第12話 開演

 僕は天音さんの背後で弦一郎氏の醸し出すオーラに呑まれていた。自分が今いるのは本当に大学の敷地内にある講堂の控え室なのかさえわからなくなってきていた。


「……普段、私には会いたがらないお前が自ら訪ねてくるとはな。どうした?」


 弦一郎氏は優しい口調で天音さんに語りかけた。


「……いえ、ただ一つだけ、聞きたいことがあります」


「言ってみなさい」


「私が音楽の道を歩まなかった事をどう思っておりますか?父と母のように、失望されているのでしょうか……」


「…………」


 朝、天音さんは音楽一家という家系に縛られたくないと言っていたがそういうことだったのか。恐らく親の期待に応えられず、周囲から音楽一家の出来損ないという烙印を押されたのだろう。そして、そのことを世界的音楽家である弦一郎氏がどう思っているのか。今までそれを聞く決心がでなかったのだ。いや、もしかしたら自分の中で祖父からも同じ評価をされていると思い込んでしまったのであろうか。当事者でない僕にはわからないが、恐らくそういったものがあるのだ。

 弦一郎氏は少し間を置いて、天音さんの顔をじっと見つめて口を開いた。


マリンよ。私はそんな事を思った事は一度たりともない。もし息子の奏士そうしやお前の母の琴音がそんな出鱈目を言ってお前を苦しめたのだとすれば私は二人を許せん。そうでなくともそう思わせた二人を許せん。私は孫を絶対に音楽家にしろなどと言たことはない。なって欲しいなどと思ってもいない。マリンの思う道を立派に進んでくれれば私は嬉しいのだ。あまり会う時間も作れず、お前の中でできた誤解に気づくことなく放っておいてすまなかった。今度お前の両親に会った時、よくよく言って聞かせておく」


 弦一郎氏は椅子から立ち上がり、指揮棒を手に取り天音さんの横を通り過ぎ、扉のノブに手をかけて立ち止まった。


マリンよ。今日の演奏はお前にも聴いてほしい。きっと聞きに来てくれ」


 そう言い残して弦一郎氏は本番の舞台へと向かっていった。

 弦一郎氏のいなくなった控室は先程までより広く、そしてこの上なく質素に感じた。たった一人のオーラでここまで変わるというのだから驚きである。

 緊張感から解放された僕はいつものように天音さんに話しかけた。


「話してみてどうだった」


「ええ、驚きが大きかったですが嬉しくもありなんとも言えません。一つ思っているのはもっと早いうちにちゃんと話しておけばよかったと今になって後悔しています」


「そうか。では客席まで行こう。それくらい交代要因の先輩方も許してくれるだろう」

 

「はい、行きましょう」


 振り返った天音さんの目には涙が滲んでいた。


 講堂の中は大勢の客で溢れかえり、凄まじい熱気を放っていた。天音交響楽団の演奏が無料で聴けるのだから無理もない。


「これでは立った状態で鑑賞する他ないか?」


 僕は背伸びをしてどこか空いている場所がないものか探した。しかし、この暗い中そんな場所を探し出すのは困難極まりない。


「入ってくるのが遅かったのですから仕方がありません」


「いや、天音さんがあのステージから見える場所にいなくては駄目だろう。諦めてはいけない」


「しかし……」


 天音さんの言葉も聞かず僕は目を動かし続けた。アナウンスの声がして緞帳が開き前方の席が明るくなる。


「あった!」


 前から2列目、左端に一席を見つけた。僕は天音さんの手を引きかけ出した。


「矢田さん!もう演奏が始まります!今動いては……」


「今でなければならない!今にあの席が取られるかもしれないのだ!さあ!」


 僕は人混みをかき分けて一直線に席へ向かい、天音さんを座らせた。

 舞台を見ると丁度弦一郎氏が舞台上に姿を表していた。弦一郎氏は会場をじっと見渡し、最後に僕と天音さんのいる席へ目を向けた。にこやかな笑みを浮かべた弦一郎氏は正面を向いて一礼すると指揮台に登り指揮棒をばっと振るうと、どおっと音が響き渡った!

 

「ほら、天音さんは見える場所にいなければ」


「……そうでしたね。お爺ちゃんはずっと……こういう日を待っていたのかもしれません。誤解のせいで私は十年以上お爺ちゃんの指揮する姿を見ていませんでしたから」


「そうか。それは、とても良いことだ」


 僕達はそれから演奏に集中して何も考えていなかった。そう、あのひねくれ者のこともすっかりと頭から抜け落ちていたのだ。

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