戦ってこい 02

 職員室の隣にある自習室は、生徒の間で「懲罰ちょうばつしつ」と名付けられていた。

 素行そこうの悪い生徒を一時的に収容して、数人の屈強な教師が警察さながらの尋問じんもんを行う小さな部屋である。設計せっけいのミスなのか、それとも最初からそういう使い方を想定してなのか、窓が無いのが特徴だ。

 扉と換気かんきこう以外の全てが白塗しろぬりのコンクリートで塗り固められた壁である。物置きか倉庫を思わせるいきぐるしさは、クリスの心をざわつかせた。

 四畳半よじょうはんほどの部屋には、壁に向かって置かれたねずみ色のスチールデスクが一台と、表面のかわがボロボロになったながソファが一つあるだけだ。

 クリスは、朝一あさいちでこの部屋に連れてこられてからかなり長い間、一人の時間を過ごすことになった。

 最初のチャイムで、同じく夏期講習にやってきていた学生の一人が、机の脇にかけたクリスの荷物を持ってきた。生乾なまがわきの学生カバンは、炭酸飲料の甘ったるいにおいを放っている。

 礼を言ったが、返事は返って来なかった。無言でカバンを置いて戻っていく学生の名前を、クリスは知らなかった。きっと、別のクラスの学生だ。

 それから数度すうどのチャイムの後、一人の教師がノックもせずに入ってくる。手持てもち無沙汰ぶさたにスチールデスクで受験勉強をしていたクリスは、真後ろの扉が突然開いたことに驚いた。

 教師は、手振てぶりでクリスをソファの方へ追いやると、自身は先ほどまでクリスの座っていたスチールデスクとセットの椅子に大股開きで座る。

 ソファの座り心地は最悪だった。腰は深く沈むのに、実際に座ると恐ろしく固い。ギシ、と音を立てたスプリングが、直接尻肉しりにくに食い込んでいるかのようだった。

「噂には聞いていたがよ」

 壮年そうねんの体育教師が重心を前にかたむけた。話しかけるたびに、ヤニのついた黄色い歯がクリスの目にまる。

「信じられないことだ、とは教師内でも話していたんだ。まさか?高三の夏休みに?あのヤンチャで有名なダンス部を出し抜いてステージをうばった人間がいる、ンなんてのはな」

 この場のクリスに、抵抗の意志はない。

 ただ、タバコ臭いからもう少し距離をとって欲しいという思いはあった。

「おまけに?それが学年きっての秀才ときたもんだ。噂を聞いても、実際にそれを動画で見ても、だぁれも信じなかったよ」

 上半身を振り子のように動かして、体育教師の重心が後ろに傾いた。大柄おおがらな教師の図体ずうたいを受け止めて、小さな椅子が悲鳴を上げる。

「で、だ。それは本当だった、ってことで良いのか?」

 両手を組んで後頭部を支える教師に、クリスは真っ直ぐな目で「そうです」と言った。

「そっかそっか。んで、これからお前は……あー、二戸にとだっけ?二戸はどうするつもりなんだ?」

「どうする、と言うのは?」

「いやあ、このまま学校につづければ、お前はあのダンス部から執拗しつようにいじめられ続けるだろ?それだけじゃない。聞けばさっき斎藤さいとうのヤツがお前に机を蹴ったそうじゃないか。お前がへその下あたりを押さえてうめいてた、って、進学クラスのヤツから聞いたぞ」

 進学クラスというのは、夏期講習に参加する成績優秀な生徒達の別称べっしょうだ。

 城磯しろいそ高校は、決して成績の良い進学校ではない。地方のいち普通校で、学年全体に対して国立大学に進学できる生徒は多くても両手で数えられるほど。中学の時に成績が優秀だった生徒は、別の高校、例えば宇都宮うつのみやにある県立の進学校に通うのが当然だった。

 田舎いなかの高校というのは、そういうところだ。

「……それでも、学校には来続けますよ」

 クリスは引き下がらなかった。

 自分は何も悪いことをしていない。それどころか、成績は決して悪くないし、素行そこうに関しても、今回の祭の一件以外、やましいところは何もない。生徒会や部活動を積極的に行ってこなかったのは認めるが、それによって内申点ないしんてんが上がらずとも、マイナスになることはないはずだ。

 ましてや……と思いかけて、クリスは目の前の体育教師の顔を見た。

 体育教師は、とても困った顔をしてクリスを見ていたのだった。

「いやあ、それはなあ、困るんだよなあ……」

 だしぬけにボヤキさえする。

「何が困るんですか」

「ほら、そうやって?二戸が?かたくなに学校に来続ければ、アイツら、まあ例えば斎藤なんかがだ、怒り心頭しんとうでお前を目の敵にして?事あるごとにお前に暴力をるうとするだろ?そうしたらそれを俺たちはそのケンカを止めなきゃならん」

 止めなきゃならん?

 体育教師がこめかみをきながら言うその言葉に、クリスは得体えたいのしれない恐怖を覚えた。

「それでもお前に対する報復ほうふくは止まらないだろうな?斎藤なんかは、一度やると決めたら徹底的だ。ヘビのような男だ。すると、お前もいつポッキリ心が折れるか分からん。まあ?それ以上に?体がポッキリいっちまうかも知れんが?」

 体育教師の目の奥には、何も映っていなかった。

 クリスがいくら体育教師の目を見たところで、目の前の教師はクリスを見ようともしない。

 心の中にドロドロの粘液ねんえきのように溜まってきた得体のしれない恐怖が、別の感情によってフツフツと煮え立つのが分かった。

 みぞおちの辺りに、掻きむしりたくなるような熱がまっている。

「これはな?二戸のためを思っていっているんだが、お前はこの際もう学校に来ない方が良いんじゃないか、と思うんだよ。学校としては?いじめが原因で?自殺なんかされたら……」

「俺は自殺なんかしません!!!」

 クリスは立ち上がり、のどがはちきれんばかりに叫んだ。

 ビリビリとスチールデスクが震える。コンクリートの白壁しらかべに反響した自分の声で、耳がキーンと鳴る。目の前の体育教師が、初めてクリスを見たような気がした。

「はあ」

 気の抜けた、返事とも挑発ちょうはつとも取れない体育教師の一言に、クリスの腹に溜まったドロドロした気持ちが一気に燃え上がった。次から次へと湧き上がる感情が全て怒りの燃料へと変化したような気さえする。

 クリスが体育教師の胸倉むなぐらつかみかかろうとしたその寸前すんぜんに、懲罰室の扉が大きく開く。

 扉を開けた人物は、そのままクリスに襲いかかるようにして押さえつけ、体育教師から引き離した。

「二戸くん!ちょっと落ち着きなさい!」

「なあんだ、久松ひさまつ先生じゃないですか」

 体育教師は暢気のんきに構えてつぶやいた。自身が殴られるかもしれなかったというのに、身構えて防御することも、クリスの暴挙未遂みすいしかりつけることもなかった。

 むしろ、久松と呼ばれた別の教師がクリスを止めてしまったことの方が、面倒なことになったと思っている節さえあった。

麻山あさやま先生、ちょっと二戸くんと二人で話したいことがあるので、良いですか?」

「それは別に構わないが、今の彼はかなり暴力的になっていますぞ」

大丈夫だいじょうぶです」

「いやあ」

だ・いじょ・う・です」

 引き下がろうとしない久松にややごうを煮やしたか、麻山先生と呼ばれたヤニ臭い体育教師は、眉間みけんにしわを寄せながら懲罰室から出て行った。

 麻山が後ろ手に扉を閉めて去り、廊下を歩くサンダルの音が遠く聞こえなくなると、久松は大きく息を吐いた。

 押さえつけていた両腕を解いて、クリスと向かい合う。クリスは、肩で息をしながらいかりをあらわにした。

「何ですか、あの体育教師の態度!」

 追いかけてブン殴りに行きたい気持ちはあったが、久松に再び体を押さえつけられるだけだ。

 久松先生は、城磯高校でクリスの尊敬する唯一の教師であり、良き理解者の一人であった。久松の腕をふりほどいて麻山とかいう体育教師を殴りに行けるほど、クリスは短絡たんらくてきでもなければおんらずでもない。

「まあ、とりあえず座りなさい」

 久松はクリスをスチールデスクの椅子に座るようにうながし、自身はソファに腰かけた。

 椅子に座って二、三度深呼吸をして心を落ち着かせたクリスに、ソファから見上げるようにして久松が問う。

「それで、麻山先生は何と言っていたんですか?」

「それは……」

 懲罰室にやってきた麻山の態度と発言をことこまかに伝えた。淡々たんたんと話をするクリスに対して、久松はゆっくりとうなずきながら話を聞く。

 久松は、クリスの目の奥にやり場のない怒りの炎がくすぶっているのを見た。

 そしてそれは、怒って当然とも言うべき怒りだった。

「つまり二戸くんは、麻山先生に『学校に来るな』と言われたんですね」

「そうです。ああ、こんなことならスマホの録音機能をオンにしておけばよかった」

「もし、君が麻山先生の発言を録音し、それをもって麻山先生をただ困らせたいと言うのなら、それも良いでしょう。しかし、それで何が解決する訳でもないでしょう?」

 クリスは、久松先生のこういうところが好きだった。

 何か問題が起こったときに、枝葉しよう末節まっせつにとらわれず、本質を追究する。その上で、解決への糸口を共に見つけ出そうとしてくれる。

 麻山のとった手段は、場当たり的な解決方法だ。クリスとダンス部の間に決定的な確執かくしつが起きた時に、それを「今後一切、互いに触れ合わない」という方法で解決しようとする。

「麻山先生の方法は、決して間違いではありません。てして社会はそのような『二度と会うことはない』という方法で解決する、解決できる個人間の問題が山ほどあります。ですが、この場の問題は、なぜ素行の悪い斎藤くん達を学校に残して二戸くんを学校へ来させないようにするか、ということ。そうでしょう?」

 クリスの話を聞いて現状の問題を露わにしていく久松の聡明そうめいさは、さすが高校教諭と思わずにはいられない。いかりの正体はこれだ、と久松によって眼前がんぜんにつきつけられると、クリスは自然とそのいかりがコントロールできるもののように思われた。

 クリスがうなずくと、久松はわずかに口元をゆるめた。

「学校というのは厄介なところで、学校外で問題が起きた時でも、その責任の所在を学校に求められるのです」

 眉を困らせてせきのような乾いた笑いをする久松の言葉が、小さなトゲとなってクリスの心を引っ掻いた。

「それは、僕に自殺されたら困るっていう話ですか?」

「それは違う。斎藤くん達に外で暴れまわられたら困るっていう話ですよ」

 久松は、真正面からクリスを見た。

 誰かに校内で自殺されるのは困るし、だからと言って素行の悪い人間を追放して、無法むほうに暴れられるのも困る。社会における学校の立ち位置は、そういう危ういバランスの上に立っているのだと久松は説明した。

「第一、今回の件に関してだけは、二戸くんの方に非がある。つまり、斎藤くん達に停学や退学の体はとれないのが現状なのです」

「それは……確かにその通りです」

 麻山が言った、ヘビのような男、という言葉の意味が、クリスにはだんだんと理解できた。斎藤はおのれの優位を確信したうえで、クリスを仕留しとめようとしている。戦術的に優位な位置で、クリスをめようとしている。

「……正直なところを言わせてもらうと、この件に関しては、結論として二戸くんが一度停学ていがくになった方が良いと思っています」

「久松先生……」

「勘違いしないでください。それは決して二戸くんが学校に来ることによって授業が荒れるから、という理由からではありません。また、停学ですから、金輪際こんりんざい学校に来るな、という意味でもありません。罪に対する罰を学校側がしめす、という意味です。二戸くんの犯した罪は、冷静に考えれば、分かりますね?」

 ダンス部のステージをうばって、出番をめちゃくちゃにしてしまったこと。

「はい、分かります」

「それに対して学校側で数日間の停学を言い渡せば、二戸くんは罰を受けたことになる。罰を受ければ、ダンス部としてはそれ以上の追及はできません。そして、もしそれ以上の追及をしようとすればそれは、ただの私刑リンチです」

 膝の間で指を組んで握りしめながら説明する久松の言葉一つ一つが、クリスにはよく理解できた。提案によってクリスが学校側から何をさせられるかは、麻山も久松もどちらもほとんど変わらない。しかし、そこにいたる道順の示され方によって、受ける印象は全く真逆のものだった。

 学校から正しい罰を受ければ、クリスは堂々と登校することができる。それ以上何かダンス部から報復を受ければ、それはリンチであり、到底とうてい許されることではない。

さいわい、今は夏期講習中です。この夏期講習の間を謹慎きんしん期間、そして夏休み明けの数日を停学期間とすれば、すぐに胸を張って学校に来られるでしょう」

「……内申点ないしんてんには……影響ありますよね」

 クリスの声色で、久松にはそれが彼のちょっとした茶目ちゃめっ気だということが分かった。すでに、罰を受ける方向で考えているのが伝わってくる。

「もちろんあります。ありますが、二戸くんの成績を思えば微々びびたるものですよ。まあ、夏祭りのステージ一つをメチャクチャにしたんですから、その程度は甘んじて受け入れるべきです」

 久松は、歯を見せて笑顔を見せた。クリスも、ものが落ちたようにスッキリとした顔つきになっている。

「分かりました。久松先生の言う通り、停学を受ける方向でいきたいと思います」

「停学に関しては、親御さんに話しを通す必要もありますからね。学校ともう一度きちんと話し合って、それで決めましょう」

「あの……その時は久松先生も話し合いの席にいるんですか?」

「僕は副担任だからきっと話し合いには参加できないでしょう。ですが今、話をしたことは教頭先生にきちんと伝えておきます。悪いようにはならないはずです」

「分かりました、よろしくお願いします。……久松先生、ご迷惑をかけてすいませんでした」

 クリスは立ち上がり、深々ふかぶかと礼をした。その姿を見て、久松も同じようにソファから立ち上がる。片手で尻を払うと、ソファのクズがボロボロと落ちた。

「謝るくらいなら感謝してくださいよ。すいませんよりありがとうの方が世界がポジティブになると思いませんか?」

 クリスは体を起こした。頭一つ分ほど小さい久松の体は、目に見える以上に強い存在感を放っているように、クリスには感じられるのだった。

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