誓 い
その夜。月が高く昇ってもシャルルに昨晩の様な容態の急激な変化は無く、一抹の不安を抱きつつも、ランドーと瑠海はゲイリーにその場を預け別宅へ一旦引き上げる事にした。
街の者達は瑠海の言葉通りに死んだセラトを手厚く葬り、エドの報告では胸深く刺さっていた矢を魔除けと称して、町の出入口の門に祭ったとの事だった。
別宅は表から見えている部分こそ小さいが、深い木立に囲まれて見えていない建物は瑠海が想像していた以上に大きい事が分かった。廊下の突き当たり、その先は重い鉄の扉で閉ざされていた。その扉の前に蝋燭を持って瑠海は立っていた。考え事をしている内に来てしまったのだ。
ふと脳裏をセラトの言葉が過った。
〈お前は人魚なのか?〉
なぜ彼は、あんな事を言ったのだろう。
疲れが溜っているのか頭が重く、瑠海は何気無く扉に背中を向けて寄り掛かった。
突然、 ドーン!
地を揺るがす様な扉の閉まる音が響いた。
瑠海は驚いて扉の側から飛び退き振り返った。
この向こうには何が有るのだろうと思った時、
「何をそんなに熱心に見ているんだ?」
後ろから声を掛けられ、驚いて振り返るとランドーが立っていた。
「今の大きな音は何? 中に誰かいるの?」
目を丸くして聞く瑠海に彼は眉を顰めた。彼には何も聞こえなかった様で動揺した様子の彼女に笑った。
「可笑しな奴だ。この先は何年も無人だ。」
そう言いつつ、彼は扉に手を触れた。
「この扉も閉めて久しい。」
「向こう側はどうなっているの?」
「古い屋敷と繋がっている。この別宅は母が主に使っていた建物なんだ。」
「入り江の家の絵の中にも、この扉に彫られてるのと同じ紋章が有ったわ。赤ちゃんを抱いた女の人が描かれている絵よ。あれがあなたのお母様なの? 随分古い絵だったけど。」
「入り江の家に絵が?」
ランドーは、何かを思い出そうとしているのか、急に視線を足元へ流した。
「あの小屋か。あの入り江には不吉な噂が有ってずっと誰も近付かなかった。長い間閉められていたから随分痛んでいただろう? 絵は古い物も沢山って誰の物か分からないな。」
彼の口調は、いつにも増して静かだった。
瑠海は彼の視線の先を追った。何かそっと触れずに置いておきたい物を見る様な静かさに、これ以上は詮索をしてはいけない気がした。同時にいつかそれを一緒に見守る事を許される自分に成りたいとも思った。
「そろそろ行くぞ。」
これからシャルルの無事回復を祈る為に教会へ出掛けるところだったのだ。
月の明るい夜道。黒いフード付きのコートを着て二人は並んで歩いた。夜ともなると真っ暗で出歩く者は誰一人いない。
「殿下とは従兄弟同士なのね。」
「誰かに聞いたのか。」
「あなたが一晩中付きっ切りで看病してたって言ったら、殿下が寂しそうに話して下さったわ。自分が皇太子になった時から、急に口をきいてくれなくなったって。いつも一緒だったのに、きっと寂しかったんじゃない? 皇太子って言ってもまだ17才だもの。」
「殿下が皇太子となられた時、私は臣下に下る事を決めた。変わらずにいたつもりだが、そんな風に思っておいでだったとは。」
「殿下に最初にお目に掛かった時、あなたが言った事、今は分かるわ。気に入られたら飽きるまで付き合わされるって言いたかったんでしょ? 寂しがり屋だもの。」
彼はフードを直し、周りを見ている。
「幼い頃、私を疎ましく思う一派に追放されそうになった事が有った。その時、まだほんの三歳でいらした殿下が私にしがみついて、どうしてもダメだと止めて下さった。病弱な殿下は私以外の者には懐いておらず、引き離せばきっと命が無いと皆は想像しただろう。王家の男子とは言っても三男など、殆ど顧みられる存在では無い。私はまだ八歳だった。でも、この小さな王子を護り共に生きて行こう、それが私の進むべき道だと強く思った。」
何を思ったのか、急に彼はクスッと笑った。
「どうしたの? 思い出し笑いなんて。」
「あれでも幼い頃はとても素直でいらした。ミミズの死んで干せ枯れた物に水を掛ければ生き還えると言ったら、日中一日炎天下で眺めておられた事も有った。無邪気と言うか、人を疑わないと言うのか……」
「もしかして、それ、あなた苛めてたんじゃないの? 小さくて知らないかと思って。」
「……言ったのは、私の姉だ。」
「……フローラ様が?」
「姉の事も知っているのか。」
「とても綺麗な人だってマーガレットさんに聞いたわ。」
「実はミミズの他にも色んなもので引っ掛けられた。実際死んだ様に見える花の種は土に植えると芽を出すだろ? それで私もすっかり姉を信じてしまって騙された。」
瑠海の想像の世界で、世にも稀なる美少女フローラが、小さい二人に向かって大真面目な顔で最もらしい蘊蓄を垂れ演説をぶっている光景が浮かんだ。想像するだけで可笑しくなって瑠海はとうとう笑い出した。
「今思えば随分ひどい仕打ちだな。その後、熱を出して殿下は倒れられたんだ。」
ポツリと言ったものの、瑠海の笑っている様子を始めは冷静に見ていたランドーまで遂には笑い出した。
「あなたも一緒に見てたんでしょ、ミミズ。」
「なぜ分かる?」
「ええっ! うそっ!」
瑠海は笑いを止められなくなっていた。
「こんなに笑ったのは、何年振りだろうな。」
呼吸を整えながらそう言ったランドーに、何年も笑っていなかったなんて、ストレスは溜る一方でいい事は無いと思う瑠海だった。。
話に夢中になっている間に教会に着いていた。
町の広場の正面にその建物は有った。全ての家がドアを閉ざし、灯りを落としている中、神の家だけは祈りを捧げに来る者の為にいつも開いている。何処の風景も同じだ。
中に入ると、まるでそこがキリスト教の教会だと錯覚しそうな佇まいだった。荘厳とは言えないが、丸い形の天井と窓に嵌め込まれた色とりどり鮮やかなガラスの絵はステンドグラスそのものだった。壁に掛けられた沢山の大きな絵画も、民衆に分かり易く神の教えを説く為の道具なのだろう。
「このロッシフォールはレアエンドで最も歴史が古く、先代の王の居城はここに有ったんだ。人が増え、手狭になった為に今のドレアルに政の中心が移されたのだ。」
祭壇の前に跪き、二人は長い祈りを捧げた。神の名前は違っても、信ずる道はキリストも、それこそ仏様も同じだと瑠海は思っていた。今前にした神は見知らぬ姿をされているが、誰でもいい、シャルルとランドーを助けて欲しいと心底そう思った。
「ここは波の音が聞こえて来ないな。」
「あなたも水の音が嫌いなの?」
「ああ。聞いていると引き込まれそうな錯覚に捕らわれる。戻れない海の底へ沈んで行きそうで不安になるんだ。」
「私も波の音は嫌い。海の家では安心して眠れなかった。ここは静かね。」
瑠海は、普段と違う憂いに滲んだ彼の眼差しに心が痛んだ。
「やっぱり心配よね?」
彼の事だからきっと、王子と代われるものなら代わってやりたいと思っているに違いない。
「殿下に万が一の事が有れば、全ての責めを負わねばならぬ。元よりそのつもりだが……」
「珍しく弱気ね。」
瑠海の言葉に、彼はただ堅く目を閉じた。その様子に彼女も口をつぐんだが、
「私だけならば、覚悟は出来ている。だが、国王陛下はそうはおっしゃるまい。」
「ランドー。少なくとも私は覚悟をしていたわ。ドルーチェを信じると決めた時から。恐くないと言ったらウソだけど。一緒にいるのが私じゃ不服かもしれないけど、磔になる時は隣に並んであげる。」
「そんな事、軽々しく言うな!」
「好い加減な気持ちで言うと思うの? あなたが、殿下やこの国の人達の事をどれだけ大事に思っているか分かっているつもりよ。殿下に厳しい事を言うのもただその想いの裏返しなんだって。こんな事になったのも不可抗力としか言い様が無いけど。でも、あなたに何か有ったら……」
「それでいいのか?」
「後悔なんてしない。」
躊躇いを振り払う様に、ランドーは瑠海の肩を抱き寄せた。
「いっ、いきなり何?」
揺れる蝋燭の明かりの中、じっと黙って彼は瑠海を抱き締めた。そして彼女に聞こえるだけの声で言った。
「お前だけは守りたい。何があっても。」
瑠海は、思いもよらない彼の言葉に胸の鼓動が大き過ぎて声にならずにいたが、
「私も大事な人を失いたくないの。その時は一緒にいさせてよ。私も一緒に。」
彼女の真剣な眼差しに彼は息を呑んだ。
「国にも帰れなくなるのだぞ。」
地理的に同じ星の上、あるいは時間軸が同一であれば、きっとそれも叶うだろう。しかし、ここと自分が存在していたあの世界とを隔てる壁が、人知の及ばない物だと気付いてから、瑠海はずっと見ない振りをしているのだ。
「戻る事なんて、始めから考えてないわ。」
ランドーが、堅い決意を込めた次の言葉を瑠海に言おうとしたその時、祭壇の裏に有る懺悔室から申し訳無さそうに一人の老人が出て来た。
「これはどうも……お邪魔しましたかな。」
第三者の出現に、瑠海は慌てて彼から離れようとしたが、彼は腕を緩めなかった。
「私達の決意を、神に聞いて貰わないか?」
ランドーの言葉に老人も立ち止まった。瑠海は彼の青い瞳を見た。そこには蝋燭の灯に照らされた自分の姿だけが映っていた。
「私と行く道は、恐ろしいか?」
彼を見る時、段々見慣れて来ている筈なのに、その度ごとに思ってしまう。こんなに優しい眼差しの人を見た事が無いと。
瑠海は小さく首を振った。
「怖くない。あなたと一緒なら何処だって。」
祭壇に跪く人の数だけ祈りが有る。
「司教、夜分で申し訳無いが、私達の宣誓を聞いていて下さるか?」
僧衣を今は着ていないが、この老人は教会では権威の有る位の僧らしい。
「ランドー様。先日からのお悩みをどうやら解決なされたようですね。」
「不確かな世を共に歩む者を見付けたのだ。」
「それは、宜しゅうございました。」
老司祭は柔和な笑みを浮かべて瑠海を見た。
「実は、殿下よりお印を預かっております。」
「殿下から?」
「もしも、ランドー様が何時か心に決めた御方をお連れになられたらと、仰せつかっております。少々お待ち下さい。私も準備をして参ります。神に捧げる誓いは、正式な手順を踏みませんと後々問題が起こります故。」
羊皮紙に書かれている文言を読み上げる司祭。誓いの言葉の最期には、互いの手で書かれた署名が要るのは何処も同じだ。
内容は、簡単に言えば命の有る限り何が有ろうと二人は互いに敬う心を以て寄り添い協力し、この国の為に尽すと言うものになった。
「全身全霊をもって神に誓う。私が生涯愛するのは瑠海、お前だけだ。いつも一緒だ。」
その言葉は、それを知らずに散々想像していたより、実は至ってシンプルなのだと思いながら、瑠海はランドーに続いて筆を取った。お互いを尊重し合う事。それが全てだ。
「私も愛してるランドー。約束よ、ずっと一緒って。でも全て上手く行くわ。そんなに深刻に構えないで。きっと大丈夫。だけど……」
「何だ?」
「私達、まだキスもしていないのよ。」
「それは……つ、つまり・これからだ。」
老人は二人の署名を確認すると、自らも名前を記し金印で封をした。そして恭しく頭を下げ、祭壇の傍らに有る厨子に納めた。
じっと見詰め返して来るランドーに、瑠海は何も言えなくなって少し下を向いた。
その仕草に、彼も表情を緩めた。
どちらから求めるでもなく、二人は口付けを交わした。
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