戦ってこい 02
職員室の隣にある自習室は、生徒の間で「
扉と
クリスは、
最初のチャイムで、同じく夏期講習にやってきていた学生の一人が、机の脇にかけたクリスの荷物を持ってきた。
礼を言ったが、返事は返って来なかった。無言でカバンを置いて戻っていく学生の名前を、クリスは知らなかった。きっと、別のクラスの学生だ。
それから
教師は、
ソファの座り心地は最悪だった。腰は深く沈むのに、実際に座ると恐ろしく固い。ギシ、と音を立てたスプリングが、直接
「噂には聞いていたがよ」
「信じられないことだ、とは教師内でも話していたんだ。まさか?高三の夏休みに?あのヤンチャで有名なダンス部を出し抜いてステージを
この場のクリスに、抵抗の意志はない。
ただ、タバコ臭いからもう少し距離をとって欲しいという思いはあった。
「おまけに?それが学年きっての秀才ときたもんだ。噂を聞いても、実際にそれを動画で見ても、だぁれも信じなかったよ」
上半身を振り子のように動かして、体育教師の重心が後ろに傾いた。
「で、だ。それは本当だった、ってことで良いのか?」
両手を組んで後頭部を支える教師に、クリスは真っ直ぐな目で「そうです」と言った。
「そっかそっか。んで、これからお前は……あー、
「どうする、と言うのは?」
「いやあ、このまま学校に
進学クラスというのは、夏期講習に参加する成績優秀な生徒達の
「……それでも、学校には来続けますよ」
クリスは引き下がらなかった。
自分は何も悪いことをしていない。それどころか、成績は決して悪くないし、
ましてや……と思いかけて、クリスは目の前の体育教師の顔を見た。
体育教師は、とても困った顔をしてクリスを見ていたのだった。
「いやあ、それはなあ、困るんだよなあ……」
だしぬけにボヤキさえする。
「何が困るんですか」
「ほら、そうやって?二戸が?
止めなきゃならん?
体育教師がこめかみを
「それでもお前に対する
体育教師の目の奥には、何も映っていなかった。
クリスがいくら体育教師の目を見たところで、目の前の教師はクリスを見ようともしない。
心の中にドロドロの
みぞおちの辺りに、掻き
「これはな?二戸のためを思っていっているんだが、お前はこの際もう学校に来ない方が良いんじゃないか、と思うんだよ。学校としては?いじめが原因で?自殺なんかされたら……」
「俺は自殺なんかしません!!!」
クリスは立ち上がり、
ビリビリとスチールデスクが震える。コンクリートの
「はあ」
気の抜けた、返事とも
クリスが体育教師の
扉を開けた人物は、そのままクリスに襲いかかるようにして押さえつけ、体育教師から引き離した。
「二戸くん!ちょっと落ち着きなさい!」
「なあんだ、
体育教師は
むしろ、久松と呼ばれた別の教師がクリスを止めてしまったことの方が、面倒なことになったと思っている節さえあった。
「
「それは別に構わないが、今の彼はかなり暴力的になっていますぞ」
「
「いやあ」
「
引き下がろうとしない久松にやや
麻山が後ろ手に扉を閉めて去り、廊下を歩くサンダルの音が遠く聞こえなくなると、久松は大きく息を吐いた。
押さえつけていた両腕を解いて、クリスと向かい合う。クリスは、肩で息をしながら
「何ですか、あの体育教師の態度!」
追いかけてブン殴りに行きたい気持ちはあったが、久松に再び体を押さえつけられるだけだ。
久松先生は、城磯高校でクリスの尊敬する唯一の教師であり、良き理解者の一人であった。久松の腕をふりほどいて麻山とかいう体育教師を殴りに行けるほど、クリスは
「まあ、とりあえず座りなさい」
久松はクリスをスチールデスクの椅子に座るように
椅子に座って二、三度深呼吸をして心を落ち着かせたクリスに、ソファから見上げるようにして久松が問う。
「それで、麻山先生は何と言っていたんですか?」
「それは……」
懲罰室にやってきた麻山の態度と発言を
久松は、クリスの目の奥にやり場のない怒りの炎がくすぶっているのを見た。
そしてそれは、怒って当然とも言うべき怒りだった。
「つまり二戸くんは、麻山先生に『学校に来るな』と言われたんですね」
「そうです。ああ、こんなことならスマホの録音機能をオンにしておけばよかった」
「もし、君が麻山先生の発言を録音し、それをもって麻山先生をただ困らせたいと言うのなら、それも良いでしょう。しかし、それで何が解決する訳でもないでしょう?」
クリスは、久松先生のこういうところが好きだった。
何か問題が起こったときに、
麻山のとった手段は、場当たり的な解決方法だ。クリスとダンス部の間に決定的な
「麻山先生の方法は、決して間違いではありません。
クリスの話を聞いて現状の問題を露わにしていく久松の
クリスが
「学校というのは厄介なところで、学校外で問題が起きた時でも、その責任の所在を学校に求められるのです」
眉を困らせて
「それは、僕に自殺されたら困るっていう話ですか?」
「それは違う。斎藤くん達に外で暴れまわられたら困るっていう話ですよ」
久松は、真正面からクリスを見た。
誰かに校内で自殺されるのは困るし、だからと言って素行の悪い人間を追放して、
「第一、今回の件に関してだけは、二戸くんの方に非がある。つまり、斎藤くん達に停学や退学の体はとれないのが現状なのです」
「それは……確かにその通りです」
麻山が言った、ヘビのような男、という言葉の意味が、クリスにはだんだんと理解できた。斎藤は
「……正直なところを言わせてもらうと、この件に関しては、結論として二戸くんが一度
「久松先生……」
「勘違いしないでください。それは決して二戸くんが学校に来ることによって授業が荒れるから、という理由からではありません。また、停学ですから、
ダンス部のステージを
「はい、分かります」
「それに対して学校側で数日間の停学を言い渡せば、二戸くんは罰を受けたことになる。罰を受ければ、ダンス部としてはそれ以上の追及はできません。そして、もしそれ以上の追及をしようとすればそれは、ただの
膝の間で指を組んで握りしめながら説明する久松の言葉一つ一つが、クリスにはよく理解できた。提案によってクリスが学校側から何をさせられるかは、麻山も久松もどちらもほとんど変わらない。しかし、そこに
学校から正しい罰を受ければ、クリスは堂々と登校することができる。それ以上何かダンス部から報復を受ければ、それはリンチであり、
「
「……
クリスの声色で、久松にはそれが彼のちょっとした
「もちろんあります。ありますが、二戸くんの成績を思えば
久松は、歯を見せて笑顔を見せた。クリスも、
「分かりました。久松先生の言う通り、停学を受ける方向でいきたいと思います」
「停学に関しては、親御さんに話しを通す必要もありますからね。学校ともう一度きちんと話し合って、それで決めましょう」
「あの……その時は久松先生も話し合いの席にいるんですか?」
「僕は副担任だからきっと話し合いには参加できないでしょう。ですが今、話をしたことは教頭先生にきちんと伝えておきます。悪いようにはならないはずです」
「分かりました、よろしくお願いします。……久松先生、ご迷惑をかけてすいませんでした」
クリスは立ち上がり、
「謝るくらいなら感謝してくださいよ。すいませんよりありがとうの方が世界がポジティブになると思いませんか?」
クリスは体を起こした。頭一つ分ほど小さい久松の体は、目に見える以上に強い存在感を放っているように、クリスには感じられるのだった。
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