黒い巨影
王子の誕生祝賀会は、王国内の有力諸公を招いての祝宴となるのが通例だった。
城の庭園もいつにも増して念入りに手入れが進められ、シャルルは何を造らせているのか奥の入り江へと続く小道は大勢の職人が行き来し、木材が次々と搬入されて行った。
祝宴準備全般を統括しているランドーは、時間に追われながらも捕らわれの身となってしまった瑠海を思わない時は無かった。すぐ手の届く所にいるのに顔さえ見られない事がこんなにもどかしい思いを招くとは。気付いてしまえば心が訳も無く波立つ事も無くなったが、告げる相手から隔てられ思いは募るばかりだった。
救い出そうと思えば何時でも可能だが、思う所は唯一つだった。出来れば誰も傷付けたくない。人魚もそれを無理矢理捕らえた王子でさえ。最良の道は、例年以上に祝宴を仕上げ、シャルルに一言も文句を言わせる事無く、二人を解放させる事なのだ。
夜、寝室で休んでいたランドーの所へエドが息を切らせて飛び込んで来た。そのあまりの慌て様に彼は思わず枕元の剣を取った。
「何事だ!」
「入り江に、入り江にすぐに、お急ぎ下さい。殿下が人魚を殺すと。」
思いも寄らない言葉に彼は息を呑んだ。
「なに!」
「とにかく。お急ぎを!」
「分かった。」
彼は無造作にガウンを羽織り廊下へ走り出た。
ランドーの別宅は城の中庭に建っており、入り江へは庭を突っ切れば直に行ける。
「瑠海は無事なのか?」
「はい。今の所は。」
「何が有ったのだ?」
「それが……とにかく、お急ぎ下さい。」
走るランドーの頭の中で様々な場面が、矢継ぎ早に展開した。そのどれもが人魚を庇う瑠海に斬りつけようとしているシャルルの姿だった。
鉄の扉の前にいつもいるはずのガードナーはおらず、中に入ると、彼も槍を手にしたまま固唾を呑んで波打ち際から突き出す様に新たに造られた物見台の方を見ていた。
「殿下をお早く、お止め下さい!」
居ても立ってもいられない様子で、彼は波打ち際を指差した。そこには、仁王立ちで波間を見下ろすシャルルの姿が有った。
「やっと捕まえたぞ。この私に噛み付くとは、このケダモノめ! 生かしておこうと思ったが、最早これまでだ!」
ずぶ濡れのシャルルは手に剣を握っていたが、瑠海のモノか人魚のモノか定かではないが、手首には赤くクッキリと歯形が付いていた。
物見台の足に縛り付けられている網の中にドルーチェが捕らえられていた。
空間にかん高い人魚の叫び声が響いた。
ランドーは咄嗟に瑠海の姿を探した。走らせた視線の中、シャルルの足元に後ろ手に縛られ、猿ぐつわを噛まされ転がっている彼女の姿が飛び込んで来た。思わず駆け寄った彼に、シャルルは手にした剣を彼の前に突き立て制した。
「殿下、何事です! この騒ぎは!」
「其方は下がっておれ。手を出す事、まかりならん!」
シャルルが鋭い視線を投げ付けた。
瑠海と目が合い、彼女が無事な事が直ぐに分りランドーは一歩後へ下がった。
〈私に触ろうなんて百年早いのよ!〉
「訳の分からん事をわめくな。」
〈あんたなんか大嫌いよ!〉
皇太子と言う地位を得てから、彼は変わってしまったとランドーは思っていた。以前ならば、誰かが、例えば自分より地位が上の長兄などがこんな事をしようとすれば、絶対に逆の立場に立って人魚を逃がそうとしていた筈だ。権力と言う力の前に理不尽に跪かされる者の気持ちが分る立場にいたからだ。しかし、今この瞬間、彼は果たして自分が何をしているのか分っているのだろうか。顔を紅潮させ目を見開き、権力を振りかざし暴力をもって脅しても言う事を聞かない女を、斬り殺そうとしている姿は、彼が一番忌み嫌う暴君と言う者にしか見えないと言うのに。
「黙れ! 黙れ! うるさい!」
そう叫んだシャルルの声に、微妙な感情の揺らぎとある匂いを嗅いで、網の中のドルーチェが、逆に口を噤んで彼の瞳を見た。
急に声音を落しシャルルは屈み込んだ。
「なぜだ……其方に触ろうとした事がそれ程いけない事なのか。」
それを見てランドーも肩の力を抜いた。まだ理性と言う物を王子も忘れていなかった様だ。もう大丈夫だろうと思ったのだ。
王子が何を言っているのか、網の中のドルーチェには分からなかったが、微かに漂う匂いには覚えが有った。あの寂しい夜、瑠海が流したのと同じ 涙と言う小さな海の匂いだ。
涙を流さない彼女は、初めてそれ見た時、それはとても奇妙な光景に映った。だが、その匂いを嗅いだ時、人も人魚と同じ海が生んだのかもしれないと思ったのだ。
目の前のシャルルから漂って来る匂いは微かだが、そこに思いが至ると、彼が横暴な者からもっと身近な別の存在に見えた。
彼の隠す悲しみはとても深く、深く暗い海の様だった。彼は、唯一人でずっとその誰もいない暗い海に向かって佇んでいるのだ。
彼女は、網の目の間から手を差し出した。
彼の手は瑠海の手と同じ様に温かだった。
シャルルは、不意に自ら手を伸ばし触れて来たドルーチェに驚き、信じられないとばかりに彼女を見た。
そんな中、瑠海は異様な物音にランドーが洞門を注視しているのに気が付いた。
「何だ、あれは。」
思わず出た言葉も道理で、月に照らされた洞門の外に、黒く大きな背中が見え隠れしているのだ。やがて巨大な何かは、鉄格子を破ろうと言うのか、激しくぶつかり始めた。
ガシャン! ガシャン!
そして、それが敵わないと思ったのか、影は格子を掴んで海から立ち上がった。不気味に光る深紅の双眸は怒りに満ち、陸の者達を凝視していた。
「殿下、小屋へお下がり下さい!」
怪物と見るや、奴から目を逸らさず、ランドーはシャルルに指示を出し、エドがすかさず王子を庇いながら小屋へ先導した。
怪物が勢いよく背中を丸めた。背ビレが大きく開き、一際大きなしぶきが上がった次の瞬間、一つの光が弧を描き、物凄い勢いで飛んで来た。
「あっ!」
シャルルが、砂浜の途中で短く呻き足首を抑え倒れ込んだ。
「殿下!」
彼の足には、一本の鋭く長い黒い針が刺さっていた。
ランドーは兵士の弓を素早く取ると、キリキリッと弓を軋ませ、怪物に狙いを定め引き絞った。
次の瞬間、矢は一気に放たれた。
グオォォと、先程にも増して大きな吠声が轟き息もつかずに二矢目を番えたたが、怪物は巨体をグラリと揺らし海に姿を消した。
「殿下!」
倒れた王子の足の針を取ろうとしたランドーに、ドルーチェが鋭い威嚇の声を投げ付けて来た。驚き手を引くと、瑠海がジタバタと何か言おうとしているのに気付き、彼は彼女を縛る戒めを解いた。
〈触っちゃダメ! 毒が有るの!〉
「人の言葉で言ってくれ、それじゃ分らん!」
瑠海は顔を歪ませ、じれったそうに自分のスカートの裾を手に巻きつけると、シャルルの足首に刺さった針を掴み引き抜いた。
不気味な事に血は流れず、足は紫色に腫れ始め、瑠海は躊躇わず傷口に吸い付いた。口の中に広がる血の味と毒のせいか舌の先が痺れたが、素早く吐き捨て、同じ事を繰返し続けた。
何も考えられない。ただ助けたい。それだけだった。
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