友に託す想い
入り江は先ほどの騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
〈あの人は? 怪我したんでしょ?〉
網から脱出させてもらいながら、ドルーチェは瑠海の顔色が優れない事を気にしていた。
〈瑠海……貴女は大丈夫?〉
〈私は平気よ。縛られていただけだから。〉
瑠海は自分が咄嗟にとった行動に呆れていた。口の中に傷でも有ったら王子と同じ毒にやられていた筈だ。冷静でいようとしても、いざ目の前で人が倒れれば、そんなものなど吹っ飛んでしまった。どんな毒なのかもかも分からないと言うのに。
〈でも、何だか辛そう。〉
〈ちょっと疲れただけよ。殿下も大丈夫。何も心配は要らないわ。それよりさっきの怪物、もしかして、あなたを助けに来たんじゃないの? あいつの最後の叫び声、ドルーチェって聞こえた気がしたんだけど。〉
人魚は首を横に振ったが、落ち着かない様子で瑠海を見た。
〈……瑠海。どうしたらいいの?〉
〈どうしたらって……?〉
〈あの人……死ぬかもしれない。〉
毒を咄嗟に吸い出したのが功を奏したのか、熱は有るもののシャルルは意識を取り戻した。
(あんな怪物が現れるとは。やはりあの忌まわしい言い伝えは本当なのだな。)
遠くに月光が照らす海が見えている。
あの切迫した場面でも瑠海の口からは人魚の言葉しか出なかった。入り江から連れ出そうとしたが、彼女はランドーの手を振り払い、せめて砂だらけの髪を洗って着替えをしろと言う彼の言葉にも首を縦に振らず、人魚の所へ戻って行った。頑なになってしまった彼女の表情が脳裏を離れなかった。
「自業自得だと言いたい様だな?」
皮肉った物言いながら、王子は黙って自分を見ているランドーから目を逸らした。
ゲイリーは、解熱と解毒の薬湯を用意し二人を振り返った。傷は洗浄し縫合され、事の次第の一部始終を聞き終えた所だ。
「よりによってあの入り江でとは。呪われていると誰も近付きもしないのに。」
「口さがない者の戯言だ。医術を修めたお前の口から聞く言葉ではないな。」
ランドーはシャルルの手首に付いた歯形を溜息混じりで見た。あの牙から見て、これは本気ではなくほんの軽く噛んだだけの痕だ。躾の為に獣の親が子に対してやる程度の。それも見抜けず、人魚に対して激怒したのかと情けない思いだった。
「こんな事になるのではと思っていました。先達の言葉を軽んじた報いです。」
「あの怪物……人魚の仲間と言う事か。」
「おそらくは。」
王子は、怪物の咆哮が明らかに自分に向けて発せられたものと分かっていた。自分の中に徐々に芽生え始めていた人魚を我がものにしたいと言う欲に対する後ろめたさが、そう思い込ませていたのかもしれないが。
そっと触れて来た人魚の手の感覚を思うシャルル。彼女の手は温かくはなかったが、あの瞬間、自分の心の中をはっきりと覗き込んでしまったのだ。自分は、彼女をただの海の生き物とは見ていなかったのだと言う事を。
「人魚を……解放してやれ。」
静かに呟いたシャルルに、ランドーは驚きの表情を隠せなかった。
「殿下……」
「瑠海にすまなかったと伝えてくれるか。其方にも余計な心配を掛けた。其方の前では話せなくなった芝居をしろと言ってあったのだ。さもないと人魚を解放しないと。」
「なぜその様な事を。」
「其方まで国の犠牲にさせるつもりは無い。それだけだ。なぜ隠そうとするのだ。側に居なくなって初めて己の気持ちに気付いたのだろう?」
「……」
「やはりな。疲れた。早く行ってやるがよい。この事、本国には絶対知らせるな。」
シャルルは彼に背を向けて目を閉じた。
その時……
トントンと、いかにも遠慮がちなノックの音がした。ランドーは、一体誰だとドアを少し開けた。
薄暗い廊下に瑠海が立っていた。
まるで気配を感じられない彼女らしくない様子にも関わらず、彼は王子から下った許可について、それが彼女を最も喜ばせるものだと確信している為かつい口元が緩んだ。
「全て殿下から伺った。人魚は海に返すそうだ。よかったな。」
しかし、その言葉にも、彼が密かに期待した嬉しそうな顔を瑠海は見せなかった。青白く見える頬。彼女はうつむき黙っていた。
「どうした?」
「……ちょっと来て。話が有るの。」
ぽつりと言うと、瑠海は彼に道を空けるように下がった。
彼女の様子が変だと気付いていたのはランドーだけではなく、ゲイリーは彼が振り返る前に言った。
「殿下の容態は安定しています。どうぞここはお任せ下さい。」
ドアを後ろ手に静かに閉めると廊下に出た。
開口部から廊下へ月明りが差し込み、青白い影を落としていた。
シャルルの部屋から少し離れた庭に突き出た東屋風のテラスのベンチに、瑠海はランドーに促されて腰を下ろした。
「……馬鹿な事を言うと聞き流さないで。」
言い難そうに瑠海は声音を落し、不意に庭の木に視線を移した。
「ドルーチェが……あのままじゃ殿下は死んでしまうかもしれないと言うの。完全に解毒しないと次の満つ月の夜には。」
「たわけた事を。まさか。」
彼は瑠海の目に涙が光っているのを見た。
「その満つ月の夜とはいつなのだ。」
「明後日よ。地上の薬草では毒を消し切れないって。間に合わなければ殿下は……」
「確かに人魚がそう言ったのか。」
「ドルーチェは、月夜草と言う草が有れば殿下を助けられるって。」
「ツクヨソウ?」
「解毒の薬草よ。とても深い海の底に住む海の魔女の洞窟にしか生えていないらしい。ドルーチェは、自分が頼んで貰って来るって。」
「海の魔女?」
瑠海は、絶句したランドーの表情に益々下を向いた。
「私だって信じられないわ。人魚もいない所から来たのよ私。信じろって方が無理よ。でもドルーチェはいるのよ。だから、海の魔女も存在しているかもしれないじゃない。」
「信じていないわけではない。ただ言い伝えでは、海の魔女は悪だと聞いている。」
瑠海にとって、人魚のドルーチェは目の前にいる存在だ。それは揺るがない事実だが、魔女と聞かされた時は、さすがにもうダメだと思った。なのに、ランドーは驚きもしない。少しほっとしたものの内心は複雑だった。
「月夜草と交換する物がいるって言うの。魔女はただでは何もくれない業突く張りで、それ相当の値打ちの有る物を持って行かないと門前払いを食らうって。あなたに買ってもらったあの髪飾りを上げてもいいわよね?」
瑠海は、先程から絶え間無く続く軽い目眩にとうとう目を押さえた。
「お前こそ大丈夫なのか? 顔色が悪い。毒に中ったのではないのか。」
そうかもと認めてしまうと、倒れてしまいそうだった。しかし、瑠海は身体の中を這い回る言い様の無い不快感に気付かない振りを決め込んだ。今はそんな場合ではないのだ。
「私は平気。あの子が入り江で待ってるの。すぐ出掛けないと間に合わないって。」
「私も行こう。洞門の鉄格子を開けるのはお前だけでは無理だ。」
二人は入り江に走った。
炊かれていた無数の松明が消され、静寂を取り戻した入り江に、一本の明かりを持って二人は入って行った。物見台の傍の水面にドルーチェが顔を出していた。
〈遅くなってごめん。海の魔女にはこの髪飾りをあげて。私にはこれしか無いから〉
瑠海は手に乗せた貝の髪飾りを差し出した。ドルーチェが覗く様にそれを見た。
〈本当に綺麗。海の底にもこんな美しい貝はいないわ。これならきっとあの欲張り魔女も納得するはずよ。〉
ドルーチェが手を出して髪飾りを取ろうとした時、ランドーが瑠海の手を引かせた。
「待て。これを持って行け。」
彼は、自分の首から金の鎖を外して差し出した。赤く光る大振りな宝石のペンダントだった。
「私の母の形見だ。古い品だが値打ちは有る。その赤い石はルビアと言う。最高の逸品だ。」
「ランドー?」
彼は瑠海の手に髪飾りをそっと握らせた。
「これはお前にずっと持っていて欲しい。」
疎外感を思い出させる物ではあるが、瑠海にとっては別の一面も持ち合わせた物だ。
彼が差し出したペンダントは、素人の瑠海が見ても髪飾りとは比べ物にならない価値が有る事は明白だった。蝋燭の揺らめく灯りに映し出された深い赤の石は、直径三㎝程も有りあの鳩の血と例えられたルビーの様だった。
「お母さまの形見なんでしょ。そんな大事な物……本気なの? ランドー。」
「殿下のお命と引替えに出来るなら、何も惜しくはない。出来るだけの事をしたいのだ。」
ドルーチェは、受け取ったペンダントを不思議そうにじっと見詰めていたが、やがて両手で包み込むと、ランドーの目を見た。
〈本当に……いいのね?〉
彼女の言葉が分かったように彼は微笑み、小さく頷いた。
〈私がもし戻らなかったら、どうするの?〉
人魚の言葉が分らず、瑠海を振り返るランドーに。
「戻らなかったらどうするのかって。」
彼は表情を変えず言った。
「そんな事は微塵も考えていない。お前は必ず殿下を助けてくれると信じていると言ってくれ。」
「分かったわ。」
〈ランドーは、私達はあなたを信じてる。必ず王子を助けてくれると信じていると言っているわ。私もあなただから心配していない。〉
ドルーチェは少し呆れた様に二人を見た。
〈私の言ってる事、本当に信じているの? だいたい、私があんな我が儘で自分勝手で、意地悪で根性のひねくれている人なんか。おまけに私を殺そうとしたのよ。本気で助けると思うの? それに失敗するかもしれない。〉
〈でも、助けたいんでしょ?〉
核心を突かれてドルーチェは黙り込んだ。
〈そんなあなただから信じているの。その宝石はランドーの一番大事な物なの。私はあなたなら絶対成功する、出来るって思ってるから。〉
「必ず帰って来てくれ。お前だけが頼りだ。」
言葉は通じなくとも、せめて眼差しで伝えようとしているのかランドーはドルーチェをじっと見詰めた。彼女はほんのり頬を染め頷くと洞門へと泳ぎ出した。
鉄格子を上げ下げする装置は船のイカリを巻き上げるものと似ていた。巨大な木の歯車をそこに取り付けた太い舵取り棒の様な物で回し、鎖を巻き取る仕組みだった。これを上げて彼女を逃がしてやる事が目的だったのに、と思いながら瑠海は精一杯の力を腕に込めた。重い棒が音を立てて少しずつ回り始め、鉄格子が静かに上がって行った。
二人はドルーチェが泳ぎ去った洞門の外海をじっと言葉も無く見詰めた。
ふとランドーが自分を見ている事に気付き、瑠海は彼を見上げた。彼は彼女の顔色が気になって仕方が無いのだ。
「本当にお前、大丈夫なのか?」
「さっきは、ちょっと緊張してたのよ。どうしたの? 私の顔に何か付いてる?」
顔に手をやる瑠海。そんなに汚れてる?
「お前の事を一番信用していなければならなかったのは私なのに、随分後悔していたのだ。ばかな事を言ったと。」
なんだ、違うのか、と少し気を抜く瑠海。
「なぜあんなに怒っていたの? 誤解だって言わせてもくれなかったじゃない。」
「それは……」
「もういいわ。私も裏切ったのはあなただと殿下に聞かされて一瞬は本気にした。でもすぐに嘘だと気付いたわ。だって、あなたは人魚も私達と同じ心の有る生き物だって知ってたんでしょ。あの時は殿下を説得しようとしてくれて……有難う。」
「当然だ。本当に、すまなかったな。」
瑠海はランドーを改めて見上げた。会えなかった間、無意識の内にも彼の何気無い仕草や声の響きを自分の中に探していたのだ。あの薄暗い売人の宿で助けられてからずっと、自分にとって彼と言う存在がどれ程拠り所として重要な位置を占めていたか気付き、何度も涙が出そうになったのを思い出していた。
ランドーは、瑠海の肩先から覗いている擦り傷を見付けた。よく見ると着ている服もあちこち裂けてボロボロになっている。
「ひどい目に遭わされたみたいだな?」
「殿下に、祝賀会が終わったらドルーチェを解放するって言う約束を取り付ける為に、食事を摂らずに訴えたけど、後は別に……」
「では、この傷は何だ。」
ランドーは瑠海の髪をよけて襟元を覗いて肩を見た。彼女の心臓が飛び出しそうな音を立てた。
「これは、えっと……殿下に……」
「殿下が? 手加減を知らぬ困ったお人だ。」
足……なんだけど、と言いかけたが止めた。
自分の余りのひどい有様にランドーはきっと驚いているのだ。そう言えばスカートも靴も砂だらけだ。急に恥ずかしくなって来た。そう言えば……随分お風呂に入ってない。
瑠海はそっと自分で臭いを嗅いで、ハッと息を止めた。青くなるのと同時に顔に血が昇った。何という格好。格好だけならまだしも、この酷い臭いは迷惑の他の何者でもない。
ランドーがいきなり瑠海の手を掴んで歩き出した。
「ちょっ、ちょっと、待ってよ――。」
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