第二章 人魚ドルーチェ

秘密の浜辺

 予想していた通り瑠海が人魚と言葉を交わした事は、あっと言う間に城中の人の知る所となっていた。影で噂し合う若い侍女達の姿も見られたが、元々良くは思われていないのだから、今更何を言われていても平気だった。


 しかし気になるのは、あの港での一件からこっち、ランドーが彼女を訳も無く避けている様な素振りを見せる様になった事だ。目さえ合わせない徹底ぶりなのだ。


 何を気にしているのか想像は容易い。王子は忌避とされる人魚に対する関心が高い。そんな彼をあえて自分と言う存在で刺激しない様に、わざと遠ざけているのだろう。


 とは言うものの……

 

 城の建物の一番奥。侍女達の部屋の有る一角の内でも一番奥が瑠海の部屋だった。何でも空いている部屋がそこだけだったらしいが、いかな侍女とは言え、ランドーと同じ屋根の下は王子が許さなかったらしい。


 仕事が全て終わり、庭の中を建物に添って造られたアーケード状の屋根の有る廊下を一人歩きながら、何気なく瑠海が目をやると、庭の向こう側に有るランドーの別宅に明かりが灯っているのが見えた。朝は着替えや洗い物の手伝いに行くが、夜は年寄りの侍女がいるから、厨房の手伝いが終わっても来なくてもいいと言われていた。


 人魚の話は人前では禁句だが、もっと知りたいと言う欲求も瑠海には有った。


「ランドー何してるかな? 今なら暇かな。」


 別宅に行こうと足を踏み出そうとしたその時、微かだが庭の奥からあの人魚の声がした様な気がして瑠海は真っ暗な海の方を見た。


 風の音だったろうか、いや、確かにあの声だった様に思う。しかし、灯りも持っていない今、月の光だけでは到底暗過ぎて、探せるものではないだろう。


 灯りの少なかった時代は、こんな暗闇に魔物や妖怪、物の怪の類が潜んでいて人を見張っていると説いた大人達もいた。子供達の行き過ぎた悪戯や、他人に対する心無い差別などを、そんな事をしたら妖怪が仲間だと思って浚いに来るぞ、などと、少し大きく成ったらそんな事が起こる訳が無いと分るような脅し文句を使って諭していたのだ。その内、精神的にも成長した子供達は、大人達の言いたかった事を悟るようになるのだ。


 瑠海は、別宅ではなく声のした様に思う方向へ足を向けた。


 青い月影が照らし出す景色の中に、石の階段がずっと下まで付いているのが分かった。今まで日中でも入り込んだ事の無い庭園の一番奥まった場所だ。


 階段を下り切ると、大きな岩に鉄の扉が付いていたが鍵は錆びて落ちていた。少し開いている隙間から波の音が微かに聞こえて来た。


「海だ。こんなに近かったんだ。」


 その時。

 ……月よ願いを聞いておくれ……

 ……あの人に会いたい、青い目をした騎士よ……

 ……波渡る風よ、私はここにいると伝えて……

 ……白い砂を青い月が照らす夜……

 ……貴方が私に会いに来る……

 ……そんな夢を見たの……


 風の音にも聞こえるがこれぞ正しく人魚の歌だった。港で聞いた耳障りな叫び声ではなく、月の光の様に透明感のある美しい響きの歌声だ。


 そっと見ると、青い月光の中で岩の上に人魚が金色の髪を撫でながら座っていた。

 不意に人魚が歌を止めた。気付かれたのだ。


〈誰?〉


 言うが早いか、人魚は海へ入ってしまった。


〈あっ……行っちゃった。〉


 人魚は瑠海のそのたった一声で、先日港で出会った者だと分かったのか潜るのを止めた。


 瑠海は扉の隙間を押し開けて中へ入った。

 月の光が照らすそこは高い岩で囲まれ、完全に海と隔てられた砂浜の入り江だった。岩の中ほどの所に船一隻が通れる細長い洞穴が開いていて、外洋からの波が静かに入って来ていた。


 瑠海は、人魚が水から顔を出しているのを見てそっと近付いた。噛まれると言われた事が頭に有ったのもある。


〈どうしてこんな所にいるの?〉


 しかし、瑠海の細やかな警戒心を打ち破る様に人魚は愛想良く手を振った。


〈この間は、ありがと~う。〉


 初めの一言は威勢が良かったものの、人魚は静かに波打ち際へ泳ぎ寄って来て顔を出したが、何だか少し申し訳無さそうな表情に見えるのは気のせいだろうか。


〈人に見付かったらどうするつもりなの? 二度目は助けられないからね。〉


〈またあの人が綱を切ってくれるわよ。〉


〈そう都合よく行くものですか。〉


 月明かりに照らされた人魚の顔は、この世の者とは思えない程美しく、大きな好奇心一杯の緑色の瞳は彼女の純粋さ、海そのものの透明感を映して光を放っている様に見えた。


〈貴女は恐れないのね。私を。〉


 この綺麗な姿を見て厄災云々と言われてもピンと来ないのだが、人魚も自分達が人に忌み者にされている事は知っているらしい。


〈怖くないからよ。ねえ、あなたに名前は有るの?〉


 人魚は、やや驚いた様に目を丸くした。


〈もちろん。私はドルーチェ。貴女は?〉


〈私は瑠海よ。それより、ここに何しに来たの? まさか、海の中で何か異変が起こっていて、住んでいられなくなったとか?〉


〈違うわ。海はいつもと変わらず平穏よ。〉


〈本当に? 例えば、臭くて熱いお湯がいきなり海底から沸いて来たとかは無い?〉


〈全然。瑠海は心配症なのね。〉


〈じゃあ、どうして?〉


〈えっと、貴女に会えないかなぁと思って。〉


〈私に? なぜ?〉


〈決まっているでしょ、友達に成りたかったからよ。貴女なら絶対私を捕まえようとしないって分かっているもの。それに、私達の言葉が話せる なんて他にはいないでしょ。〉


 同意を求める様に上目遣いをする人魚。瑠海の見知った友人達もする仕草だ。彼女は、ふと彼女の腕にこの間と同じ腕輪が嵌められているのを見た。


〈友達に成りたいのは私も同じよ。でも、早く帰った方がいい。そして、もう二度と来ちゃダメよ。〉


〈あの人は? 彼はここにはいないの?〉


〈ランドーの事? いるけど、ダメよ彼は。あの後、あなたの事で色々有って苛々してるから、見付かったら怒り出すと思う。〉


〈あの人ランドーって言うの? 素敵……〉


 瑠海は、自分が入って来た鉄の扉を気にして振り返りながら言った。


〈悪い事は言わないから、誰も気付かない内に早く帰りなさい。〉


 迷信を信じる信じないは別にして、王子は人魚を捕らえたがっているのだ。こんな所を見付かれば、大騒ぎになってしまう。


〈いやよ。仲間達と喧嘩してまで来たのに、何も話さずに帰るなんて。〉


 とは言うものの、無下に追い返そうとしても上手く行きそうもない。始めから野良猫でも追い払う様に脅せば良かったのだろうか。


 瑠海は、子供の様にプイっと横を向いてむくれたドルーチェに溜息を吐いた。

 とにかく、どんな要素が と言うモノを起こすのかも分らない現状では、穏便に帰ってもらうのが一番なのだ。


〈分かったわ。とにかく夜が明ける前には帰らなきゃダメよ。〉


 瑠海の言葉にドルーチェは嬉しそうに笑い、不意に水面から手を伸ばしてきた。


〈ねぇ、瑠海。触ってみてもいい?〉


 瑠海が彼女のいきなりの行動に驚いて咄嗟に手を引っ込めた途端に、無邪気な人魚の瞳に影がさしてしまった。


〈ごっ・ごめん。〉


 反射的に取った瑠海の行動には、意思は全く介在していない事を人魚も分っているらしい。


〈ごめんね。嬉しくてつい。今のは私が悪いわ。驚かしちゃった?〉


 シュンとしてしまった人魚に瑠海は慌てた。


〈大丈夫。あなたから見れば私は二本足で地上を歩く変な存在よね。おまけに仲間の中には、人魚を見るや、網を投げて捕らえようとする者までいる野蛮極まり無い生き物よ。それに海も汚すし。いい所無いかも。〉


〈そこまで言わなくても……〉


 二人の間に自然に笑い声が漏れた。瑠海は改めてドルーチェに手を差し出した。


〈人間の挨拶よ。初対面では手を握るの。〉


 差し出された彼女の手にドルーチェは最初の勢いは何処へやら、そっと触れると、互いの温もりに妙に安心して二人に自然と笑いが生まれた。


〈瑠海の手は凄く温かいのね。〉


〈あなたのは、ちょっと冷んやりしてる。〉


〈挨拶にも段階が有るの?〉


〈そうよ。親しくなれば抱き合ったりキスしたりするの。愛情表現ってやつかな。〉


〈キス? どうやるの?〉


〈……頬やおでこに口付けするのよ。よほど親しくないとしない挨拶ね。〉


 コレ結構ハードル高いから、と知ったかぶりして言ってみたりする。


〈ランドーと瑠海はキスしてるんでしょ? その髪飾りも彼に貰った物でしょ?〉


 ポケットに入っている髪飾りを押さえ、真っ赤になって立ち上がる瑠海。


「なっ、何をか言わんや。」


 キョトンとしているドルーチェ。


〈今、なんて言ったの?〉


 言った本人も、咄嗟に何故とも思う。


〈ランドーとは、そんなんじゃないの。それに髪飾りを持ってるって何で分かるのよ。〉


〈分かるわよ、見えちゃってるもん。ところで、コレがそんなに気になるの?〉


 ドルーチェは、瑠海がずっと自分の腕輪を見ていた事にも気付いていたのか、腕からそれを外すと彼女に差し出して来た。



 夏の夜は短く、ドルーチェが帰ると言い出すまで付き合ってしまった瑠海が部屋へ戻ったのは、空が白み始めた頃になっていた。





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