第5話

土砂降りの大雨で何事かと思えば、寒気団と暖気団の境界面が移動しない状態が続いて長雨をもたらす停滞前線の仕業らしい。出勤前に天気予報を見ていたので傘を持ち出せたが、この雨の勢いでは意味が無さそうだ。濡れるだろうな。

それにしても、何かの前触れのような嫌な空気。

定時で上がれたのは助かるけど、幹部クラスが土嚢を用意するか相談していたな。


『上京だけど。社内用のスマホに悪い。LINEして誰かに読まれるとまずいから』

切羽詰まった声だな、どうかしたかな。そういえば個人のスマホ、LINE交換もしていなかった。

『生田、俺の部屋で待てるか? 話があるんだろ』

あ、それは。

「今度でいいよ。おまえ、忙しそうだな。何かあった?」

『長雨が東北方面に移動しそうなんだ。国道が交通規制になれば陸路が交通マヒを起こすかもしれない。そうなると、明日午前必着の納品分を乗せたトラックが進行出来ない』

はあ? そんな事が起きるのか。

『トラックは既に埼玉を出て東北方面に向かっている。だけど最悪のケースを想定しないとまずいんだ』

川を渡るし、峠も超えるはずだからな。でも今、ここで慌てて打つ手があるのか?

冷静になれば上京なら乗り切れるはずだ。

「オレの事はいいからさ。おまえ、帰れるのか?」

『会社に居ても何も出来ないから帰るけど、トラックの進行具合を確認するから遅くなる。それでもいいなら待っていてくれれば』

解っているなら帰ればいいんだ。

『悪いね、生田』

「そうじゃなくて。……だから、おまえが心配なんだよ!」


仕事にのめりこみやがって。自分を見失うのは、おまえらしくないんだよ。

上京は、冷静であればどんな難関でも突破出来るんだ。側にいたオレは断言する。

こいつは特別なんだ。課長が言うように、替えが利かない人間なんだ。


『ありがとう。おまえに心配されるとは思わなかった』

どこまでも上から、か。

「部屋で待つよ。何時でもいいから、いや、1分でも早く帰れよ」


上京の部屋にコーヒードリップポットがあるのは以前見かけていたので、キッチンを探したらコーヒーメーカーらしきものが見当たらない。

代わりに、カフェにありそうな木の板に曲げた針金を通したドリッパースタンドと、陶器のドリップセットを見つけた。拘りがあるな、上京らしい。

雨に打たれて帰るだろうから、アイスコーヒーは冷えるだろうと思い、コーヒーを入れてみた。

てっきりスターバックスかと予想した粉はブルーボトルコーヒー。

試飲する前に検索したらハーブティーのような酸味があり、フルーツの風味も楽しめる品種だ。ああ、だからスムージーが飲めたのか。

待つ間、コンビニで買ったチョコを口にした。何を言おうと、上京の帰りは遅くなるだろう。

長丁場だな、でも放っておけないし。


バターンとドアを開ける激しい音がしてびくついたら上京が帰って来ていた。

「おかえり……」

おまえ、怖すぎるぞ。

「ただいま、あのさ、生田、悪いんだけど」

息を切らしている上に髪が濡れている。大雨の被害はオレだけじゃなかったな。

「まず、乾かせよ。風邪ひくだろ」

自分の髪を拭いたタオルだけど、玄関先で上京の髪の水滴を拭いた。大人しくされるがままにしているな、珍しい。何か、あったな。

「……仙台までトラックが走れたら間に合う。だけど悪天候だけは予想がつかないんだ。その先、進めるかどうか不確定で」

仙台の先? まさかね。

胸がざわつく、もしかして大事な言葉を飲み込んでいないか?

「青森まで到達出来るか、判明するのは日付が変わる頃らしい。午前必着は約束出来ないが、手は打つから。菊原課長が泊まり込みして2時間後には連絡をくれる事になってる。俺は返答次第で動かないと」

「おまえ、その納品先を言えよ」

「生田の担当している、青森県の株式会社・岩木だよ」



伊藤課長が長年担当してきた会社で、年間を通じて5千万円に上る取引がある。オレは上京が商品部に異動になってから数か月後に引き継いだが、その時は『上京がいたら、あいつが担当したんだろうな』くらいにしか思わなかった。


「数千万円の取引だろうと、億だろうと、取引先に迷惑はかけられない。特に、個人的な事を言うけど、俺はおまえをサポートすると言ったからな。責任持つから」

「おまえ1人が抱え込んでどうにかなる問題じゃない。自然災害だ、オレから取引先に連絡するから」

「今、取引先に連絡したところで不在だ。解るだろ、営業部」

どこの会社でも従業員が残業していたとしても定時になれば留守番電話に切り替わる。

「おまえが落ち着けよ、生田」

そう言いながらタオルで髪をごしごしと荒々しく拭き、靴を脱いで部屋にあがった。

「頼みがあるんだ。2時間後に連絡が入ったら起こしてほしいんだ。生田の話が聞けないくせに自我を通して悪いとは思うけど」

2時間寝ただけで出社? ぶっ倒れるぞ。無茶しやがるな、本当に。

それを止められるのは、多分、オレしかいないよな。

ずっと見て来た、オレしか信じないだろう。おまえは上下関係より重んじる相手がいるもんな。

自分の気持ちに気付いたよ、もう。隠さないから、おまえも逃げるな。


「……らしくないな。上京、塩らしい真似は窮屈なんだけど」

上京が「なら、我儘言うぞ」と腕を引いた。

「隣で寝てくれ。ベッド、狭いけど」


「ふざけんな」

その腕を絡めとって床に押し倒した。

「いっ! 何、無茶してんだ、馬鹿野郎!」

「馬鹿はおまえだ、散々待たせて空振りさせる気か、辛抱利かないぞ」

「待たせたのはどっちだ、この腑抜け!」

口調は荒いけど抵抗しないんだな、煽られるんだけど。

「惚れたよ、上京が好きだ」

「おまえなあ。尋常じゃない事態なのによく口説くよ、狂ったか」

まあ、そうだろうね。切迫したから気付いたし。逃がす事が出来ないと理解した。

「上京をこのまま行かせない。営業部で収束させる。だから足腰立たなくなっても文句言うなよ」

「……腕枕でよかったのに。おまえ、いい香りがするな」

「ああ、上京のコーヒー貰った」

「ん」と腕を回されてキスをした。舐りながら吸い合い、激しくなる鼓動を抑えながら互いの耳や鼻を噛んだりした。

「俺の好きな香り」

「コーヒー、本当に好きだな」

前髪をかきあげると汗が滲んでいる。それを吸うと上京が瞼を閉じて肩を小刻みに震わせた。

「……好きなのは、おまえだよ、この薄ら馬鹿」



「あ、菊原課長から、だ」

上京の顔色が変わった。でも置かれたスマホが近いの、オレだし。

仕方なくスマホを取り上げ、騒ぐ上京の口を掌で塞いだ。

もう、賭けに出るしかない。


『菊原ですけど。かんちゃん? なかなか出なかったけど、寝てたのかしら?』

「すみません。生田です。お疲れ様です、菊原課長」

『……はあ? どうして、おいちゃんがかんちゃんのスマホに出るの? 今、一緒にいるの? それに呼吸が荒いけど。……何かしたの? うちのかんちゃんに』

博打だな。

相手は女性だ、もう勘ぐっている気はするけど。

「上京と取っ組み合いの喧嘩をしていました、すみません。でも、怪我はさせていませんから。あの、菊原課長?」

『ああ、そうね。あのね、かんちゃんに伝えて。出れないんでしょ? 今』

げっ。

勘づいたか。

しかも、上京がオレの掌を舌で舐めて抵抗していやがる!

「おまえ……。いえ、失礼しました。伝言、承ります」

『朝5時に出勤で構わないと伝えて。もう、打つ手が無いの。陸路は完全閉鎖されたわ』

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