第一章 ロッシフォール自治領国

診療室



 どれだけ眠ったのか、涼しい風を頬に感じて瑠海は目を開けた。


 ひんやりした空気の中、天井を横切る太い木の梁と吊るされた蝋燭用の照明器具が目に入った。


 電化製品の気配一つ無い石造りのその部屋の佇まいは、まるで中世の古城のようだった。


「良かった。お目覚めですね。」


 驚いて声の方へ視線を移すと、童顔に似合わない口髭を生やした金髪の青年が微笑んでいた。


「私は医師のゲイリーです。ここは城の中に有る私の診察室です。貴女はまったく運がいいですよ。本国から手配書が回っていた人売の捜索の網に奴等が掛ったのです。よかったですね。これでお国に帰れますよ。」


 ゲイリーは、彼女に手を貸して座らせると薬湯を勧め、喉を潤す様に促した。


 彼女は一瞬言われた事の半分以上を理解出来ていなかった。言葉がと言うのではなく、記憶が途切れていて反応出来なかったのだ。


 そこへ、白いマントを羽織った見覚えの有る青年が入って来た。彼を見た途端、記憶がまるで怒涛の様に押し寄せ、彼女は薬湯を机に置いた。あの時の青い瞳の騎士だ。身長180㎝強、長い艶やかな茶色の髪を後ろで束ねた姿は凛として侍の様にさえ見えた。


 ゲイリーは、彼に笑いかけると深々と一礼し場所を空けた。


「ランドー様。」


 彼は呆然と彼を見ている瑠海に苦笑した。


「こちらは、フィリップ・ランドー様、国務大臣をなさっておられます。」


 一瞬目を奪われていた事を誤魔化す様に下を向いた彼女に、青年は無表情で言った。


「目を覚ましたか。三日間も眠ったままで二度と目覚めないのかと心配した。」


(あれから三日も経っているの?)


「名前は何と言う?」


 そう言われて彼女は、いつの間に着替えさられたのか元着ていた衣類が壁に綺麗に掛けられ、体も自由に動くようになっている事に気付いた。今着ているのは何処か懐かしい丈の長いワンピース風の物だった。


「文月 瑠海です。」


「フヅキ ルミか。変わった名だな。分った。」


 ランドーと名乗った若い騎士は、瑠海のベッドの側の椅子に静かに腰を下ろした。


「それで、瑠海。何が有ったのか、話してくれるか?」


 彼の声が耳の奥に響いて、瑠海の心臓は全く言う事を聞かず、しどろもどろになりそうで、彼女は必死に平静を装った。


「それが……よく覚えていなくて。気が付いたら浜辺にいたの。そこへ髭面の男が現れて捕まって、あの男達に引き渡されてあの部屋にずっと閉じ込められていたの。助けてくれて本当にありがとう。」


 ランドーは小さく頷いた。


「お前の装いと容貌からすると、我が国の者ではなさそうだが、生まれは何処だ?」


 瑠海はそう問われて咄嗟に、日本と言う国が藩と言う自治領国の集合体で、幕府がそれらを統括していた時代が有った事を思ったが、早くなる鼓動とは裏腹に、漠然としていた不安が形をはっきりと結びつつあるのも自覚していた。


「我が国って……あなたも先生も、みんな顔は外国人だけど私と同じ日本語話してるよね。とぼけて騙そうなんてしないで。服装も古典的だけど。」


「日本語? 何だそれは。」


 彼女の言葉にすかさずゲイリーがランドーに何か耳打ちをした。


「やはりショックが強かった様だな。ここはロッシフォール自治領国。 主人あるじは我が君主シャルル・ロッシフォール皇太子殿下だ。」


 ランドーは石の壁に飾られている見事に彩色された羊皮紙の地図を差し示した。


 それを見ながら、瑠海は事故と事件の被害者に何処の誰がバカげた事を仕掛けるだろうか、と思いながらも考えを纏めようとした。


「それは、何処の国の地図なの?」


「ここ、ロッシフォールと周辺国だ。お前のその日本とやらはどの辺りだ?」


 羊皮紙など博物館でしかお目に掛かった事が無く、書かれているのも見た事も無い文字だった。


「……ここには書かれてないわ。」


「夜空を覆う光の幕の事は覚えていないか? お前はそれが海を覆った次の日に、浜辺に打ち上げられていたらしい。」


(光の幕ってオーロラって事? どうして何も思い出せないの私。)


「ちょっと、ごめんなさい……」


 ベッドを立った瑠海にランドーは慌てた。


「おい、何処へ行く。まだ歩いてはいかん。」


 まだ夢の中だと思い込みたい自分と、もしかしたらと半分認めようとする自分。いや、騙されているだけかもしれないと呟く自分。


 様々な思いが彼女の頭を過ぎった。


 瑠海は窓へ歩み寄った。しかし、技術が未熟だった時代の様な、歪なガラスが埋め込まれた窓からは、景色さえよく見えなかった。


 扉を出て外を望められる廊下に立った。建物が高台に建っている為、遠くまで見渡せた。


 高く昇った太陽の日射しが眩しく、景色は何処までも鮮やかで、オーロラが出る程北に位置しているのではなさそうだった。


 しかし目にした光景にふらつく頭から更に血の気が引いた。視界の中には近代建築と名の付く物は一切無いのだ。城壁に囲まれた人々の生活の臭いのする小さな町には、電柱も無ければ車の一台も走っていない。テレビで見た事の有る古いヨーロッパの赤レンガで出来た街並みに何処となく似て、少なくとも日本ではないと分った。


「ここは何処なのよ? 何で私こんな所にいるの? 夢を見ているの? さっぱり分からない。」


 大海にたった一人放り出された様な心細さと緊張が瑠海の不安を掻き立てた。そんな彼女を支える様にランドーは後ろに立っていた。


「お前の国は、まだ私達が行った事の無い遠い海の彼方の様だ。家族はきっと心配しているのだろうな。」


 愕然としながら瑠海は彼を振り返った。


「電話、貸してもらえない? 連絡しないと、きっと……」


 心配してくれる家族。そんな事を今まであまり意識した事は無かった。一人暮らしも大学に入ってから数ヶ月。電話も急用以外はしなくなっていた。しかしどうしてこんな事に。


「大丈夫か? 悪い事を聞いてしまったのか。 と言ったが、それは何だ?」


 聞かれた言葉に悪い予感も現実になってしまった。彼女はガックリ肩を落とした。


「遠く離れている相手と連絡を取り合う道具よ。私の国では普通に子供も大人も誰でも持っているの。」


「そんな便利な物が有るのか?」


「最新機種はネットも翻訳機能も充実……」


 瑠海は虚脱感に目を閉じた。


「どうしたら、なんて次元ではないみたい。いきなりこんなの無いわよ。何なのよ。」


 混乱は極地だった。


 つい零れた彼女の涙を見て、ランドーがハンカチを差し出してくれた。


「想像も付かぬ程かけ離れた国であるのは確かな様だな。帰る場所が分からぬなら、ここに居られる様に殿下には私から話そう。但しあの服はここで脱いでもらう事になるが。」


 彼の口調には微妙な躊躇いが含まれていた。


「えっ……服を脱ぐの? ここで?」


 真っ赤になって胸元を押さえ、自分を見た彼女に、彼は反射的に飛び退き目を泳がせた。


「あっ、つ・つまり、そう言う、意味ではない。ここで、今までの身分を、捨ててもらわねばならない、と、そう言う・意味だ。」


 再度催促されば、ヤケになって本当に脱いでいたかもしれない。しかし彼の動揺した顔に、彼女は妙に気が落ち着くのを覚えた。


「身分?」


 瑠海は改めて壁掛けに有る自分の服を見た。それは、学祭の仮装行列の時に着ていた中古の借り物で時代遅れとは言え、豪華絢爛な刺繍が施された純白のウェディングドレスだ。


(このお陰で、もしかしたら私の事を貴い身分の人間に見ているのかしら?)


 瑠海は説明するのも億劫に思えて黙り込んだ。元々捨てる身分など無いし、捨ててしまえば無くなるのだから同じ事。答えは一つだった。


「その代わり、衣食住と安全を保証する。城勤めの侍女になるのだ。その見事な刺繍の服は侍女には相応しくない。それともあの服を着て、このまま城を出て行くか?」


 ここで放り出された場合の事を想像すると、彼女の口は自然に重くなった。


「選ぶ余地無は私には無いわ。本当に置いて貰えるの? なぜそんなに親切なの?」


 ランドーは安心した様に口元を緩めた。


「困っている者を助けるのは自然な事だ。人は宝と言うのがこの国の教えだ。光る夜の事も吉凶定かではないし、お前がここに来たのも何か意味が有るのだ。神のなさる事に意味の無い事など無い。何も心配は要らない。」


 静かな穏やかな目をして言われると、つい涙が溢れてしまいそうになる瑠海だった。


「本当にいいの?」


 しっかりと頷く若き騎士は頼もしく見えた。


「有難う、ランドー。申し出を受けるわ。」


 そう言ってしまってから、彼の何か言いたそうな顔に気付いて涙を指先で拭いながら、


「どうかしたの?」と聞いてみるが……


 大臣だ何だと聞かされても物おじしない瑠海は、やはりこの国で言う所の上流階級の家に育った の様に映ったのかもしれない。


「……まぁ、いい。そう呼んで構わん。」


 医師のゲイリーが、彼を敬称付けで呼んでいた事を思い出す瑠海だったが、彼がいいと言うのだから、良しとしておこうと思った。


 

 

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