勝ってこい 04

 準決勝の第一試合が、高宮たかみやハルキの掛け声とともに始まった。今期アニメの有名どころの曲が流れる。

 フロアの観客は増える一方で、その熱量もすさまじい。敗退したバトラーの中には、二階席で観戦している者もいる。バトラー以外は二階席やステージに登ることは出来ないので、大抵の場合そこはダンサーの社交場と化していた。

 クリスはライジンと共に、フロアを壁伝かべづたいに進んで正面のステージに戻った。二階席に人が移ったためか、ステージ上はいくらか空いている。

「ニトクリス、ちょっと体を動かして見せろ」

 ライジンが言う。

 先ほどのアニメーションをたっぷり取り入れたダンスが体に変な癖をつけていないかをチェックするのだろう。クリスはそう思って、ステージ上で流れる曲に合わせて踊ってみせた。

 知っている曲だから、身体はそれに合わせて動かすことができる。そう思いながら身体を動かすものの、自身でも分かるくらいにどこかぎこちなさを感じてしまう。

 まさか、たった一曲、別ジャンルのダンスを混ぜただけでこんなにチグハグになるのだろうか。

 もともと、キングタットはアニメーションやポップダンスから派生したものだ。音の取り方は他のジャンル、例えばブレイクダンスやロックダンスに比べたらよほど似通っているはず。それなのに、ここまでダンスのキレが悪くなってしまったことに、クリスは恐怖を覚えた。

「やっぱりな」

 ライジンが苦虫を噛み潰したような顔をする。

「……すいません」

 クリスはすっかり意気消沈してしまった。

 ライジンに指摘された通り、自分には余計なスタイルにうつつをぬかす余裕などなかったのだ。

 出場者がこぞって二階席にったために人の少なくなったステージは、人の多いフロアや光の当たるサークル内とは違ってどこか妙に寒々しい。ステージを照らすライトはほとんどなく、あってもそれはDJブースをやさしく照らすためのもの。

 ふと、どうしようもない寒気が、クリスの背筋をっていった。寒さに震えあがり、背筋を伸ばして、しかし弱気は見せないようにライジンと気丈に向き合う。

「言っただろう?あのダンススタイルはまだ早いと」

「はい……」

 まさか、本番前にネチネチと小言を言われるのだろうか。クリスは気落ちを禁じ得ない。表面は気丈きじょうを取り繕おうとも、気分が上がらなければそこには良い緊張感も生まれない。

 ライジンは、クリスが自分の思っている以上にテンションが下がっているのを見てとると、小首をかしげた。

「……ニトクリス、何か勘違いしてないか?」

「え?」

 頬を平手で軽く叩かれたように、クリスが顔を上げる。いや、元から顔はライジンの方を向いていた。クリスは何か洗脳から解けたような気分だった。

 そしてそれは、ライジンにも言えたことだった。飼い犬が怒られるのを怖がって尻尾をまたに隠したようなクリスに、妙な既視感デジャヴがあった。

 クリスは準決勝が始まる前、ヨーヘイと共にいた。

 だとしたら、ヨーヘイがクリスに自分とライジンとの過去を話していてもおかしくはない。

「もしかして、ダンススタイルを変えたことに、俺がいきどおりを感じていると思ったか?」

 クリスの肩が一瞬ね、それからうなだれるようにうなずいた。その仕草しぐさでライジンはようやく合点がてんがついた。二人の間に齟齬そごがあるのを発見する。

 コミュニケーションは難しい。ほんの些細ささいな一言が、別の意味に受け取られ、それが相手の心中しんちゅうで膨らんでいくことなど、よくあることだ。ましてや、それが目上の者からの一言ならなおさらで、言葉は簡単に一人歩きしてしまう。

「俺が『次はないからな』と言ったのは、そういう意味じゃない」

「……そう、なんですか?」

「ああ。ニトクリス、お前は今の自分のダンスに違和感を覚えただろう?」

 クリスが無言でうなずく。

「それはダンススタイルの問題じゃあない。もっと単純に、お前は“疲れた”んだよ」

 クリスが目を見開いた。

 予想だにしていなかったことだった。

「お前がマリキータみたいな箱に入るのは何回目だ?ダンスバトルイベントに来るのは?全身から音楽を浴びるように聞いたことは何度ある?」

 ホールの中は、アニソンが“聞く”というよりも“体で感じる”と言った方が良いほどに爆音で流れている。重低音が体を揺らし、歌声はフロア全体を満たす。音の洪水こうずいという言い方があるが、洪水と言うよりも津波に近い。

「大きな音は、身体を動かす助けにもなるが、それ以上にストレスにもなる。長時間、その空間にいれば、身体は当然のように疲れる」

 午前中から始まったイベントは、午後八時をとうに回っている。出入りがあったとしても、相当の時間を爆音の中で過ごしていたことになる。

「もう一つ。これはダンスバトルゆえの問題だ」

「体力は、アゲハさんに言われてそれなりにつけては来たんですけど」

 勉強とダンスの練習、二足の草鞋わらじをすると決めたとき、アゲハにまず言われたのは体力をつけることだった。普段のダンスの練習に加え、ジョギングと筋トレを欠かさず、そしてきちんと食べ、筋肉をつける。

 バトルである以上、対戦相手がおり、ダンスである以上、人を魅せる必要がある。この二つを両立してこなすことの心身への負荷は、アゲハから何度も説明されていた。

「ショーケースとは違って対戦相手がいる。そのストレスに勝つには、最低限きっちり体力づくりをしなければやっていけないわよ」

 その言葉の通り、愚直ぐちょくに体力づくりは行ってきた。それでも、気づかないところで疲労は溜まっていたのだろう。

「体力づくりなんていうのは基本中の基本だ。問題はそこじゃない。脳の瞬発力だ」

 しかしライジンから発せられた言葉は、もっと別の切り口からだった。

「脳の瞬発力……?」

「ダンスバトルは曲を聞いて即興でダンスをする。ニトクリスのような、歌詞ハメや音ハメを多用するダンサーに陥りがちなのが、脳の酷使だ」

 セットムーブ同士を組み合わせるならまだしも、本番で新しいムーブを考え、その通りに身体を動かし、さらには音や歌詞を聞いてそこにピタッとハメていく。

 脳をフル回転させてダンスをするのは、マラソンをしながら将棋を指すようなものだ。あらゆるリソースをダンスにくがゆえに、常にギリギリのキャパシティを要求される。

「爆音に対するストレスと、脳の酷使。こういうのは何度も本番を経験して少しずつ体と頭を慣らしていく必要がある。体力づくりだけでは対応不可能な部分で、お前の中に疲労が蓄積しているんだ」

 心身の疲労は、ダンスの精彩せいさいを欠く。それはクリスのような繊細なダンスをする者ほど影響が大きい。

「キングタットにアニメーションを混ぜるな、って言ったのは……」

「普段のダンスに無い動きを取り入れれば、心身、とりわけ脳への負荷は計り知れない。『次はないからな』って言ったのはそういう意味だ」

 脅しではなく、これ以上は心身を酷使して戦えなくなるぞという忠告だったのだ。

 そして言葉の通り、現状、クリスはそれほどに疲れている。

「ど、どうしたら……」

 万全ではない状態で準決勝、決勝を勝ち上がることがどれほど厳しいか、それは考えるまでもない。

「一度使ったセットムーブでも気にせず使え。トゥワイス一度見せたムーブだと指摘されても気にするな。ニトクリス、お前の強みはダンスの正確さだ。戸惑うな」

「……はい!」

「疲れているのはお前だけじゃない。相手も当然疲れてきている。心で負けるなよ」

「はい!」

 サークルで歓声が上がる。ジャッジの腕が一斉に振り上げられ、最初の決勝戦進出チームが決まった。

 サークル内のバトラーは、互いに健闘をたたえ合うように抱擁し、万雷ばんらいの拍手をもってその場を去った。

「さあ行くぞ。気合入れろよ」

 ライジンの言葉に、クリスは口を一文字いちもんじに引き締めて大きく頷いた。


 ◇


「さあ、準決勝第二試合!赤コーナー、なんと初出場!片方はなんか見たことあるけど初出場!『ミラーズアンド金槌ハンマー』ァーーーッッ!!!」

 司会の高宮ハルキに呼び出され、クリスとライジンの二人はステージから観客をかき分けるようにサークル内に登場した。ハルキの指し示す赤コーナーへと促される。その間に、アシスタントのダケロニが声を張り上げた。

「青コーナーはこの二人!もはや本戦常連!『ラジカルえれめんたりスクール』ゥーーーーッ!」

 呼び出しに応じて、ホールの入口からラジえめの二人がやってくる。冬だというのにタンクトップ姿のテクろーとダボっとした灰色のパーカーを着たしゲルの二人組は、数人のセコンドを引き連れていた。

 テクろーの無駄のない筋肉は、二の腕から肩、大円筋群だいえんきんぐんがスマートに盛り上がっている。しゲルの方はパーカーに隠れて分からないが、細身に見えて首筋に見える筋肉が歴戦を物語っている。

 対面してラジえめに向き合うと、クリスは二人の引き締まった肉体に思わず尻込みしてしまう。彼らのダンスはブレイクダンスのストロングスタイル。言わば、城磯しろいそ高校ダンス部を遥かに超えた存在だ。

 取っ組み合いのケンカで勝てる相手ではない。

 だが、これはケンカではなくダンスバトルだ。アニソンダンスバトルだ。

 だったら、戦える。

 そんなにらみ合いのサークルをさらに盛り上げようと、ハルキがマイクパフォーマンスを演じる。

「さあ、両者バチバチに睨み合っています!アツい!そして、ミラハンはなんと二人ともあきばるは~らには初出場!というかライジンさんはともかくとして、ニトクリス選手!長いことアニソンダンスバトルにたずさわってきた僕ですが、ほとんど見たことがありませんでした!ちょっと話を聞かせていただきましょう!」

 観客から歓声が上がる。ハルキがクリスの前に歩み寄ると、その口元にマイクを向けた。

「どうですか!何か意気込みはありますか?」

 マイクを向けられ、クリスは目を白黒させる。向けられたマイクを手に取るべきなのか、そのまま喋るべきなのか、何もわからずに思わず助けを求めるように視線をライジンに向ける。

 自由にやれ。

 ライジンが目で語った。

 クリスの背中を平手で思い切り叩く。頑張れと、エールを送るように。

 クリスがわずかに手を動かしてマイクを取ろうとすると、ハルキから強引に手渡される。「おっ、いっちゃえ言っちゃえ!」とハルキがはやし立てる。

「えー……っと、初めてあきばるは~らに出場しました。ニトクリスです、よろしくお願いします」

「つまんねーぞァ!!!」

 クリスの当たり障りのない言葉に、二階からヤジが飛ぶ。

 シゲがビールを片手に叫んでいた。

「爪痕残せや!」

「シゲ、うるっさい!」

 観客もクリスと同じように二階を見る。シゲを知っている参加者や、常連の観戦者の間に笑いが起こった。注意するアッコをよそに、シゲは笑いを取れだのもっと意気込みを語れだのとかしましい。

「おーい、シゲ。後でお前説教せっきょうなー」

 マイクを持っていたダケロニが真顔で言うと、会場は笑いに包まれた。なごやかなムードは、再びクリスの言葉に注目するように収斂しゅうれんする。

 クリスは鼻から大きく息を吸った。

「俺は今日、ヒーローになりにきました!」

 おおお!という歓声が、地を這いフロアを響かせる。観客が片手を頭上に振り上げた。

「オタクでも、コミュ障でも、ダンスがあれば戦える……こんな俺でも、ヒーローになれますか!?」

 地響きのような歓声は、やがてホール全体を包み込む。

 温かくも激しい歓声の中で、喉が張りけんばかりの大声で叫ぶ者がいた。

「なれる!!!」

 クリスはハッとして、その声の主をフロアの中に探した。

 どこかで聞いたことのあるような男性の声。しかしなじみはない声だった。ヨーヘイ達の誰かでもなければ、もちろん太陽と涼人の声でもない。どこで聞いたかも思い出せないような声。あるいはクリスが全く知らない人なのかも知れない。

 それでも、クリスに向けて発せられた「なれる」の一言は、疲労した体に効いた。心臓が大きく鼓動して、手足の末端まで血液が流れていくように思われた。目の奥がジンと熱くなって、目の前の対戦相手をしっかりと見つめることができる。

 対戦相手のテクろーは、胸筋きょうきんを見せびらかすように腕組みをしたままクリスへとずかずか歩み寄り、二秒ほど鼻先が触れるほどの距離で見つめ合うと、クリスの手からマイクをひったくった。

「なァにが『オタクでもヒーローになれますか?』だよ、偉そうに」

 場所が場所ならツバでもきそうな勢いでテクろーが悪態をついた。自コーナーに戻って観客の中に混じっていた一人のダンサーを指さした。

「hydeもいちいち勇気づけてんじゃねーよ。……大体よぉ、テメエがヒーローだっつーんなら俺らは何だ?悪役か?ふざけんじゃねーぞ」

 テクろーはクリスとライジンに再び体を向けて、親指で首を切るジェスチャーをした。

「オレ達はみんな、優勝したくてここにいるんだよ。テメエだけがヒーローになりたい訳じゃねえんだ。テメエ一人が悲劇のヒーロー気取ってんじゃねえぞ、分かったかこの土下座野郎」

 一瞬、クリスの身体が強張こわばった。ほぼ同時にライジンの手がクリスの肩にかかる。シゲの言った通り、バトル前に土下座動画をあおる者はいた。クリスはそれをとがめるつもりはない。事実を曲げることはできないし、言われることは覚悟の上だ。

 ざわつく観客。温かい場、優しい空間を暴言が塗り替えていく。

「もう一回言ってやるよ、土下座野郎がヒーローなんて百億年早えんだよ!クソナードが!」

 サークル内の緊張感がピークに達した。

 固唾かたずを飲んで見守る観客。ダケロニにマイクを返すテクろー。返されたマイクはハルキの手に渡って、後は試合開始を待つばかり。

 ハルキはニヤリと笑った。

 観客のなかにも、何かを期待してニヤリと笑う者がいた。

「いいねえ、バッチバチなの俺ァ好きだぜ!最高のバトルを見せてくれよなお前ら!そして、最高のバトルには最高のアニソンだ!DJコーラ、アーユーレディー?」

 スクラッチの音が鳴る。

「オーケィ!お客さんも、盛り上がる準備は出来てますかァーッ!?」

 示し合わせたかのようにダケロニが観客に向けてコールする。片手を振り上げて観客が会場を震わせるような歓声を上げた。

「オーライ!それじゃあ行きましょう!あきばるは~らボリューム14、準決勝第二試合!バトル!!!」


 スタートォォ!!!


――wooh,woh,wow,woh,ooh


 出だしから入るコーラスライン。勝利の雄叫びのような、あるいはウォークライのような堂々としたコーラス。

 観客が一斉に歌いだす。千切れんばかりに腕を振り上げて、サークルに立つ四人を激励するかのように。

 きっと来るだろうと、ハルキも、ハルキと同じようにニヤリと笑った観客やバトラーも、分かっていたのだ。

 週刊少年ジャムプで連載中の人気漫画が今期ようやくアニメ化した。感動の一話と、そのラストで流れるオープニング曲は、ジャムプアニメきっての演出として今なお人々の話題に上っている。

 『エンカレッジメント・ヒーロー』。そのオープニング曲『メロイックサイン』

 コーラスラインから始まるイントロに、クリスは体が燃え上がるように熱くなるのを感じた。鼓動が高鳴り、血が湧き上がり、叫び出したいほどに身体がムズムズする。

 フロア全体が、四人に注目している。存在を後押ししてくれる。

「ウオオアア!!!」

 知らず知らず、クリスは叫んでいた。

 バトスク前の練習会の時に、とんとんがマスカレ4のオープニング曲を聞いて叫んでいたのはそういうことだったのだと、クリスは実感した。どうしようもなく感情が溢れて、身体が張り裂けそうになるとき、自分達はダンスをせずにはいられないんだ。

「ニトクリス!冷静に行け!」

 無断で飛び出したクリスに向けて、ライジンが大声で忠告する。振り向きはしなかったが、クリスの耳にはきちんと届いていた。


――昨日までの自分が大嫌いでライジンさん、大丈夫です、ちゃんと聞こえています 変わりたいとずっと願ってた実は、あなたに言っていなかったことがあるんです


――でも変わるだけの勇気が持てなくてダンスは脳の瞬発力が必要だと言いましたね 夕焼けの空を見てたそれはその通りだと思います


――明日も同じような日々が続くかとでも実は数曲だけ、今期アニメの曲のなかで 悲しみ負ぶった僕の背を練習中にある程度動きを作っておいて


――そっと押してくれた君は笑うショーケースさながらに魅せるような曲を 「お前を見ていてやる」と用意していたんですよ


 四人のジャッジが食い入るようにクリスのダンスを見つめる。ラジえめの二人は、ダンスにあらを見つけるたびにジェスチャーをしてみせた。トゥワイス一度見せたムーブも、ルックこっちを見ろも指摘するものの、クリスのダンスを揺るがすほどのことではなかった。


――寂しくてこの曲も 叫びたくてその一つで 喉を掻きむしって今もこうやって


――ドロドロとうごめく身体と思考とを 腹の虫が別々にして 心をむしばんだってダンスしても大丈夫なくらいに


――後悔を練習して つらい今をブラッシュアップして 笑い飛ばせるように誰よりも完璧に踊れるようにしました


――僕は変わってだから嬉しいんです 生きたいんだ叫びたいんです 背を押した君のためにこの曲で踊れる喜びを


 バトルである以上、対戦相手に向かってダンスを披露するのは挑発の一つの手段だ。勝敗を決めるのはジャッジであり、盛り上げるのは観客。全員に向かって最高の魅せ方が出来るわけではない以上、誰に向けてダンスをするのかは、ダンサーによるとしか言えない。

 クリスは、対戦相手に向けてではなく、ジャッジを正面にえてダンスをした。対戦相手に向けて挑発するようなムーブをする必要がなかったからだ。


――ブチ破れ!ブチ破った! 常識も衒いも全部あの夏祭りの一件が 放り投げて脱ぎ捨てて今までの自分に訣別して 前を向こうぜ前を向くために


――転んだら誰かが起こしてくれるはずさそうしたら、ライジンさんが手を差し伸べてくれた


――足を動かして立ち止まっていた僕に もう一歩前に出て踏み出す一歩をくれた 押された背の熱さを胸に抱いて太陽と涼人には本当に感謝しかない


――誰にも負けないだから今は勝ってヒーローになってヒーローになって 笑おう笑いたい


――空へ捧げろ遠くの友へ送る メロイックサインメロイックサイン 最高の今をいこうこれが僕の集大成です


 飛び散る汗をものともせず、クリスは踊りきった。

 これが自分の精一杯だった。自コーナーのライジンが歯を食いしばって笑っている。観客はすべからく前のめりになって、白線からサークル内に入ってきそうな勢いだ。二階席で観戦しているバトラーも、全員が立ち上がって手をメロイックサインの形にして高く掲げている。

 一曲目は完璧に踊り終えた。

 クリスがそう思って自コーナーからラジえめの二人を見るその一瞬。

「勝ったと思うなよ」

 テクろーの声が聞こえた気がした。

 ラジえめは二人で一斉にサークル中央へとおどり出し、ルーティーンを開始した。

「さあラジえめルーティーン!」

 実況するダケロニの声色は興奮冷めやらぬといった様子。

 長年一緒にダンスをやってきたのだろう。テクろーとしゲルの二人によるルーティーンは、吸血きゅうけつひかりまつりの二人と同じかそれ以上に洗練されている。

「相手もこれ曲で用意してきたな」

 ライジンがつぶやいた。

 クリスが曲でダンスを用意してきたのを見抜いたうえでの発言だった。

「ニトクリス、呼吸を整えろ。準決勝はまだあと三曲あるんだぞ」

「はい……ッ」

 息の合った六歩からのトーマス、1990が観客を味方につける。ラジえめも、クリスのダンスに全くひけをとらない。

 連続するパワームーブが音を掴む。ルーティーンが終わってテクろーがフロアに残った。床を蹴って逆立ちになり、肩から落ちて跳ねあがり、手の甲で受けてジョーダン・フリーズ。一秒、二秒。

「化け物かよ……」

 観客の誰かが呟いた。

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