海の魔女


 海草が生い茂る大陸棚を泳ぎ切ると、そこはいきなり深い口を開けた海溝になっていた。


 下へどんどん降りて行くと燦燦と降り注ぐ夏の太陽の光さえ青く暗くなり、赤い珊瑚も黒にしか見えなくなって来る。


 魚達がドルーチェの周りに集まってきた。人に捕まった筈の彼女が帰って来たと早くも聞こえたのか、様子を見に来たのだ。


〈ドルーチェ、どうやって帰った?〉


〈人間は恐ろしかったろう?〉


〈お前を見せ物にしたか?〉


 勝手に騒ぐ彼らを振り切る様にドルーチェは泳ぐスピードを上げた。


 その時、いきなり彼女の目の前に大きな影が立ちはだかった。この海一の巨体を誇示する齢百才を越えた巨大な鯨だ。彼女はドルーチェの周りを意味有りげに回ると、フンと鼻で笑って何処かへ泳ぎ去った。


 ドルーチェの中に一抹の不安が過った。


 あやふやな気持ちでここまで来た自分を見透かされた様な、薄気味の悪さが込み上げて来たのだ。


 その時、首に下げたランドーから手渡された宝石が波に揺れ彼女の胸にそっと触れた。途端に頭の中に彼の面影と、シャルルの放った悲しい海の匂いが交互に浮かんで来た。海に住みながらまだ自分が全てを知らない海の存在。それはひたすら愛しいものだった。あれに応える為なら……ドルーチェは、しっかりと前を向いて水を切る尾鰭に力を入れた。


 海の魔女が住むと言う火を吹く山に近付くに従って、その妖気とも言うべき異様な雰囲気にドルーチェの泳ぎが遅くなった。


 段々苦しくなって行く息に彼女は止まった。


 まだ魔女の洞窟は見えない。彼女は勇気を振り絞って再び泳ぎ出した。約束を守らなくちゃ。ただ思うのはそれだけだった。


 尾鰭に纏い付いて来る熱く淀んだ水と、胸を突く様な臭いが辺りに立ち込め始め、洞窟が近い事を物語っていた。草も動く生き物の影一つ見えない。こんな場所に魔女とて住む事など出来るのだろうか。聞こえて来る低い地鳴りと共に、彼女の恐怖と不安は募るばかりだった。


 そもそも、魔女などいるのだろうか。


 ドルーチェは泳ぐのを止めた。


 本当はいるはずの無い者を自分は探しているのではないだろうか。

 

 魔女を一度でも見た事が有るか? 都合の悪い時に引合いに出される単なる架空の存在ではないのか? 月夜草もそうだ。見た事など一度として無い。


 何故こんな所へ来た。


 人と交わした約束を守る為? それが何になるのか。

 自分は人魚。あの人達は陸の人……どんなに想っても……


 ドルーチェは引き返す為に方向を変えそうになった。


 その時、声が聞こえた。


「必ず帰って来てくれ。」


〈絶対に出来る。あなただから任せるの。〉


 彼女はハッとして我に返った。


 目の前の海は底が見えない程に暗かった。


 自問自答の様にも聞こえるその言葉を、嘲笑う様にいきなり声が響いた。


〈例え想いが届かなくともか? いじらしい乙女心だねぇ。だがそれが何になる? そのまま帰っていればよかったものを。〉


 彼女の頭の中に勝手に入ってくる嗄れ声。


 ドルーチェは、恐怖に両耳を押さえて辺りを見回した。


〈だっ……誰?〉


〈お前が探している者さ。〉


 周りに目を凝らしても姿は見えなかった。そんな様子を向こうは見ているのか、楽しんでいる様にクスクスと笑っている。


〈お前は人魚なんだよ。もうすぐ満つ月の夜じゃないか。悪い事は言わない。そんなモノはここで火に焼べておしまいよ。〉



〈私は、ただあの人達との約束を守りたいの。相手が人だろうと、人魚だろうと。約束の重みには変わりないでしょ!〉


〈それはそうだが。お前、自分のしようとしている事がどんな事だか分かっているのか? 仲間を殺した敵を助けるんだ。お前も裏切り者として二度と海には帰れなくなるんだよ。〉


〈あの怪物の事を言っているの? あれはアイツが毒針を飛ばしたせいでしょ。〉


 声の主はいきなり笑い出した。


〈怪物か。言い様だね。無理も無いか。お前にとっては初めての月の夜だものね。〉


〈どう言う意味よ。〉


〈あれはお前のセラトだよ。旅に出て行った男がどんな姿になって帰って来るのか、誰も教えてくれなかったのかい?〉


 ドルーチェは呆然となった。


〈うそ。あんなのセラトじゃない。私をからかっているんでしょ。セラトは仲間内でも綺麗な顔をしていたわ。あんな怪物じゃない。〉


〈確かに。あんな美しい男はいなかったよ。旅から帰ったアイツも飛び切り男らしく成っていたじゃないか。惚れ惚れしたよ。〉


 魔女の言葉を聞かない様に首を振る人魚。


〈違う。セラトじゃない。もしそうだとしても、私を待たせ過ぎたのが悪いのよ!〉


〈美しいお前の為なら喜んでその身を捧げてくれたろうに。つくづく哀れな男だね。月の夜を前にあんな所で命を落とすなんてさ。〉


 ドルーチェは唇を噛んだ。


 あれは本当に恋だったのだろうか。ただ幼くて、皆に好かれるセラトを独占したかっただけなのではないだろうか。

 それに比べてランドーを想うこの気持ちは何だろう。熱くて心が痛くなるようなこの狂おしさは。


 漁師の網に捕らえられ、死さえ想像した自分を、彼は周りを取り囲んでいた兵士の手から救ってくれた。相手は陸に住むだ。充分に分っていたのに、もう一度会いたくて、その想いをどうしても抑えられず、城の近くの入り江に入ったのだ。しかし彼を想って歌った歌に気付いてくれたのは瑠海だった。彼女も彼に想いを寄せている事は最初から分かっていたが、それは彼女自身もまだ気付かないほど淡く儚く、ほんの些細な事で崩れてしまう美しい海の泡の様なものだ。


 彼の想いはどうなのだろう。瑠海との間にまだ何も無いのなら、彼はこの想いを受け止めてはくれないだろうか。


 彼のあの高い空を写した深い海の様な青い瞳を想った。弓を引く美しい姿態。あの腕に抱かれる自分を想像するだけで幸せだった。


 ドルーチェは見えない相手を見詰める様にじっと前を向いていた。


〈愛しているの、彼を。ランドーを。〉


 ふと自分を舐め回す様な視線が有る事に彼女は気が付いて身震いした。


〈月は人魚のお前を、どう導くんだろうね。〉


 魔女は意味深な言い回しで彼女を惑わそうとでもしているのか、哀れそうに続けた。


〈魔力はお前にも有る。それをどう使うかだ。陸は誘惑に満ちた穢れた世界だよ。喜び、悲しみ。それら全てが合わさった所に何が撓んでいるのか、お前には想像も付くまい。〉


〈どう言う事?〉


 聞き直そうとしたが答えは無く、


〈なかなか曰く付きの物を持っているじゃないか。その男がお前に託した品だね。お前は、それがどんな物語を秘めているか知っているのか? 母の形見とは言っても、その男にしてみれば手放す事に何の躊躇いも感じ無い品物だ。お前も人魚ならば、触れるだけで感じる事ぐらい出来ようものを。それとも恋の熱に浮かされて何も気付かなかったのかい?〉


 ドルーチェが宝石にもう一度触ろうとした時、首をすり抜けるように重みが無くなった。


〈気に入ったよ。あたしはこんな捩じれて歪んだ複雑な情念の篭った物が大好きなんだ。欲しいのは月夜草だろ。王子の命をこれで売ってやる。持って行くがいい!〉


 気が付くと、見た事も無い黄色い花を付けたまっ黒な草が、彼女の手にしっかりと握られていた。


 いつの間にか、ドルーチェの周りから魔女の気配も取り巻く息苦しさも悉く消えていた。


 私を裏切ったあの人を、私は愛しさではなく憎しみで噛み殺した。

 これは、あの月の下で見たあの人の血と同じ色をした赤い石。

 陸の世界の約束の石。

 何もかもが幼かったのは私。

 私はあの子をあの場所に置き去りにした。

 永遠の孤独を、海の底でこの身が朽ちるその時まで、これを眺めて過ごそう。

 血が流れる……再びあの月が昇る




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