言われたので。」


「まぁそうなの? お邪魔したわね。」


 言ってから彼女のそそくさした態度に、しまったと思った。お花摘み。つまりトイレへ行くと勘違いされたに違いない。


 意図せず長話に付合わされずに済んで一応作戦は成功したが、この習慣の違いは少々堪えている。城にはトイレが無いのだ。盥の様な言わばポータブルを使い、城の塀の外の汚物入れに溜めるのだ。昔の日本の様に定期的に農家が肥料に取って行くらしいが、入れ物は完全密封ではなく、その為、周辺は実は酷い臭いだったりする。快適で住み易い完全循環型の街を造る事も、今からの課題と言えるだろう。


 諸々のを忘れようと気を取り直し、瑠海は給仕係の女の後姿が見えなくなるのを確かめ、入り江への小道を下った。


 人魚の事も怪物の事も、もちろん王子が怪物の毒で倒れた事も、人魚に関わった城の一部の人間以外には極秘なのだ。今の給仕係の女ももちろん知らない事だ。悪戯に騒ぎを大きくする必要はないと判断した結果、ランドーはその事実と責任を、万が一の場合を憂慮し内部関係者だけに留める事に決定したのだ。そして行動と言動に注意するよう徹底させた。本国へは絶対知られてはならないと言う王子の言葉に従ったのだ。万が一の場合。そんな事……考えたくも無かった。




 潮の香りがして今日は波も穏やかな様だ。入り江の扉を潜るとエドが物見台の上に立っているのが見えた。


「ご苦労様。ドルーチェは見えない?」


 振り返ったエドは、どれだけそこに立っていたのかこんがりと日に焼け、小麦色のその上に鼻の頭を赤くしていた。


「瑠海様。まだです。本当に戻って来てくれるのでしょうか。」


「私も心配よ。でも信じて待つしかないの。」

「瑠海様も、こうなると分かっておられたから人魚を捕らえる事に反対だったのですね?」


「いいえ。誰も海の怪物の事は知らなかったの。ランドーも私も、ただ人魚を捕らえる事に反対だっただけよ。だって可哀想でしょ。」


 そう言った瑠海にエドは何か言いにくそうに下を向いた。そして決心したように、

「人魚の事を密告したのは……自分です。」


 瑠海はエドの突然の告白に目を丸くした。


「自分は……瑠海様の事が……好きでした。でも、こんな未熟で半端な自分を瑠海様が振り返りもしないのは……当然です。あの時の自分が、今でも信じられないのです。人魚の事を殿下にお知らせすれば、ランドー様を裏切る事になるのに、気が付いたら……」


 エドは漁師の子で母親を早く亡くし、父と二人だけで暮らしていたが、その父も漁の最中の事故で失った。行き場を無くした幼い彼を、ランドーが国王に頼み込んで城の下働きに雇ってくれたのだとか。


 彼のとった行動は既にランドーを通して聞いていた。改めて彼から詫びが入るとは思っておらず、自らの非を認める彼の勇気と誠実さを思った。


「……もういいのよ。全部終わった事だから。話してくれて有難う、エド。」


「お許し下さるのですか?」


「とっくに許してるわよ。私の国にはね、雨降って地固まる、って諺が有るの。あなたがやった事はその雨を降らせた事と同じ。殿下は人魚の事をより深く理解し、ランドーとのわだかまりも解消しそうだし。だから気にしないで。全て上手く行くと信じましょう。」


「有難うございます。……でも……」


 それでもまだ自分の中でスッキリしないものが有るのか、彼の表情は冴えなかった。自分自身が許せない、そんな様子だ。ここから先は、彼自身が自分の中で解決する問題だ。


 彼女は海との出入り口、洞門を見た。


 一日千秋の想い、とは正にこんな事を言うのだろう。ドルーチェの帰りを待ちながら、不安になると自分自身に呪文を掛けずにいられなかったのだ。その効果は意外と有効でランドーが言った通り、いつの間にか彼女の中から不安は消えていた。


 その時、


「瑠海様! あれを!」


 エドが海の方を指差した。


 波間に金髪らしき物が見えた様な気がして彼女も身を乗り出した。


 それはゆっくりと確かに洞門を入って来る。


 見間違えではないのか。


〈ドルーチェ!〉


 瑠海は思いっ切り叫んだ。すると波の音に紛れてしまいそうな程小さく返事が返って来た。


〈瑠海。遅くなって、ごめん。〉


 疲れ果てた声に瑠海は我を忘れて、波打ち際から海に入った。


〈ドルーチェ! お帰り!〉


〈ずっとそこにいてくれたの。〉


〈待ってるって言ったでしょ。〉


〈貰って来たよ、これが月夜草。ちゃんと出来たでしょ、私。〉


 得意げに笑ったドルーチェに、何時かの横倒し宙返りとかけているのだと悟り、瑠海は苦笑した。


 ドルーチェは手にした黄色い花を付けた黒い草を瑠海に差し出したが、彼女の顔は、今まで見せた事もないくらい窶れていた。


〈大変だったみたいね。大丈夫?〉


〈平気よ。少し休めば。〉


〈本当に? 無理しないで。〉


 目を閉じる様にうなずくドルーチェ。


 瑠海は受け取ったものの、見たこともないその草に彼女を見た。


〈それで……コレをどうやって使うの?〉


〈摺りつぶして汁を飲ませるだけよ。早く行って。とにかく、早く。〉


 そう言われて、夕陽が沈みかけている事に気付き瑠海は身震いした。満月が昇る事が何か重要な意味を持っていると感じたのだ。


〈分かった。すぐに殿下の所に行くわ。これを飲んで頂いたら戻るから、待ってて。〉


〈私の事はいいから、早く。〉


〈ドルーチェ。本当に有難う。〉


 人魚は瑠海の背中に軽く手を振った。




 知らせを受けたランドーが、ゲイリーと共に乳鉢を用意して待ち構えていた。


 手の中の草は海から上げた途端に萎れ始め、どうしても王子の人としての命までもが消えて行く事を連想させた。


 部屋の中へ入ると、中の空気の変化に思わず彼女は身構えた。今度は前の状態とは比べ物にならない程の、妖気とでも言う物が入り混じっている。明らかに満月の影響だ。


「その草を、どうすれば宜しいのですか。」


「擦り潰して汁を搾るの。それを飲ませればいいって、人魚が教えてくれたわ。」


 しかし、草は見る見る萎んで行く。


 薬草を使う要領で慌てて乳鉢に草を入れ、水を一滴垂らすと、ゲイリーは擦り潰しにかかった。草を乳棒で抑えた瞬間、何とも言えない嫌な臭いが鼻を突き、固唾を呑んで見守る二人は、思わず口と鼻を手で塞いだが、次に我慢出来ない吐き気が襲って来た。鼻で息をしないように口で息を吸うが涙が込み上げて来た。一体何の臭いだと思いながらも、ゲイリーも必死だった。ようやく何とか搾れる状態になった。さすが医師だけあって、彼は一欠けらも残さず草を薄い布に包んだ。


 恐ろしい寝息を立てているシャルル。失敗すれば次に目を覚ました時、彼はもう人を襲う殺人鬼と化しているかもしれない。そんな思いが少しは有っただろうか、彼の手は震えていた。


 通常なら一旦器に移す所を、どう判断したのかゲイリーは、彼を起こさないようにそっと近付くと、開いたままの口の上で布に入れた月夜草を搾った。ところが今まで少しは湿り気が有ったのに、枯草の様にそれは軽く、水分などどこにも有りはしなかった。微かに一滴でもいいのに。月は止まる事無く赤い光を山の稜線から覗かせて昇り続けていた。


 しかし月夜草は無情にもたったの一滴さえも垂らしてはくれなかった。


「貸してみろ。」


 ランドーは医師の手から布を取ると、祈る様に目を閉じ指に渾身の力を込めて搾った。


 すると……臭いとは裏腹の月の雫を思わせる金色の微かな雫が、彼の長く滑らかな指を染めながら王子の口の中へ落ちて行った。


 瑠海は、無意識に人魚の言葉を心の中で叫んでいた。


(〈この人を、どうか連れて行かないで!〉)


 ガチガチと牙が噛み合う音がしたかと思うと、シャルルがカッと目を見開いた。血走った大きな目が瑠海を見た。


「遅かったの?」


 髪を逆立て、秀麗な顔を歪め王子が叫んだ。


 ヴァァァーー!


 まるで、獣の様な叫び声だった。


 王子はベッドに手を付き、後退る三人を恐ろしい形相で睨んだまま起き上がった。


 ランドーが剣の柄に手を掛けた。


 その時、彼等の目の前で仁王立ちになっていたシャルルが金色の光に包まれたかと思うと、頭を押さえもう一度叫んだ。そして彼はガクリと膝を落とした。


「殿下!」


 ランドーは、肩で苦しそうに息をする彼を助け起こし、ベッドに寝かせた。


 瑠海は咄嗟に窓の外を見た。山からは月がすっかり顔を出していたがさっき欠片が見えていた月とは全く違う気がした。月夜草を枯らしてしまう月の光は、妖気さえ漂わせ赤く鈍い色をしていた。しかし、今見る月はいつもの何の変哲も無いただの月だった。


 ゲイリーがホッとしたのか座り込んだ。


「間に合ったみたいですね。よかった。」


 瑠海も大きく息を吐いた。昇り際の月が大きく赤く見えるのは、考えてみれば当たり前の現象だが、確かに普通ではなかったのだ。


「私達がお分かりになりますか、殿下。」


 そう言ったランドーにシャルルは頷いた。


「ああ、助けてくれたのだな。」


「人魚の薬が効いたのです。」


「不思議な夢をずっと見ていた。足を捕まれ、怒りに満ちた海に引きずり込まれて行く夢だ。藻掻いてもどうする事も出来ず、暗い波間にどんどん陸が遠くなって行く。とても恐ろしい夢だった。そんな中に私を呼んでいる声が聞こえて来た。確かに其方と瑠海の声だった。そのお陰で陸を見失わなかった。礼を言う。」


 彼の言葉に、ランドーが息を呑んだのを瑠海は見逃さなかった。


「殿下……」


 ランドーはベッドの横の椅子に腰を掛けた。


「私、ドルーチェの事が心配だから、ちょっと行って来るね。」


 瑠海の言葉に振り返り、分かった、と彼は頷いた。彼女は彼にチラリと目配せをして、ドアを出て行った。長年の誤解を解くいい機会だと言いたかったのだ。


「人魚を解放しなかったのか?」


「彼女が薬草を取りに行ってくれたのです。」


「ドルーチェが?」


 首を傾げて自分を見ている人魚の顔を思い浮かべながら、王子は窓の外を見た。


「瑠海のお陰だな。このまま私の側に置いておくかな。話も面白いし……」


 ランドーの顔色に笑い出すシャルル。


「冗談だ。気が強いのは姉上と同等、いやそれ以上だな。久し振りに叱られたぞ。」






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