地理の時間
「―――――――――」
俺の声は無残にもかき消された。
世の中そんな都合よくうまくいかないこと今日一日で十分理解したつもりだったが、まだまだ甘かったと言うしかない。
高校一年生のとき、初めての地理授業で、先生が授業を始める前にこんなこと言っていたのを思い出す。『地理の授業はとても簡単だ。地球全体を見て、地理の授業で学ぶことは地球の表面だけにすぎない。地球の体積に比べたら、わずか1%にも満たないからな』
あぁ、なるほど1%なら簡単だな。
と、一瞬思ったがよくよく考えると地球の表面を取ったら、残るのは大気と海とマントルだけどだろ。地球表面の方がよっぽど情報が多いと思うが、あやうく1%という言葉にだまされるところだった。
こんなどうでもいい思い出話をして何が言いたいのかというと、要するに『地球の表面とは、地球そのものに比べたら、わずかなものだ』と言うことだ。我々人はそんなわずかな場所で暮らしていることになる。
転移魔術は、セリカさんの話によればありとあらゆる場所に転移できると言う。なんとも素晴らしい技術で、魔法のある世界でも、『まるで魔法みたい』だと感銘の声を上げる。
だが、そんな素晴らしいものに当然デメリットはある。勝手に使っといてなんだ が、アビゲイルには使う前に教えてほしかったものだ。
実に不思議だった。アビゲイルは転移魔術を持ちながら、なぜ俺とあの店で別れた後、すぐに転移魔術でどこか敵のいない遠くの場所に逃げなかったのか。その方が足で逃げるよりもよっぽど安全で素早く逃げれたものを……
答えは簡単だ。俺の目の前に広がっているのだから。
遮るものなどない透きとおる青い空。眼下に広がる果てしなく続く大地。その全貌を把握できるとわずかに湾曲しているのが目で見える。
転移先は上空数千メートル。絶叫の中で手足をバタつかせると空気抵抗によって、体が右へ左へ、果てはぐるぐると制御が利かないまま回転する。
なんでもどこでだと、安全な惑星表面に転移する確率など僅かなものだった。さらに建物の壁とか、マグマの上とかを抜けば無事に転移できるなんて、夢にも思わない。座標指定の方法があるのだろうが、俺が知るわけがない。
それでも、深海に転移して水圧で即刻潰されたり、マグマの中で体を焼かれたりするよりは、まだ上空の方が不幸中の幸いと言える。
(でも、間違いなく落ちたら、死ぬけどな‼)
ぐるぐる回り視界に入るものがうまく認識できなかったが、一点だけ明らかに青でも緑でもない銀色を下の方で捉えた。
俺よりも少し下の方。俺と同じく転移魔術で飛ばされたアビゲイルは上空を落下している。アビゲイルはこの危機的状況に陥っても慌てた様子はない。かと言って、この状況に冷静に対応するわけでもない。言うなれば、まるで感情を失くし、ただ自然に落ちているように見える。
(ヤバいヤバいヤバい)
アビゲイルの体は、どんどんと加速し距離が離れている。
俺は、体を弾丸のように空気抵抗を減らし身体を加速させた。
どんどんと加速する身体は、徐々にアビゲイルとの距離を詰める。時折手足を動かし距離を縮める。あと少し、というところで行き過ぎたり、遅すぎたりと、アビゲイルに触れる距離まで寄りながらもなかなかつかめずにいた。
それでもやっとのことでアビゲイルの体を抱きしめた。
アビゲイルの表情を確認すると、やはり気を失っている。ますます危機的状態に追いやられる。アビゲイルを掴んだもののこの先は全く考えていない。
(いや、思いつかない)
だって、上空数千メートルで一体何ができる。どんなに鍛え抜かれた屈強の兵士だって、スカイダイビングには、パラシュートバックを持って飛ぶ。どんなに手を羽ばたかせたところで人は飛ぶことはできない。
(……飛ぶことができない)
ポケットに手をやる。取り出したのは鉄でできた一枚の羽根。アビゲイルからもらった飛行魔術のインテム。
(今度こそ飛ぶしかない。なりふりに構っていたら死んでしまう。最悪、このスピードだけでも落とせればなんとか……)
楽観的にも程があるが、こうしていないとホント、生きていく自信が持てない。
屋上と同じようにそっと目を閉じた。まだ、地上まで時間はあるが、流れる一秒があっという間に感じる。
脳内で流れを描き、希望の羽に流し込む。空想の世界の見様見真似だ。これでうまくいくはず……
(クソ‼うまくいってない)
目を開けても状況は変わらない。
屋上で感じた体内の妙な流れを掴むような感覚は確かにあった。やはりあれは偶然だったか……
そもそも魔術の『ま』の字も知らない俺がそう簡単に魔術が使えると思えない。本来なら、しっかりと学ぶことで使えることできる代物だ。転移魔術の成功はビギナーズラックみたいなものだ。
いや、転移魔術を使えた時点で燃料となる魔力は俺の中に存在する。なら、原因はシステムの方だ。あぁ、そうか。これにもついているのか。
安全装置は高度な転移魔術だけだと思っていたが、この飛行魔術のインテムにも備わっているという訳か。
アビゲイルの腰のあたりを探る。死ぬ前にちょっと女の子を堪能したいとか、決してやましいことはない。ただ、アビゲイルが持っていたナイフを探しているだけである。
だが、どこを探せども見つからない……
(あっ、まさか⁉)
さっきのビルの屋上で、敵から逃げることで必死だったからナイフを使った後、投げ捨てた記憶が……
はぁ~、インテムのセキュリティーに自らの血を使うって、かなり頑丈な作りになってる。インテムだけじゃなく、アビゲイルとセットじゃないと使えないとなると、インテムだけ盗んでも全く意味がない。でも、魔法使うたびに手を切るのは、 やはり自虐的ともいえる。
いやいや、一刻一秒を争う中で何に現実から逃避している。
(……毎回、傷をつける?あぁ、そうか。まだ、屋上で付けた傷が残っている)
アビゲイルの左手を見た。人差し指には薄らと血の膜で塞がれた傷跡がある。
これならナイフがなくても、簡単に傷から血が取れる。
善は急げと、傷跡に歯を突き立て……
(いや、ちょっと待て)
少女の小指にある傷を再び傷を入れるためには、その小指を噛むという訳で、そうすると少女の滑らかな指が俺の口の中に入る訳で、はたから見るとこれは少女の指をぺろぺろとしゃぶる変態にしか見えない。
と、狂った頭が正常に狂った判断をした。その途端、快楽的な背徳感に燃え、同時に社会的な道徳心が氷水で消火に当たる。思春期の男が欲……
瞬間、脳に入れようとしなかった下の様子が流れこむ。広大な大地は視界に収まらず、木々と地面が視界を埋める。もう森に輪郭がつくほどにタイムリミットが近づいている。
(そうだ。ためらっているわけにはいかない)
これは助かるためには仕方がないことだ。飛行魔術にはアビゲイルの血が必要。決していやらしいなど、やましいなどない。少女の指をぺろぺろ舐めるなんて……ここはシリアスに行こう。恥ずかしいと思うから、恥ずかしいんだ。ここは堂々と、何も悪いことはしてない。
意を決し、白磁な小指を噛みしめる。生ぬるい鉄がジワリと広がる。すぐに口を離し、羽根に血を塗り付ける。
(もう死ぬ‼‼‼‼‼‼‼)
森が目の前に迫る中、目を閉じ全身の力を入れて羽根を握りしめる。
グラッと脳を揺さぶられるほど目眩に見舞われる。
目を開けると息が止まる。手を届くほどの距離に木の先がある。重力に逆らうようにピタッと空中で静止している。あと数秒を遅ければ、体中が木によて…………想像しただけで背筋が凍る。
「ハハハァ……生きている」
今だ、生きていることが実感できない俺は、困惑したようにぎこちない顔で笑う。
空中で止まれてことで九死に一生を得た。だが、それでも大木の頂部。まだかなりの高さがある。この高さから落ちても十分に悲惨な目に合いそうだ。
飛行魔術と言うだけだから、空中で移動できると思うがその方法がわからない。とりあえず、念じればなんとかなるはず……
ピシッ!
硬いものに亀裂が入るような嫌な音がした。
ピシッピシッ‼
また、音がした。
一応、周囲を確認しそれらしきものを探すがやはり見当たらない。硬いものなんて持っていた記憶がないはずだよ。
ピシピシピシッ‼
あぁもうわかってるよ。そんなに主張しなくても最初から気づいています。
固いものと言えば、まず思いつくのが鉄である。
そう、恐る恐る羽根を握った手を開いた。
(あぁやっぱり、そうですね)
手で握っていたから僅かな音の振動を感じていた。気のせいだと心の底から願ったが神は死んだ。見事に鉄の羽根に小さな亀裂が入っていた。
パリン‼
そして、亀裂が一筋の線となると二つに割れた。フッと、再び重力が消える。
大地を隙間なく埋める木々に体をぶつけながら、アビゲイルだけでも、と必死に全身で包み込み、大地に墜落した。
「くそ‼」
背中に殴られたような強い衝撃が走った。
「はぁ、はぁ、今度こそ生きている」
途中、木の枝に体を打ち付けたがそれが緩衝材になって、地面に激突してもぺシャンコになることはなかった。
体を少しだけズラすように動かして体の異常を探った。
(はぁ~、背中がすごく痛いが、骨には異常はなさそう)
神様ありがとう……なんて、神が死んだ宣言をした俺が言うと、なんとも浮気性だな。
たった数分か、それ以下か。しっとりした地面から僅かに漂う雨臭い土の臭い、石や根で膨らむ大地は舗装された道路とは比較にならないほど足元が悪い。ただ、確かに存在する背中の固い感触がなんとも愛おしく感じた。
普段なら絶対に感じることのできない神秘に浸るのは気持ちいいが……命を懸けてまで感じたいとは、二度とごめんだ。
今も気を失い上にのしかかるアビゲイルを抱え立ち上がる。アビゲイルをゆっくりと運び、木の幹に背中をかけた。
気を失うアビゲイルの姿は、どこか悲しみで泣いているようにも取れるが、その儚げな感じがむしろ美しくもあった。
アビゲイルの隣に腰を下ろし、木に背中を預けた。
「これから、どうしようかな」
脱力感が体にいきわたる、今でも生きてるのが不思議で途方に暮れた。
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