母のおまじない

「うっ………うっ…………くっ……」 

 耳元で感じていた静かな息遣いが、意識をもって吹き返した。

「ここは?」

 意識がはっきりとしないアビゲイルは、小さくつぶやいた。

 その問いには素直に答えた。

「森かな」

アビゲイルは何も言わず、ギュッと手足に力を入れ、背中の上で小さくなる。小刻みに身体が震え左手で必要に右腕を擦る。

 アビゲイルは息を漏らすように呟いた。

「ねぇ、どうして……私だけ酷い目に遭うの……何か悪いことした?」

「大丈夫?」

「……うん………大丈夫……」

 コクリと、俺の肩に顎を置いた。

 俺は小さい頃の記憶が浮かび、それ追随するように口を開く。

「昔々、あるところに聖女と呼ぶにふさわしい女性がいた。その女性は貧困に苦しむ子供たちのために無償で病気の治療を行い、多くの子供たちを救った。だが、その女性は、流行り病にかかり死んでしまった……」

 はぁ?と、今にでも聞こえてきそうなアビゲイルのハテナ顔が目に浮かぶ。

「昔々、あるところに極悪非道な男がいた。その男は、人を殺し、薬を売り、人の悪と不幸で生きるような男だった。ある日、男は恋をした。男は、誠実に女性と交際し、やがて結婚。二人の間には子供が二人生まれ幸福な人生を送りました、おわり」

 そう、物語を締めくくるもアビゲイルは今だ、意味不明な雰囲気を醸し出している。

 さすがにモヤモヤとしたのか擦れた声を漏らす。

「どういう意味?」

 話の内容を尋ねるのではなく、意図を尋ねるぐらいは意外と正気であった。

「意味なんてない」

「??????」

「ただ、そういう人たちも世の中にいるってことだよ」

「…………」

 アビゲイルの呼吸が落ち着いた。ゆっくりと深く呼吸をしていく。

 しばらくして……

「ねぇ、どうして私なんかを助けようとするの?」

 俺は、生い茂る木々に目を向けた。

「そうだな。自分でもわからない」

 そして、ゆっくりと視線を落とし、大地をぼんやりと眺めた。

「例えばさぁ、濁流に流されている女の子がいるとする。女の子は一人ではどうすることもできず、今にも溺れてしまいそう。それを目撃した通りかかりの少年が、その状況に女の子を助けようと濁流の中に飛び込む」

 なぜか俺はそこでふっと笑った。

「少年が濁流の中で女の子を助けることができるのなら、周囲は『英雄』として少年を讃えるだろう。だが、少年は、濁流に飲み込まれて女の子と一緒に死んでしまった。少しでも頭いい人なら、すぐにわかる。濁流に飛び込んで人間がどうにかできるはずがないなど……少年の行動が無謀で、無策で、『愚か者』であると……」

 勇敢な行動な讃えられるものだが、結果が伴わなければ意味がない。周囲の目はそれほどに論理的かつ冷たいものだ。

「俺は別に英雄願望があるわけじゃない。ただ単純に助けになりたいと思っただけ。そこに意味も理由もない。『女の子を助けたい』それは至って普通のことだと思うけど。命を投げ出したって、十分な理由なる」

 これじゃぁ、自分への言い訳か。

 綺麗ごとでまとめようと結局何も変わらない。

 実際、少女は濁流になんて溺れてない。

 俺は、ただ正しさに甘え、正しさに胡坐をかいていた。

「バカなのね」

 ははぁ、やっぱりにそうなりますよね。

 でも、アビゲイルの声に僅かに温かみが戻った。

「でも、死人に口なしって言うからさぁ。死んで後悔することなんてしないよ」

 死んだ人間に死の後悔などできるはずもない。アビゲイルを見捨てて生きるよりも、よっぽど後悔がない。ある意味アビゲイルの死を選択する行為は理解しがたいとは言えない。生きることはそれほどまでに苦しいことである。

 ただ、アビゲイルの死を許容できるほど、俺は聞き分けのいい子ではない。

「ねぇ、アサヒ。あなたは今、幸せ?」

 その問いに素直に答えた。

「さぁどうだろ。幸せだと言ったら嘘になるかな。突然、異世界に呼ばれて、広場で爆発、恐ろしい敵に襲われ、死にそうな目にもあった。ホント散々な一日だよ……だがまぁ、不幸であるとも言わない。世の中どうしようもなく仕方がないことがある。それに他の不幸に比べたら俺の不幸なんて、ちっぽけなものだよ」

 今思うと、母の話は小さな時の俺には難しすぎた。今もよくわかってないけど、それでも、子供ながらにして理解できたのはどこか母の言葉には言い返せない重みがあった。

「世の中にはさぁ、俺なんかよりも不幸な人がいる。餓えに苦しみその日の生きるだけの食事しかとれないし、生まれても幼いまま死んでく命もある……命があるだけ恵まれているよ。今が不幸なんておこがましい……」

 価値や大きさという物は、一つでは存在しない。何かと比べ、それよりも大きいか小さいか、高いか低いかの積み重ねで決まる。

「ズルい言い方……」

 アビゲイルは、『そんな関係ない』とは言わなかった。

「やっぱり、アビゲイルは強いね」

 こんなのまじないに過ぎない。

 実際、不幸をそう割り切ることができたら、だれも苦しんだりしない。

 他人の不幸なんて、テレビのリモコン一つで忘れてしまう。そんなものに自分の 不幸が小さいなんか言われたら、普通の人間は腹が立つ。

 でも、それで自分の不幸の小ささに気づければ、前に進むきっかけにはあるかもしれない。

 だから、まじない。

 うまくいけば、儲けものぐらいレベルでしかない。

「私は、どうすればいいのかな」

 アビゲイルは、一歩だけ踏み出してくれた。

「さぁ、どうしたらいいだろう?」

「ムッ……」

 顔が見なくても、頬を膨らませていることがわかる。

 すでにいろいろなことを話したが、アビゲイルの境遇を考えて、アドバイスなんて土台無理な話だ。

「諦めちゃえば……何もかもを捨てて、あきらめればいいんじゃない」

 無責任な話だが、これしか言うことがない。

 思いつめるほど悩むなら、全てを投げ出せばいい。

 それが良くないとは思うが、死ぬことよりはマシだ。

「あきらめる?」

 アビゲイルは、言葉を反芻するように呟いた。

「理由なんてなんでもいい。疲れたとか、めんどくさくなったとか、なんでもいい。他人なんてどうせ、自分じゃないのだから、どうなろうが関係ないだろ」

 これはもっと無責任か……

 転移魔術。その破壊力は世界を変えてしまうほど恐ろしいものだ。平和的に利用すれば、世界をより良いものにできるが、悪意を持たせれば、数千もの命をも一瞬で刈り取れる。

 数字を見ただけでぞっとするのに、それに関係しているとなると、想像もしたくない。

 『諦める』と簡単に言えるはずもない。

 それに人生を終わらされる身としても『諦めた』じゃ許さないだろう。

(やはり、どうすればいいのか?)

 諭そうにも重みがない。励まそうにも何もわからない。

 俺って、ダメだな。

「ねぇ、アビゲイル。何があってもさぁ、俺は味方でいてあげるよ」

(……情けなく咄嗟に口に出たが……これ恥ずかしいな……)

 まぁ、こんな言葉に意味はあるのだろうか?

 俺が味方だとしても、一体何をしてやれる?

 でも、俺はこれ以上の言葉を持たない。

「ねぇ、ア……」

 照れを隠そうと口を開くが、アビゲイルが心を滲ませる。

「私……もう……疲れた」

 僅かに聞こえるすする音と肩に落ちる雫。ゆっくりとゆっくりと解け出し、ただ静かに、静かに落ちていく。

 その小さな響きを黙って耳を傾けた。落ちる一滴、一滴、心に落としていく。心にできた嫌なしこりを優しく包んでいく。

 母の言葉には、まだアビゲイルに話していない続きがある。母は言った『本当の不幸は、誰かに助けてもらわないと、救われない。だから、あなたはいい友人を持ちなさい』と、まじないを信じるぐらいなら、友人を頼れ、と。

 今日あった出来事を振り返れば、俺の人生これほど不幸な一日はない。それでも、人生最大の不幸に母のまじないが効いているのだから、今日の一日は『本当の不幸』という物ではないのだろう。

 俺は、今日のこの時に最大の不幸の中でどこか小さな幸せを感じている。

長い時の中で音は消えていた。アビゲイルの右手が体から離れ、首の後ろで左右に動く。すると、背中に感じていた温もりが消えた。

「下ろして」

 幼さが抜け落ちいつもアビゲイルに戻った。若干心をさらけ出した気恥ずかしさが声に残る。

 アビゲイルの要望に応え、その場で膝をつき抱える腕を外した。アビゲイルが地面に足をつけるとふっとその重みがなくなった。これで一安心、そう張り詰めていた心がやっとほどけていった。

「ん?血?」

 アビゲイルは、ふと妙な違和感に気付いた。自分の服の袖に血がついている。よく見ると服の所々にまだ乾いていない血がついていた。俺の姿を見た途端に表情から血の気が引いた。

「アサヒ、それどうした‼」

 俺の全身を血で染まる姿に絶叫した。

 事情を説明しようと口を開く。

「     」

 だが、何かつぶやく気力もなかった。

「‐‐‐」

 アビゲイルは何かを叫ぶがもう俺の耳には届かない。

 操り人形の糸が切れたかのように地面に崩れ落ち、その瞬間、意識が闇に落ちた。

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