人魚の憂鬱

桜木 玲音

序 章

流れ着いた者

「人魚の憂鬱」

                         桜木 玲音


   「流れ着いた者」




 ……戻るのだ。


 文月ふづき瑠海るみは暗闇の中で海鳴りの様に聞こえる朧な声を、身動きも取れない息苦しさと戦いながら聞いていた。


……約束を果たせ。三度目の月までだ。ここはお前の住む所ではない……


 少しずつ身体は感覚を取り戻していたが、まるで鉛の様に重く指先一つとして動かせなかった。不意にその海鳴りが人の話し声に変わった。




「おめぇ、聞いてんのか?」


 呪縛から解かれた様に彼女が目を開けると、薄汚い石造りの部屋に明かりは無く彼女の他には誰もいなかった。では声は何処からかと目を凝らすと、分厚い扉の小さな窓から入って来る隣の部屋からの赤っぽい光だけが視界の中に灯り、その中で動く二つの人の影が何かを話している様だった。


「買い手は、確かに来ると言ったんだな?」


「へぇ、もうぼちぼち刻限でさ。」


「信用出来るんだろうな。この国の役人で何とか言う野郎は凄腕だと聞いてる。そんな奴に嗅ぎ付けられでもしていたら厄介だ。」


「こんな所までそんなお偉いお役人が、わざわざ出張っちゃ来ませんて。それにそろそろ持金も底をついて来てるんでさ。相手は世間に疎いボンボンですぜ。」


「貴族のお坊ちゃんか。それなら安心だ。なんせ奴らは、金さえ払えば人魚さえ買えると思っているようなバカばっかだからな。それにしても、あんな細っこい女、見てからやめた、なんて言い出さねぇだろうな。俺はそれが心配だぜ。」


 男達の話し声は、厚い扉に阻まれてはっきりしないが、彼等はこれから自分を誰かに売ろうとしているのだと瑠海は理解した。

 

 でも、どうして ?

 何をしてこんな状況に陥っているのかさえ解らなかった。


 猿ぐつわや後ろ手に縛られているわけではない。抵抗出来ない様にする為に嗅がされた得体の知れない薬に、手足の感覚と時間の経過さえ奪われ、床に蹲っているのが精一杯なのだ。


 表のドアを叩く音が男達の話を中断させた。


 来たらしい。買い手が……


 人身売買など旧世紀の犯罪と思い込んでいた非日常が身に降り掛かりつつあるのに、彼女には逃げる力も無く、ただ目を閉じた。


 嫌だ.......こんな事が有っていいはずが無い。


 戸口で二人の客は、武器を持っていない事を確認され中へ招き入れられた。


「お待ちしておりやした旦那。さぁ、中へ。」


「貴様がピエール・ジェルドか?」


「へぇ、旦那。」


 入って来たのは、頭からすっぽり黒い頭巾を被った少し小柄な男と、召使らしい長身の男だった。売人と手下の男は諂う様に愛想笑いを浮かべ、揉み手をしながら二人を中へ招き入れた。小柄な男の頭巾の襟元から華美なレースが僅かに覗いているのを見て、売人はニヤリと笑った。


 部屋の中に取引されるべきモノがいない事に気付き、召使いの男は人売をじろりと睨み詰め寄った。


「約束の女はどこにいるのだ。早く見せろ。もう一度聞くが、あの光の幕の落ちた日に、浜辺で見付けたと言うのは誠なのだな。」


「へぇ、そりゃもう。」


「無傷であろうな。どうなのだ。」


 頭巾の男は、顔を見られるのを憚り被り物も取らず、その内に焦れた様に貧乏揺すりを始めた。召使いは矢継ぎ早に質問を繰り出す。


「まさか貴様ら、売り物によもや手など出しておらぬであろうな。」


「そりゃぁもう。こちとら信用商売で。」


 召使いは、人売の男が目線で指した瑠海の捕らえられている部屋のドアの小窓から彼女の姿を確認したが、部屋の隅で顔を背けたまま身動き一つしない彼女の顔を見ようと、必死に身を乗り出した。


「こちらを向かせろ。あれでは生きているのかも分からん。」


「あの見た事も無い見事な衣装。間違いなく異国の姫君ですぜ、旦那。」


 ジェルドは腕組みをして、黙ったままの頭巾の男の頬の辺りを見ていた。歳はまだ十七かそこらだろうが、貴族ともなれば女なら金に任せて幾らでも探せるだろうに、変わったモノを手に入れたいとの欲なのか、と首を振った。


「早速ですがね、代金の確認をさせて貰いてぇんですが。」


 言われて頭巾の男は、懐から重そうな小袋を出すと、目の前の机の上にドスンと音を立てて置き、口を縛る紐を解いて中身の黄金色に鈍く光る金貨を出して見せた。それを見て目を輝かせ、かぶり付こうとする手下をジェルドが、待て待て、と止めた。


「この鍵は特注品でしてね、開けて差し上げるには手間賃にもう一割上乗せして頂かないと。」


 これだから世間知らずは困る、とばかりの口調で人売りの二人は顔を見合せた。


 鍵の束をジャラつかせる売り手に、召使の男も黒頭巾の下で唇を噛んだ。ドアには取っ手も無く、鍵を奪ったとしてもどうやって開けるのか見当も付かなかった。


「下衆が。こちらは貴様の言い値で用意して来たのだぞ。さあ、ここを開けろ。」


「これでも命を取り引してるんですぜ。旦那の本気を見たいだけなんでさ。」


「散々引き渡しの日延べまでしておいて、まだ搾り取ろうと言う算段だろう。」


「もう旦那も同じ穴の貉てもんですぜ。あと一割で扉の向こうの姫とご対面だ。」


 半ば愚弄に近い対応に、頭巾の男は召使に無言で首を横に振った。


「分かった。この話は無かった事に。帰る。」


 背中を向けた男に、読みが外れたと人売は焦ったのか、急に態度を変えた。


「分りやした。分りやしたよ。お見せしやすから、そう早合点なさらずに。」


 元々金には弱いのだ。目の前にぶら下がった大金を取り逃がしてなるものかと、態度を一変させ卑屈な笑みで男に愛想を見せた。


 ジェルドは鍵束を懐に仕舞うと、机の引き出しから小さな寄木細工の小箱を出すと、中からダイヤルの様な物を二つ取り出した。一見カラクリの一部とは見えないそれら二つを合わせて扉の穴に入れた。それらがどう動いたのか、傾いでいた扉が水平になった。つまりは二つのダイヤルに見えた物は戸車の一つだったのだ。


 瑠海がいる部屋の扉の鍵が、大型の金庫の様な重い音を立てて解除された。


 ジェルドは閉まらない様に扉に木切れを挟んだ。


 一瞬の出来事だった……


 それを確認すると、頭巾の男と召使いはフードを取り、隠し持った短剣を抜きいてジェルドと手下の首元に突き付け、素早く右腕を後ろ手に捩じ上げたのだ。


 突然の客の豹変と苦痛に顔を歪ませ、売人二人は床に組み伏せられた。


「お……おめえ何者なにもんだ。」


 召し使いは無表情で売人等を見下ろした。


「御法度の人身売買、悪運尽きたなジェルド。皇太子殿下の名において貴様らを捕縛する。」


 その言葉と同時に入って来た三人の兵士達が、戸口と裏口を素早く塞いだ。


「この小役人めがぁ。よくも騙しやがったな!」


「大人しくしろ。抵抗すれば容赦せん。」


 寸分のスキの無い構えで彼等を囲んだ兵士達も剣を向けた。二人の売人は唖然としている間に縄を掛けられ、あっけなく捕らえられてしまった。


 厚い壁の向こうで起きた事の殆どが聞き取れず、瑠海には悪党の仲間割れ程度にしか理解出来なかった。相手が誰に代わろうと売られる身である事に変わりはないのだ。


 明かりが瑠海を照らした途端、彼女は顔を手で隠し精一杯の声で言った。


「近付かないで……」


 すると誰かが静かな声で言った。


「大丈夫、助けに来たんだ。」


 一瞬何を言われたのか言葉が頭の中で空回りし、彼女は必死に壁にすがり付いた。


「人売人は既に捕らえた。安心しろ。お前は自由だ。」


「えっ.......じゆう ? 」


 彼女が顔を隠す手を止めて目線を上げると、部屋に入って来ていた捕物の役人達が何故か騒然となった。


 そんな中、指揮を執っていた男は壁に縋り付く様に身を寄せている瑠海に素早く駆け寄り、自分の外套を脱ぐと羽織らせた。


「大丈夫か ? 」


 見上げた瑠海の目に調金細工の甲胄を付けた若い騎士が映った。彼の見た事も無い澄んだ深い青い瞳が印象的だった。


(本当に私、助かったの……?)


 ふと彼の表情に戸惑いの影が走ったが、瑠海はそれが思わず溢れた自分の安堵の涙の仕業だとも気付かなかった。


「どこか怪我をしているのか?」


 聞かれても声が出ず、彼女は首を振った。


「言葉は通じる様だな。よかった。」


 しかし、立とうとしたが体は動かなかった。


「無理をするな。もう何も心配は要らない。」


 穏やかな彼の声を聞いた途端、瑠海は意識を失ってしまった。


 

 


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