王子の異変
暖炉の上の燭台に小さく蝋燭が灯っていた。そこにはあの絵も波の音も無かった。
瑠海はそっと部屋を出てランドーを探したが、彼は王子の様子を見に行ったのか姿は無かった。絵の事を聞きたいわけではないが、なぜか彼がいる事を確認したくて、庭に出て月明かりを頼りに城への道を歩いて行った。
王子の寝室の近くの廊下に差し掛かった時、ゲイリーが血相変えて部屋から飛び出して来た。彼女に気付くと彼は慌てて引き止めた。
「瑠海様。どちらへおいでですか?」
「ランドーを探しているんだけど。」
「こっ、こちらにおいでですが……」
「何か有ったの?」
「それが……」
彼の慌て様に胸騒ぎを覚え、王子の寝室へ入ろうとしてゲイリーに腕を掴まれた。
「ダメです。今はダメです。ランドー様が誰も入れるなと。」
「どうしたって言うの?」
彼は目頭を押さえ呼吸を整えようとしているが上手く行っていない様だ。
「いかな医術を学んだ私と言えど、あんな症状は……熱も引いて安定していたのに。医学書をもう一度、もう一度見直さなければ。解毒の方法がきっと、きっと有るんだ。」
普段でさえ色白の彼の頬はさらに青褪め、焦りに唇が震えていた。
「とにかく私は道具を取りに行って来ます。」
「道具って?」
聞き返した瑠海にゲイリーは目に涙を浮かべた。
「足を切り落すなんて事は、絶対に避けなければ。しかしどうやって。それでもお命を救うにはやむを得ないのか? 私はどうしたらいいのでしょうか、瑠海様。」
道具の意味が分かると、取り縋る様に訴える彼の心情も手に取る様に理解出来、瑠海は悔し涙を流す彼の肩を精一杯の思いで摩ってやった。医師になるだけあって、きっと自分の事より他の者を心配する気持ちの方が強いのだ。
「ゲイリー先生、しっかりして。大丈夫だから、とにかく落ち着いて。先生だけが頼りなんだから。」
「万が一の事を考えて、とにかく揃えておかなければ。瑠海様はランドー様の傍にいてあげて下さい。何かご要りような物とか、ご用をお聞きになって下さい。暫くお願いします。」
ただ事ではない彼の様子に、瑠海は中へ入るのが怖くなったが、彼が診療所へ下るのを見て意を決し扉を開けた。しかし、入り口を潜った途端に息もつけない何かの腐敗臭に口と鼻を押さえた。だが、彼女の息苦しさを引き起こしているのはそればかりでは無い。薄暗い部屋の中にいる何かが放つ空間を埋め尽くす重い空気が総毛立たせるのだ。
「瑠海か……」
ランドーの声にさえビクリとしてしまう程の緊張感が瑠海の咽喉を詰まらせた。王子のベッドの天蓋から降ろされた薄絹で仕切られた中に、椅子に座る彼の影が見え、彼女は外から恐る恐る声を掛けた。
「殿下は?」
「今は眠っておられる。」
「ご様子はどうなの?」
ランドーが薄い覆いの間から出て来て、中へ入ろうとした瑠海を止めた。気が付かなかったが、何の音か、蒸気が吹き出している様な奇妙な音が聞こえていた。
「お前が言った通り、怪物の毒は我々の手では解毒し切れないらしい。お命が有るだけでも今はよしとしなければ。」
瑠海は、低い声で言うランドーの言葉に眉を潜めながら、王子のベッドを透かして見た。
彼女の目に背中を向けて眠るシャルルの姿が写ったが、包帯から覗く彼の足は元の倍以上に腫れて、ささくれ立った皮膚はまるで松毬の様に捲くれ上がり、そこから滴る粘膜状の物が床の豪華な絨毯に広がって異臭を放っているのだ。聞こえているシュー、シューと言う怪音はシャルルのいびきだ。
瑠海は息が止まりそうになった。
「毒のせい、よね。」
「変化が止まらなければ、ゲイリーは足を切断するしか手立ては無いと言っている。」
瑠海は絶句した。
奇妙な事ばかり起こり過ぎる。人魚と言う存在、海の魔女。いや、そんな事はいいのだ。命を助ける為とは言え、いざとなったら切れるのか? 王子の足をこの人に。
「ランドー、お願い、早まらないで。ドルーチェを信じて待ちましょう。それしか無い。」
キッパリ言ったものの、動揺しているのは自分も同じで、今自分がどんな顔をしているのかさえ分からなかった。ランドーはきっと王子をこんな事態に追い込んだのは自分だと思っているに違いない。誰でも禁を破った王子の自業自得と逃げ出したくなる様な状況だが、彼は決してそんな事はしないだろう。比べて瑠海は足を切ると聞いただけで震えが止まらなくなっている。
とにかく打つ手は今の所何も無い。せめて彼の気持ちを軽くしてやれる手は無いのかと瑠海は思った。今、自分に出来る事。シャルルの為ではなく、目の前の彼の為に。
「ランドー。思い詰めちゃだめよ。誰のせいでもないわ。これは神様が下された試練よ。殿下はきっと助かる。諦めないで。ドルーチェが帰るまで待って。」
神と言う言葉が彼等にとってどれ程の力を持っているのか、瑠海は想像もしていなかったが、ランドーは顔を上げたのだ。
「疲れてるんでしょ。一休みしましょう。待ってて。お茶の準備をして来るから。」
精一杯の笑顔を見せたつもりだったが、かえって少し引きつった不器用な彼女の笑みに、なぜか彼は気が楽になった気がした。
人を慰める為の笑顔など一度として作った事の無かった自分が、今は他にどうする事も出来ず、信じてもいない神にすら頼って笑顔を彼に見せている。今彼の疲労は極限状態なのだ。祝宴は大イベントだ。主役はシャルルだが彼は影のホストで仕入れから招待客の選抜、城の警護態勢に至るまで手配しなければならない。おまけに起きなくてもいい人魚騒動だ。休みもとっていないに違い無い。瑠海自身も心配をかけてしまったらしいし……
ふと見ると、空が白み始めていた。
瑠海は厨房へ急いだ。
女中頭のマーガレットは、ランドーの為に彼が一番好きな、どこか懐かしい香りのハーブ茶を沸かしながら瑠海を振り返った。
「戻っていらして良うございました。貴女の事で色々言う子達もいましたけど、噂なんて気になさらないで。少なくとも私達年寄りは嬉しいのです。ランドー様は貴女といる時は不思議と和んでお過ごしになられる様だから。あんな楽しそうなお顔を拝見するのは本当に久し振りなのです。若い子達はヤキモチを妬いていたんですよ。」
彼女の思惑としては、ランドーが瑠海に何か贈り物をしたいと思う様な心境に成った時、彼の心情を傷付けずに彼女がそれを素直に受け取れる様に仕向けたかったのだ。それ故に侍女として買って貰う物全てが、その主人としての品格の査定に成るなどと言ったのだ。
瑠海は、彼女の話を静かに聴いていたが、心はシャルルのベッドの脇で苦悩の表情を浮かべたランドーを思っていた。
「あんまり私の要領が悪いから、彼は歯痒く思っていただけだと思いますよ。」
「何が有ったのかはお聞き致しませんが、あんまりご心配をお掛けなさいますな。」
マーガレットは打っても響かない鐘を前にしている様に、心ここに有らずの瑠海に殆ど呆れ顔である。
「そう言えばその刺繍、フローラ様がよく着ていらしたお気に入りの服ですね。」
フフッと、意味有りげに言われ、瑠海は今身に付けている着替えにと渡された古着を改めて見た。
「フローラ様って?」
「ランドー様の姉君です。とてもお綺麗な方でお二人はよく似ておいでなのよ。」
古着とは言え、大事に仕舞ってあった姉の服を自分なんかの為に出してくれたのか、と瑠海は少し切ない気持ちになった。
「ランドー様ときたら、貴女がいないといつもそれと無い顔をして探しておられたのよ。エドに言えば済むのに。お気付きでした?」
「全然知りませんでした。迷ってたらいつも見つかって怒られちゃったから。」
「お怒りになったの? あの方らしいわね。」
探してくれていたなんて、嬉しいがその倍以上情け無かった。今回の事もドルーチェの世話係の自分さえしっかりしていれば、こんな事にだけはならなかったに違い無いと瑠海は強く思った。
「沸きましたわ。お早くお行きなさいませ。」
「有難うございました。」
懐かしい香りだと思ったのはシロツメクサに香りが似ているせいかもしれないとお茶を運びながら瑠海は気付いた。そしてふと、なぜこんな事をしているのかと唐突に思った。こんな時に、お茶なんて飲んでいる気分ではないのではないかと自然に足が重くなった。空気を読めとは言われないだろうが、怒り出したりしないだろうかと思うと、ドアを開けるのにも時間がかかってしまった。
足音を忍ばせ中に入ると、窓の分厚いカーテンから透ける朝陽に明るくなり始めていた。そんな中に、ランドーの疲れた影を見ただけで、瑠海は胸が締め付けられる程痛くなった。
「あの……」
ほんの一言声を掛けるのにさえ、いつも意識した事のない勇気を振り絞った。
「殿下はどう? お目覚めになられたら、窓を少し開けた方がいいかもしれないわ。」
「もう朝か。」
「よく晴れているわ。」
「瑠海……見てくれ。」
ランドーはカーテンの間から顔を出した。彼に促され、そっと覗いて瑠海は目を見張った。シャルルが元に戻っているのだ。
「どうして?」
「おそらく、日の出と同時に消えたのだ。」
「とにかく、一休みしましょう。ねっ?」
あの凄まじい臭いも消えていて、瑠海はテーブルの方へランドーを誘い自分も腰を下ろした。お茶を注ぐ音と同時に香りが瞬く間に広がった。
「ハーブか。いい香りだ。」
「あなたが一番好きなお茶だって、マーガレットさんが教えて下さったの。クッキーとかも有るのよ。食べる?」
「有難う。頂く。」
甘いお菓子なんか食べる人ではないと思っていたのに、なんと美味そうに食べる事か。瑠海はつい笑みを零した。王子の事もドルーチェの事もまだ何も解決していないと言うのに、そんな些細な事がひどく嬉しかった。
「一人だと気が滅入るばかりで。いてくれてよかった。」
瑠海の胸がドキと鳴った。それを隠すように、
「あの子は、絶対戻って来るよ。」
ほんの一時だが、時間がゆっくり流れた様な気がした。
それを掻き乱す廊下を走る足音に、二人は身構えて戸口を見た。
「ランドー様。」
「入れ。」
伝令に来たのはガードナーだった。彼は額に汗を滴らせ、酷く慌てた様子だった。
「浜に怪物がうち上げられました。町中大騒ぎです。」
「昨晩のアレか。」
「ハイ。それが……まだ息をしています。」
「誰も近付くなと伝えろ。すぐ行く。」
瑠海に向き直り、
「ゲイリーを呼んで来るまでここを頼む。奴にここを任せたらお前も一緒に来い。」
「分かったわ。」
ランドーは言うが早いかドアを出て行った。
遠目に見ても黒く巨大な海獣と言うには異質な生き物だった。何と言ってもあの雄叫びを思い出すと鳥肌が立った。確かにドルーチェと奴は彼女の名を叫んでいたが、彼女には心当たりが無いらしい。どうも気に掛かる。
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