小さな死闘
「はぁ……はぁ……はぁ」
アビゲイルを抱えながら足場の悪い森の中を疾走する。
(どうしてこう……くそ)
肺が裂ける。空気を求めど足りない。思考が霞む。肉体が俺の手から離れかける。
視界にも、耳にも、奴の姿は捉えられない。
だが、確実に奴はいる。
背中には、振り払えない虫がうじゃうじゃと蠢いている。
森は正常なほど穏やかだが、視界を覆いつくす一色の黒は孤独を訴え、見下ろす木々はケタケタと愚かな者を笑う。
アビゲイルを背負う俺はいつもより、いや、走ると言うよりも駆け足に近い。森に住むあの獣なら、数秒もせずに追いつき易々とかみ殺せる。
それでも、生きている。
あの獣が俺のことを警戒しているのか、それとも、強者として弱った獲物を弄んでいるのか。
どちらにしろ、じり貧だ。
このまま走り続けて限界が来たら、戦うこともできずその場でやられる。そうなったら、目も当てられない。
ここで決断するしかない。
生き残るための決断。
背中に背負っているアビゲイルをこの場に捨てたら、たぶん生きられるだろう。アビゲイルを背負っている分の体が軽くなり、今よりはだいぶ速く走れる。それに置いていたアビゲイルが囮になって時間稼ぎにもなる。
もっとうまくいけば魔獣がアビゲイルの体だけでお腹を満たしてくれるなら、追われることはない。野生の獣は、人間と違って食事以上の殺生をしない。二人で逃げ切れないのなら、一人を置いて一人が生き残る方が建設的で、合理的ともいえる。
足を止めた。担いでいたアビゲイルをそっと地面に下ろし木に掛ける。
こうやって、気を失い静かに寝ている様子を見るとやはり可愛らしい。もう少し、性格にお淑やかさが付与されれば、申し分ない……はぁ~今どちらかというと、お淑やかさじゃなくて、嫌味ったらしさが付与してくれれば楽なのにな。
つくづく思う、合理的で物事を簡単に切り捨てることができたら、今よりはだいぶ生きやすくなると……変な憧れを抱いたり、意味のないところで反抗したり、妙なことで悩んだり……自らの命を懸けてまで誰かを守ろうとしたり……。
背中を向け、腰に据えていた拳銃を握る。
全身の神経を鋭敏にする。わずかな音、微かなざわつきすら見逃さない。相手は森で狩りをする獣、身をひそめ息を殺し、姿を見せることなく獲物を狩る。今どうして、どこから狙っているか……わかるのは、死を匂わす絶対的な恐怖だけ。
だが、そんな俺をあざ笑うかのように正面から姿を現した。
体長百六十前後、一回り俺より小さい。ジャガーやトラ、猫を彷彿とさせる流線型の体、全身柔らかな淡褐色の体毛に包まれ、その表面に黒い斑が花のように咲く。 細身のある四肢で大地を悠然と歩く。真っ赤な口からチラつく白い牙、最も目を惹く艶やかに丸い眼は、針のように鋭く刺してくる。
堂々たる姿は強者たる余裕なのかもしれない。
俺は、その獣と目を合わせた瞬間、止まった。
まるで時間が止まったかのように、肉体と、思考が、停止した。
感じるのは漠然とした微かな恐怖だけ。後は日常のように落ち着いていた。
だが、直面する危機と心が抱く感情とのあまりの乖離に嫌な汗が止まらない。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
心臓に鼓動するように呼吸が加速する。
呼吸の間隔が徐々になくなっていき、最後には叫んだ。
「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼‼‼‼‼‼‼‼」
右手に持っていた拳銃の引き金を獣に向かって引いた。
銃身内で小さな爆発を起こり、鉄の弾丸は勢いよく打ち出された。
「あぁ、肩が……」
くそ、痛い。映画とか、ドラマとか、銃撃戦ってものはよく見るが大抵の人物は平然と銃を撃っている。初めて銃は撃ったが、想像以上の反動に肩がやられそうだ。
獣は、微動だにせず、口を軽く開け犬歯を見せる。
「ロクに拳銃を使えない俺を嘲笑っているのか」
放たれた銃弾はどこも掠めることはなかった。
だが……やっと感じた。
体にかかる痛みによって心が動いた。
それでも、湧き上がるのは膨大な恐怖。徐々に膨らみ心を圧し潰していく。
「しゃぁぁぁぁぁぁ来い‼」
自らを奮い立たせる。チラつく逃避行動を押し込めた。
呼応するように獣は大地を蹴った。弓矢のように引かれる体をバネにして、矢のように一直線に伸びる。
俺は、避けようと体を右に動かす。
だが……
「ぎゃぁぁぁぁぁ」
獣のあまりの速さに避け切ることができず、左腕が噛まれた。
俺はそのまま後ろに倒れた。強靭な顎によってミシミシと骨の鈍い悲鳴が全身に走る。突き刺さる牙は薄い布を切り、肌を破り、肉を抉る。その状態で獣はさらに首を振り左腕を引きちぎりにかかた。
バンッ!
激痛が頭を満たしたことで、右拳を握ってしまい拳銃の引き金が引かれた。
右肩にかかる衝撃、鼓膜を刺す爆音。
その僅かな意識の変化がきっかけとなった。
銃口を獣の腹に押し当て引き金を、引いた。引いた。引いた。引いた。引いた。
夢中になって引いた。何かを叫びながら一心不乱に引き続けた。
飛び出す薬莢、飛び散る血、焼け焦げた硝煙と生温い鉄。身体に降り注ぎ全身に染みてくる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
響かなくなった銃声に気が付くと、世界が止まっていた。
すでに左腕には痛みが感じなくなっている。
立ち尽くした獣はぐらっと揺れる。体を支えていた四本の足が崩れ、俺の体に覆いかぶさるように崩れた。
獣の体から強引に抜け出し、二本の足で立ち上がる。
「アハァ、アハァ、ハハハハハハハァ」
壊れた人形のような笑みを浮かべた。
一体何が起こったのか、数秒前のことだが、全く記憶にない。
あるのは不確かな狂気と恐怖だけ。
獣の死体に目を向けた。
熱を帯びた血が死体から流れ出し、大地に真っ赤な絨毯を敷く。
「うっ……」
唐突な嘔吐きにその場で膝をつき吐いた。
酷い劣悪な味。あらゆる感覚が鈍っていても体から湧き上がる拒絶が身体を蝕んでくる。
今だに残る銃の引き金の引く鉄の感触、衣服に付いた生温かな血の温度。焼き付く感覚に気でも狂いそうだ。
頭を強く振るい記憶を振り払う。ぐっと 足に力を入れて立ち上がる。
ふらふらとおぼつかない足で気を失っているアビゲイルに近寄る。アビゲイルを背中に担いで再び歩を進めた。
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