ドルーチェの番(つがい)
打ち上げられた黒く巨大な生き物のせいで、浜辺は大変な騒ぎになっていた。
ランドーと瑠海が姿を現すと、ざわめきが止み人垣が左右に分かれて道を作り兵士が息を切らせて駆け寄って来た。
「怪物は、まだ生きているのか?」
ランドーの言葉に頷き、先に立って案内をする兵士。
「話しが出来ればいいんだけれど。」
瑠海の言葉に、兵士はギョッとした表情で彼女を見た。彼は外警護が主で彼女の事をあまり知らないらしく、頭が変なんじゃないかと言わんばかりである。
「背鰭には猛毒が有る故、誰も近付けるでないぞ。」
「ガードナーから聞いております。元より近付く者などおりません。」
「ならばよいのだ。」
ランドーと瑠海が人垣の切れる所まで来ると、波打ち際にまっ黒な岩を思わせる物が横たわっているのが見えた。
幅の広い怪物の胸板に深く刺さったままに折れているのは、昨夜ランドーが放った矢に違いない。矢は戦の際には大量に使われる道具となるが、通常警備に使われている物には、所属と所有者が分かる様に個別の色が塗られている。特に彼の物は、腕のいい職人が丁寧に作った逸品で正確に狙った的を射抜く様に作られているのだとか。
矢の傷の他に、何かに襲われたのか怪物の尾鰭は半分食いちぎられ、体中傷だらけだった。これでは海に返しても助からないだろう。
壊死した体の部分から放たれる噎せ返る様な異臭は、昨夜のシャルルの臭いと酷似していた。二人が息を呑んだのは、その横たわる姿があまりにも巨大で人に似ていたからに他ならない。
〈早く……殺せ。〉
不意に唸る様に響いたのは怪物の声だった。
〈あなたに聞きたい事が有るの。〉
怪物は彼女の声に驚き目を開けた。
〈この地上で、俺達の言葉を喋る奴がいる。〉
〈あなた、ドルーチェを知っているわね。〉
〈何者だ。なぜその名を知っている?〉
〈彼女とは友達なの。〉
怪物は、ゆっくり体勢を変えて瑠海の方を向いたが、ランドーに気付くと背鰭を逆立て激しい威嚇の音を立てた。
「待って!」
瑠海はランドーを押し留めたが、怪物の目はまっ赤に光り尚も唸り続けた。
〈お前か。お前の方を先に撃つべきだった。お前みたいなヤツがいたとは。〉
「これ以上手向かうな。とどめを刺して欲しいのなら話しは別だ。」
〈この人もあなたが王子を撃たなければ、弓で射たりしなかったのよ、分って。〉
尖った牙を口元から覘かせ、魚の様でもあり人でもある様な岩を思わせる顔に明らかに笑みが浮かんだ。しかし、赤い二つの目は瑠海を睨み続けていた。
〈あれは王子だったのか……これは愉快だ。ドルーチェの友と言ったな。笑わせるな。人はいつも我らを狩ることしかしない。あいつが友になどなるものか。〉
〈でも友達なの。彼女に腕輪を貰ったわ。〉
瑠海が見せた物に怪物の顔が歪んだ。
〈あんな所に閉じ込めても友と言うのか。〉
〈あなたの毒を消す為に、彼女は自分から進んで海の魔女の所へ薬草を取りに行くと言ってくれたわ。〉
〈ばかな……月夜草をか?〉
〈そうよ。教えて。あなたは何者なの? なぜあんな場所に現れたの?〉
〈もしや王子が
〈ええ。とても見ていられない状態だった。でも夜明けには跡形も無く消えたわ。〉
〈満つ月の夜は明後日か……間に合えばいいな。ドルーチェも本気で取りに行ったのかどうか分からんぞ。魔女に交換を頼む物が欲しいと言わなかったか?〉
〈言ったわ。それが何よ、当然でしょ〉
〈それが目当てだったのかもしれんのに。お人よしだな。どれだけあいつの事を知っている? 任せてよかったのか? あいつが帰らなければ、王子は苦しみ藻掻いて死ぬんだ。巻き込まれる周りの奴等もいい迷惑だな。〉
怪物は愉快そうに口元を歪ませた。
〈何よ。何か起こると言うの?〉
〈お前の国ではそれを称して祟りと言うそうじゃないか。人魚を捕らえた報いだと。〉
〈やっぱり毒に侵された者がそれを起こすのね。あなたは本当に何者なの。答えて。〉
〈俺は、あいつと番う約束を交わした者だ。〉
〈
瑠海のひどく驚いた声に怪物は、牙を剥いて笑った。
〈あまりにも見てくれが違い過ぎるか? だが我らの世界ではこれが通常だ。〉
そう言った怪物の言葉はどこか寂しげだった。
嫋やかで美しい雌と、猛々しくも醜い雄。それが人魚の世界では当たり前の事だと言ったにも関わらず、この雄は嘆いている様な気がして瑠海は怪物に近付きその体に触った。その瞬間、不意にドルーチェの笑顔が脳裏に浮かび、怪物は不思議そうに彼女の目を見た。瑠海もまた、五感ではない何かに触れられた様に自然に涙が頬を伝っていた。
〈魂に海を持つ者……お前は人魚なのか?〉
思いも寄らない彼の言葉に彼女は頬を拭い、
〈違うわ。これは涙よ。でも私達の身体に流れる血も元は同じ地上に降る雨で出来ているの。〉
〈雨……海も人も同じ水で……そうだな。〉
瑠海は怪物の目を見詰めたまま言った。
〈あなたの名前は?〉
〈今更聞いてどうする。〉
〈彼女に伝えるわ。愛しているんでしょ?〉
怪物の目からは光が失われつつあった。
〈俺はセラトだ。伝えてくれ人魚の信頼を得た者よ。約定を違え満つ月の夜まで待てなかった俺を許せ。それ程にお前を愛していたと。〉
言い終わらない内に怪物は息絶えた。その瞬間、砂の上に横たわっていた大きな体は見る見る縮み、まるでミイラの様になってしまった。回りを取り囲んでいた漁民も町の人間達も騒然となった。
セラトの
巨大な怪物が絶命して安心したのか、人垣の端の方から、町の年寄りが遠慮がちに瑠海に言った
「あのぉ……巫女様。怪物は何と?」
問い掛けられた方は、一瞬何の事だか分らずに年寄りの顔を見た。しかし、彼のその目は明らかに彼女を頼り縋がるような目だった。気が付くと大勢が彼女の言葉を待っている様に見ていた。彼は集まった者達の代弁者らしい。そんな目で見られる言われは彼女には無く思わずランドーを振り返った。彼は話を上手く合わせろ、と首を小さく横に振った。
「怪物の針で怪我をした人はいませんか? いたらお城に連れて来て下さい。充分な手当をしないと大変な事になり兼ねません。」
「一軒一軒調べさせます。」
「それから、怪物に刺さった矢を抜いてから沖に引いて行って、躯を葬ってやって。そうすれば祟りは起こらないと思います。」
「分かりました。」
「……頼みましたよ。」
「怪物はワシらを恨んではいないのでしょうか?」
年寄りの言葉に瑠海は一瞬の間を置いた。彼等は例の入り江にドルーチェが飼われていた事も昨晩の出来事もしらないのだ。心配になるとしたらそんな事柄だろう。
「ええ、大丈夫。この町の人に恨みは無いと言っていました。」
「矢を町の魔除けにしても宜しいですか? 」
セラトが哀れなだけなのに、それを魔除けになどと……瑠海は言葉に詰まった。
ランドーが、町の者達に囲まれそうになっている瑠海との間に入って来た。
「矢の事は、其方等の判断で如何様にでもするとよい。これで失礼する。先程の怪物との遣り取りでこの者も疲れている。」
ランドーは、瑠海の肩に手を回し城へ引き返す道をとった。
周りから人の目が無くなった頃、ランドーがやっと口を開いた。
「以前、お前が人魚と話す所を目撃した者達の間で、いつの間にかお前を巫女だと噂し合っていたのだ。巫女は海の神の使いだとみんな信じ込んでいる。この辺りではまだそんな自然物に対する信仰が根強いのだ。巫女の言葉は絶対だ。あれで安心するだろう。」
「私はそんな大それた者じゃ……」
巫女なんかじゃない。何も分からないただの人間よ、と瑠海は言いたかった。
「分かっている。そう思わせておけばいい。それで騒ぎが起こらないなら。」
瑠海は零れ落ちそうな涙を目に溜め、
「刺された人がいないか本当に調べさせて。一人でもいたら、大変な事になる。」
「分かっている。兵を何名か付けさせるから安心しろ。」
瑠海は顔を手で覆った。
それを見て彼女をマントで庇うように包み込むランドー。
「人前で取り乱すな。町の者が不安がる。」
瑠海はランドーの胸甲に額を付けて声を立てずに泣いた。様々な事が頭の中に渦巻いていた。王子はドルーチェが戻らなければ祟りの元凶となって死んでしまう。彼の我が儘で閉じ込められていたにも関わらず、ドルーチェは彼を助けたいと言い出し、彼の運命を自分は彼女に預けた。彼を恨んでいるはずの彼女に。あまつさえランドーは彼女と番う約束をしていた恋人のセラトを弓で射殺してしまったのだ。それでも彼女は王子を助けてくれるのだろうか。
瑠海の小刻みに震える背中を抱きながらランドーは目を閉じた。
彼女はまた何かを心の中に抱え込んでいるに違いない。その胸の中に有るものを少しでも軽くしてやれればいいのにと思った。ドルーチェの時も瑠海は一人で全て背負い込むつもりでいたのだ。どんな仕打ちを受けようと海に返してやるまで。この小さな体の何処にそんな勇気が宿ると言うのか。その健気な姿を目にする度、抱き締めたい衝動が頭を持ち上げていた。無理にでも救い出す事も出来た。しかし、敢えてそうしなかったのは、彼女の気持ちをふいにすること無く、シャルルの王子としての自覚を促す為だったのだ。
表向き平穏無事なこのレアエンドも難題が山積したあやふやな砂上の楼閣でしかない。油断すれば身内にさえ足元を抄われかねないのに、事無かれ主義の末にいつしか造り上げてしまった病巣に空気は淀んでいた。瑠海はランドーにとって、それを吹き飛ばそうとする風の様に見えた。
「あいつと何を話していたんだ?」
「あなたが弓で射たのは、針で王子を撃ったからだって。だから恨まないでって。」
「それだけではあるまい。」
見抜かれているのだと直感し瑠海は口をつぐんでしまった。
「隠すな。何を聞かされても驚かない。」
下を向いた彼女の顔を覗き込む。
「私を信じてくれないのか。」
「ごめんなさい。混乱してて、何から話していいか分からなかったの。あの怪物、あれはオスの人魚なの。名前をセラトと言って、ドルーチェの恋人だと言っていたわ。彼女を助ける為に来たんだと。」
「あの人魚の……恋人。何て事だ。」
彼は小さく溜息を吐いた。
「次の月の夜までに、月夜草で解毒出来なければ、殿下が祟りを起こすって。」
彼女の言葉に訝るランドー。
「祟りを? 何が起こるんだ。」
「変化した事が前兆だって。」
「殿下が人を襲う怪物に成ると言うのか。」
瑠海は頷いた。
「もしそうなったら、殿下は殿下じゃなくなるわ。どうするの? 彼を止められる? それよりも殿下を貴方は斬る事が出来る?」
瑠海はようやく呼吸を整え、涙を拭いた。
「私はその大事な役目をドルーチェに任せてしまったのよ。彼女、現れた怪物が恋人だったと思ってもいないみたいだった。でもそれを知ったらきっと帰って来てくれないわ。」
「彼女はお前と約束をしたんだ。信じてやろう。それしか無いのだから。」
瑠海は彼の言葉に肩をビクリとさせた。
「そうよね。待つって決めたのに。私から言い出した事なのに。不安でこの場から逃げ出してしまいたい。バカよね。」
信じていると言った数と同じだけの不安が、彼女の中に有る事を見抜いているのか、ランドーは肩を抱く腕に力を入れ彼女を抱き寄せた。泣き腫らした目を上げる瑠海に、
「これだけは言える。お前は一人じゃない。」
「ランドー……」
「大丈夫。きっと帰って来てくれる。」
瑠海の目に新たな涙が溢れた。
「自分が信じたい事を、何度も何度も繰り返し唱えながら胸を撫でてみろ。そうしたらいつの間にか疑う心が消える。」
瑠海は顔を上げ、彼らしくもない事を言い出したランドーを見た。
「
首を振りながら彼女は彼の胸甲に額を押し付けた。マントのお陰で周りからは瑠海が泣いている事は見えていない。ただ気分の優れない巫女を国務大臣が城へ連れ帰る図にしては少し密着し過ぎているかもしれないが。
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