戦ってこい 04

 アゲハダンス教室、と看板のかかげられた一軒家いっけんやの一室は、一面の壁が鏡張りの大広間だった。クリスは、バトスク前の練習会場だったダンススタジオがちょうどこのような場所だったことを思いだした。

 柔らかいリノリウムの床、鏡面きょうめんの壁には床と平行に走る手すり。違うところと言えば、鏡のある壁とは別の壁が、ガラス窓で出来ているというところ。

 外はいよいよ土砂降りの雨で、窓上のひさしから滝のように雨水が流れ落ちていた。

 首筋をエアコンの風がでる。冷たく乾いた風が肌に当たると、全身濡れネズミになっていることに気づいた。

 不意ふいに寒さが襲ってきて、歯の根が合わずにガチガチと鳴った。

「ほい」

 身を縮ませて体を震わせるクリスの頭に、バスタオルが投げかけられた。よく乾燥したふわふわのバスタオルは、涙が出そうになるほどあたたかかった。

「それでちゃんと体をきな。もし服が濡れてたら……ってビショビショだね、全部脱いで。乾燥機にかけてあげる」

「いやあの」

 乗りなさい、と言われたからわらをもつかむ思いで乗り込んだ自動車ではあったが、まさかこんなところに連れ込まれるとは思ってもいなかった。

 大学生か、社会人数年目と言った感じの女性だった。服装こそ露出ろしゅつが高く派手だし、肌も小麦色に焼けていかにも遊んでいると言った印象を受けるが、どこか見た目とは別に真面目そうな人だと、クリスには感じられた。

「何?高校生にもなってアソコを見られるのは嫌?遠慮しなくていいわよ。アタシは別に見慣れてるし、ガキのアソコなんて気にしないから。それよりもアンタに風邪をひかれる方がアタシとしては困るのよ」

 女性は、クリスを知っているようだった。看板にダンス教室とあったので、もしかしたら夏祭りの関係で知ったのではないかと推測する。

「あなたは、城磯しろいそ高校ダンス部の関係者ですか?」

 もしそうであれば、クリスはすぐにでもこの場を去る必要がある。

「疑うのは分かるけど、違うわ。仮に、もしそうなら、ダンス部に追いかけられているアンタを自動車に乗せる理由がないでしょう?」

 言われてみればその通りだ。

「……疑ってすいませんでした。助けていただいて、ありがとうございます」

「いいのよ。ほら、さっさと脱ぎなさい。それとも……アタシに脱がせてほしい?」

 女性はクリスに近づいて、バスタオルの上から衣服いふくを強引に脱がせにかかった。

「あら、濡れてると簡単には脱がせらんないのね」

「やっ、ちょッ、待ってください!脱ぎます!自分で脱げますから!」

「あーら、こんなに魅力的な女性に脱がせてもらっているのに、自分で脱いじゃうのォ?」

 女性の笑みが小悪魔的なそれに変わる。クリスは追い詰められたネズミのようにその場を一歩離れて、自分で服を脱ぎ始めた。

「下も脱ぐのよ」

 上半身が裸になると、女性はすかさず告げた。もたもたしていれば、また女性が脱がしにかかるだろう。そう思ったクリスは、せめても女性に背を向けてバスタオルを腰に巻きつつ、パンツを脱いだ。

「見せてもいいって言ってるんだから、気にせず脱げばいいのに」

 口をとがらせて女性が言った。

 女性が濡れた服を乾燥機に持っていっている間に、クリスは身体に残った水分を拭き取る。窓が開いているのが恥ずかしかったが、外は滝のような土砂降りだ。誰が見ていることもないだろうと勇気をふり絞る。

 女性はクリスのために男物の下着を用意してくれた。

「気にしないでいていいわ。下着ドロ除けだから」

 下着泥棒は男物の下着を洗濯物と一緒に吊るすと被害が激減するのだ、と女性は説明した。女性の一人暮らしの知恵に、クリスは思わず新鮮な驚きを覚えた。

「まあ、それは元カレのだけど」

「どっちなんですか!」

「冗談よ」

 どちらが冗談なのかは女性は説明しなかった。

 下着を履いてその場に座るクリスに、女性は向かい合うようにして座り、アゲハと名乗った。

「看板、見たでしょう?アゲハダンス教室。アタシはここで小さい子たちにレゲエダンスを教えてるの」

 夏祭りの当日は色々と裏工作をしていたために、クリスはステージを一度も見ていなかったが、涼人が後日ごじつの感想で小学生くらいの女の子がエッチなダンスを踊ってたと興奮ながらに言っていた。

「夏祭りのステージに、参加していたんですね」

「イエース。と言っても、ステージに立ったのはアタシの教え子達。言っちゃあなんだけど、結構教えるの上手いのよ?」

 アゲハは座ったまま腰を切って上半身をくねらせる。くねらせる仕草一つで、その身に染み込んだリズム感が見てとれた。

「あの……それで、どうして僕を助けてくれたんですか?」

「んふふー、まだ分かんない?案外あんがい察しが悪いのねえ」

 アゲハはダンス教室の先生で、夏祭りでクリスのダンスを見ていた。それでクリスについて知り、そしてこうやって手を差し伸べてくれた。

 夏祭りのときに、手を差し伸べてくれた人がもう一人いた。

「ライジンさん!」

「おっ、透のことをライジンさんと呼ぶまで仲良くなったのね。嬉しいわあ」

 クリスがライジンの名前を出すと、アゲハは少女のように微笑んだ。


 ◇


 なぜダンス部の部員に追われていたのか、今日の出来事をアゲハに詳しく説明すると、胡坐あぐらをかいて座る彼女はひざを揺らしながら不快感をあらわにした。

「ソイツらはクソね。同じストリートダンスをする仲間として、許せないわ」

 ストリートダンスは、学校の部活動や習い事として奨励されるようなもの……サッカー、野球、ピアノ、合唱、吹奏楽などに比べると、色眼鏡いろめがねで見られる。それは、ストリートダンスがそもそも主要な文化に対する対抗文化であるという意味合いもある。

 だからと言って、無法むほう無秩序むちつじょただちに容認ようにんされるわけではない。いかなるカウンターカルチャーだろうと、そこには一定のルールがある。人間として通すべきすじがある。それを超えて誰かの尊厳をないがしろにし、オモチャにして壊れるまであつかっていいなどということがあってはならない。

「クランピングの歴史を知らないのかしら……」

「クランピング?」

「いえ、独り言よ。とにかく、その斎藤さいとうとかいう首魁しゅかいの性格がクソだっていうのは分かったわ。クリスもそんなバカに付き合う必要は無し。それにしても、城磯高のダンス部がそこまでくさった野郎どもの巣窟そうくつだなんて知らなかったわ」

 こめかみを押さえて、アゲハが大きなため息をついた。

「アタシの教室の女の子の中にはね、城磯高校のダンス部に入りたいって言って勉強している子もいるのよ。それがねえ、今のクリスの話を聞いたら別のところに入りなさい、って言いたくもなるわ」

「……実は、僕もそうだったんですよ」

 乾いた笑いを浮かべながら、クリスが言った。

「どういうこと?」

「僕が城磯高校に入った理由も、ダンス部だったんです。中学生の時にインターネットでダンスと……アニメソングでダンスバトルをする動画と出会ったんです。その動画から伝わる会場の熱気ねっきと、その熱気を受けて熱いダンスをする人達を見て、スゴい、こんなことが僕にもできたら……って。それで県北けんぽく唯一ゆいいつストリートダンスを部活としてやってるダンス部があるっていう城磯高校に入学したんです」

 クリスの成績なら、県南けんなんの進学校に通うことも十分可能だった。県北の、弟や太陽たいよう涼人りょうとの通う高校にも余裕で行けた。

 それを蹴ってまで、母親と中学校の担任の説得を拒否してまで入学した城磯高校で、ダンス部はひたすら彼に冷たかった。

 せっかく城磯高校に入学し、ようやくダンス部に入れると思ったクリスは、部員の悪意あくいによって入部することさえもあきらめさせられた。

「だから、僕は入学したその日から城磯高校に居場所がなかった。調査不足と言われればそうかも知れないけれど……僕はただ、楽しくダンスがしたかった」

「そう……」

 アゲハは、夏祭りの時にライジンこと女井おないとおるがなぜあそこまでクリスのダンスにこころかれていたのかが、何となく分かったような気がした。

 あれだけ冷静に、音楽に完璧にハメたダンスの裏……その心の奥に、やり場のない悲しみと、怒りと、そして溢れんばかりの情熱を感じたのだ。

 それは、いのりだった。

 誰かに気づいてもらいたい。僕はここにいる。

 その悲痛な叫びが、偶然そこにいた透の胸に響いた。

「あの時のダンス、動画サイトに上がってるって知ってる?」

 アゲハはスマホを取り出してクリスの隣に座り、動画サイトに上がったクリスの夏祭りのダンス動画を画面に映し出した。

「誰が撮ったのかとかは分からないんだけどね」

 誰かが、無断で撮影したのを無断でアップロードしたのだ。一番近くに聞こえる声の主は、きっと撮影者のものだろう。

 凄い、ヤバい、熱い。

 称賛しょうさんの声が、うわ言のように漏れていた。

 あの時のダンスを動画で見るのは、クリス自身も初めてだった。

 自分のダンスはこういう動きをしていたのだ、こう見えていたのだということが分かると、どこか気恥ずかしさもあった。

「コメントもたくさん」

 画面をスクロールさせて、コメントを見る。賛否両論あるものの、素直な感動を表す短いコメントの多さがクリスを勇気づけた。

「あ……」

 下の方に、別動画へのアドレスが貼られたコメントがあった。ほんの数分前につけられたコメント。

「何?別の動画?」

「いや、それは……ッ」

 クリスが制止するよりも先に、アゲハはそのアドレスをタップする。

 現れた動画は、ついさっきクリスがファミレスの店内で土下座どげざをした動画だった。

 クリスは思わず目をそむけた。

 斎藤達は、あの時言っていたことをすぐさま実行に移したのだった。

 ゆかひたいこすりつけて謝罪の言葉をべる声が聞こえてくると、耳をふさいだ。それでも、つい先ほどの自分の行動が、痛々しいほどに思い出される。

 床についた膝の感覚、額の冷たさ。耳に残る店内のクラシック。容赦ようしゃのない斎藤の仕打ち。

「……本当に、土下座したんだね」

 動画を見終わったアゲハがつぶやくように言った。

 動画の音がなくなると、ただ、外の土砂降りの音だけが耳に響く。

 もう、取り返しがつかないのだ。一度インターネットに出てしまった動画は、消えることがない。人々の心の中で風化することはあっても、データそのものを完全に消去することなどもはやできない。

 クリスが、ブルブルと身を震わせ始めたその時。

 隣に座っていたアゲハが、クリスを包み込むように上から強く抱きしめた。

頑張がんばったね。たたかったんだね」

 耳元でささやく言葉に、クリスは目をみはった。それから、どれだけこらえようとも、見開みひらいた両目から次々と溢れる涙を止めることができなかった。

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