湯殿にて


 連れて行かれたのは別宅の湯殿だった。


「湯を沸かしてやる。待ってろ。」


「自分でやるから、あっち行ってて。弱味を握られるみたいで、嫌なの。お願い。」


「弱味? 何がだ。訳が分からん。いいから座ってろ。」


 椅子に座らされるがすぐに立ち上がる瑠海。


「じゃぁ……手伝う。」


「……好きにしろ。」


 瑠海も一応恥らう乙女だが、必死な抵抗にも意を解していないのか、彼は今度は付いて来ている筈のエドを探して廊下に顔を出し、現れた彼に、下働きの老女を起こして女物の着替えを用意する様に伝えた。


 瑠海は薪を運んでかまどべる準備をした。


 風呂を沸かすと言っても、石造りの大きなたらい型の浴槽に水を一杯にして、中へ竈で焼いた石をいい具合まで入れるのだ。後は水で湯加減を調節する。井戸には手扱ぎポンプの様なものが取り付けられていて、直結した樋が渡してあり、結構早く浴槽に水が入る。


 竈に火を入れると木のいい香りがした。


 初めてこの湯殿に案内された時、風呂と言うものに自分が驚かなかった事にランドーが驚いていたのを瑠海は思い出していた。


 信じられない事だが、元々狩猟民族だったらしくこの国の人々には体を洗う習慣が無かったのだとか。それ故こんな何気無い生活習慣が凄く奇妙な事らしい。その代り香水を付けて臭いをごまかすと言う。それこそ信じられない生活習慣だと瑠海は理解に苦しんだ。


 そんなこの国で、この風呂は正に特異点かもしれないと瑠海はランドーの話しぶりを見て思った。


 風呂は健康維持に欠かせない優れ物で、自分の国には家庭に必ず有って普通だと瑠海が言うと、それは同感だ、と頷いたランドーに苦笑していたのだった。


 ここでは全てが手作りで無気力な人間など一人もいない。そんな中、瑠海自身も、そんな風に生命力に溢れ輝けたらいいのにと思い始めていた。精一杯の事をやれば。それだけで、全てが上手く行くわけではないと思う慢性の現代病に悩みながらも。


「どうした。考え事か?」


 竈の火を見詰めたまま手が止まっている瑠海をランドーが見ていた。


「ちょっと色々……ドルーチェの事とか。」


「今は信じるしか無い。それに、心配しているほどの事は無いかもしれない。殿下もとてもお元気な様子だ。ああ見えてもゲイリーはこの国では名医と呼ばれている。腕は確かだ。少し気は弱いのだがな。」


「うん……」


 パチッ。火の子が一つ弾けた。


 人の命の儚さ。どこの世界でも同じだ。明日は何が起こるか分からない。そんな中で必死に生きている。人も人魚も全ての生き物が。


 出会いはいつも偶然だ。ドルーチェが彼を見た時の、あの労るような眼差し一つで傲慢で我が儘な王子から一転、海に返してやれと優しい事を言い出す彼の言う所の心優しい青年に変身した。あの瞬間、王子は確かに出会ってしまったのだ。名前の無い人魚ではなくに。だから彼女を自由にすると言い出したのだ。


 瑠海はドルーチェに貰った腕輪に触った。これは落ち込んでいた自分に、彼女が自分の腕から外してくれた物だ。確かにそれは、以前、自分の仮設を検証したくて欲しかった物だ。


 海底の岩の間から、コレと同じ質の物が平たいサンゴの様に覗いているとドルーチェは言っていた。つまりは、地層の一部だろう。これを火に入れて燃焼させてみたい。初めて見た瞬間の興味の矛先はそこだった。そうすればこれが世界中に溢れていたあの消費文明を象徴する科学合成物質で出来ていると証明出来るだろうか。諦める事を知らない科学者達の努力により、永遠に海中を漂い続けると言われてた小さな厄介者が、それを吸着するのか沈殿させるのかは分からないが、画期的に回収出来る技術開発がなされ、海底に沈み、長い年月をかけて地層になり、更に時間を掛けてプレートの移動と共に隆起し人魚達の手の届く所に顔を出しているのだとしたら。ただ自分がいたあの時間から絶望的な時の経過を意味しているだけなのではないのか。


 あの世界には戻れないと……


「もう入れるぞ。」


 ハッとして彼女は腕輪を触るのを止めた。これはもう検証材料ではなく、自分にとってドルーチェとの友情の印なのだから。


 ランドーは竈を覗いたままぼんやりしている彼女の側に立って水の調整をしていた。手漕ぎポンプは未だに上手く扱えない瑠海だったが、ランドーは意外と何でも器用に出来るようだ。


 湯殿の構造は、石を焼く窯場と浴室に隔てられていて、大きな石で作られた湯船の一部が窯場に突き出す様に設置されている。そこへ焼いた石を入れて、熱い湯だけを浴室内の湯船に送る様になっている。


「浮かない顔だな。」


「殿下がせっかくドルーチェを海に返すっておっしゃったのに、お怪我をされて……ちょっと残念だなって……思ったの。」


 いつの間にか、酷い目眩は納まっていた。


「人魚をあのままにしておけば、あんな怪物がまた襲って来るだろう。一頭でさえあの始末だ。もしかしたら、次は大群が押し寄せてくるかもしれない。そうなったら国中が大混乱だ。もちろん、その騒ぎは本国にも聞こえる事となり、王子は責任を取らされ束の間の自由も奪われ、王が選んだ政略結婚の相手と無理矢理お床入りだ。めでたし、めでたし。」


 瑠海は思考の空回りを覚えた。


「そんななんて、何の解決にも成らないでしょ。それより、どうしてソコに直結なのか展開が分らないわ。」


「殿下が、あの人魚に心を奪われてなどいないと言い切れるか?」


 白い鳥が目の前を通過した様に思った。


「彼女は人魚よ。立派に女の子だけど。」


 心底呆れた顔をした瑠海に、ツッと目を逸らすランドー。


「あれだけ美しければ、そんな気も起るのではないかと、心配したまでだ。」


 瑠海は彼が寝巻きにガウン姿なのに気付いた。果たして彼がこんな格好をしているのを見た事が有るだろうか。朝も彼女が部屋に行く前に身支度を整えて着替えを終え、甲冑を付けるだけにして待っているのだ。


「あなたって意外と空想家なの? それとも重い甲冑を脱ぐと性格が変わるだけ?」


 確かに王子はあの瞬間、彼女をただの生き物からドルーチェと言う名前の有る存在へと昇格させた。自分もうっかりすると彼女を人とは違う生き物だと思ってもいない。しかし、恋愛対象を色々な方面に求める人は大勢いるだろうが、王子が果たしてそんなタイプだろうか。


 いや、もしかしたら、ドルーチェの方の意識が揺らいだ可能性は考えられないか?


 それをあの怪物は察知し、ライバルである王子を攻撃したのかもしれない。同種にしか嗅ぎ分けられないフェロモンの分泌とか……


 まさか、そんな事……


「確かに今度の祝賀会には、お妃候補がいらっしゃるって聞いているわ。でも、結婚式飛ばして、いきなりお床入りとか飛躍し過ぎでしょ。」


 ランドーは首を傾げ、浴室に入って行こうとしている瑠海を何か言いたそうに見ている。


「もしかして、一緒に入りたいの?」


「えっ、」


 ランドーはガウンの帯を半分解いていた。


「冗談よ。バカね。」


「えっ……?」


(やっぱり性格変わるんだわ、この人。)


 瑠海は、ドアを後ろ手にピシャリと閉めた。


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