第3話

抱っこしても軽い。ちゃんと食べているんだろうかと不安になる。

営業で出向いても、ランチは取らないし、アイスコーヒーばかり飲んでいたし。

普段はどうしていたんだろう。側にいたのに気配りしていなかった。

「んー」

あれ、起きるかな。

「帰るよ」

「悪いね、生田」

また、こてんとオレの腕の中で寝た。眠り姫とは的を得た表現だ、流石は課長。よく見ている。

自分の車に乗せたはいいが、この先どうしたものか。

鍵は預かっているけど部屋は知らないし困ったな。

まさかと思って社員用のスマホを見たら、上京から既にLINEで住所が添付されていた。

狡猾。

ぞっとする。

オレがその気だったらどうするんだと言いたい、隙を見せたら食われるぞ。

だけど、その勢いは無いから見抜かれているなと解って度外視感が半端じゃないんだけど。



部屋のベッドに寝かせる前にジャケットを脱がせて、皺にならないようハンガーに掛けてやる。

飲んだ後だから、お腹が痛くならないようにベルトも緩めておく。この作業をしていると、正直尋常な気持ちでいられない。圧し掛かっているし。この態勢で、もしも起きられたら聖域を犯しているみたいで、果敢な行動に踏み切りそう。


危険だ。早く立ち去らないと、制御不能になる。

せめて照明を消して容姿を見ないようにしなくては、このまどろむ姿態に目が眩む。脳が嬌声を上げる、精神が崩壊する。


不意に上京が寝ぼけているのか腕を伸ばしてきた。

どうしよう。

がしっと掴まれて、抱き寄せられたから動けないし。

並大抵な思考じゃなのに追い打ちとか息の根止めるとか無しだろう?

お酒飲んでいるせいか、ほのかに汗の匂いがしていつもの上京じゃない。

やばい、ほだされる。心臓が跳ねそうだ、頼むから目を覚ましてくれ。

「ん?」

あ、起きた。ドキドキした。

そして、上京から、ぱっと手を離された。

「抱き枕かと思った」

だろうね。良かった、安全だ、オレもおまえも。

「……体温の高い抱き枕だな」

イラつくな。

おまえが酔わなければ、こんな事にならなかったんだよ。

身を起こして頭を軽く振ると正気が戻った感覚がした。一息付けた、助かった。

「水でも飲むか? おまえを届ける途中でペリエ買ったんだけど。炭酸水飲めなかったら悪いと思って、エビアンもあるよ」

一応、アイスコーヒーも買ったけど氷が溶けていそうだしな。

「用意がいいな。その割に襲わないのが生田らしいけど」

は?

「詰めが甘いんだ。発注単位を見誤るくらいだから。少しは計算しろよ」

ああ、仕事の話か。

「気を付けるよ。もう、上京は同じ部署にいないんだし」

言いながら寂しくなった。口に出すんじゃなかった。

「生田、同じ会社だろ。芯がぶれたら自分を見失うぞ」

「解ってるよ」

酔っぱらいに諭されたくない。


「なあ、おまえさあ」

「ん?」

ベッドに身を沈めたまま、細い指をしならせて何かを探るように空を切る仕草の上京に見惚れた。

あ、ダメだ。これ以上見たらダメな姿態だ。


「無防備な相手を前にして挑まないのは沽券に関わるぞ。ひいては営業力を問われる、貪って骨までしゃぶりつかないと他社に横取りされるからな」

「ああ、肝に銘じるよ。おまえは寝てろ、酔っぱらい」

鍵を置いて帰ろうとしたら「持ってろ」と追い打ちをかけられた。

「必要無いだろ」

「俺に、必要だから持ってろって言うんだよ、馬鹿野郎」

カチンとくるな、本当に。

でも置いて帰れなかったからオレも正気じゃないんだろうな。



数日過ぎると上京が名乗る「商品部の上京です」には馴染んだが、営業部のデスクに居ないのは物寂しい。


『商品部の上京です。今、話しても大丈夫?』

「ああ、手が空いてるから。何?」

『何じゃないよ、馬鹿なのか? この納期じゃ工場は徹夜しても仕上げられないぞ。先方は何故、こんなに急いでいるんだ。理由を聞かせろ!』

いきなり怒鳴るな。

商品部にすっかり慣れたのはいいけど、吠えるのは変わらないな。

「ごめん、オレが悪い。ランドセル用の包装紙の提案が他社より遅れて、それでも任せて貰ったからさ。既存のカタログ見せて、似たような感じでって言われて」

オレの凡ミスで申し訳無いな。しかし枚数が揃ったから、引き受けてしまった。


上京が少し黙って『なら、既製品を使え。250枚か500枚単位のバラで買えばコストを抑えられるし、納品日に十分間に合うだろ』

「簡単に言うなよ。発注数は5000枚だぞ。問屋にあるか……」

『調べてやるし、あるなら抑える。10分待ってろ』


げ。

でも上京なら可能かもしれないな。

商社は購入者が陳列された商品を見て「まだ買うのは早い」と思うより、もっと早めに動く。実際に商品が売れだしたら包装紙や化粧箱が不足するケースが多いのはそれが理由だ。どこの商社でも卸問屋を抑えて商品を確保する。ランドセルも例外じゃない。6月から展示して、夏に売り込みをかける。祖父母が帰省した孫に買い与えるのを狙うからだ。その包装紙は需要が高い。だから販売開始2か月前なんて卸問屋には在庫が無いはず。売れたら補充では無く、売り切るのが卸だ。


しかし上京は営業部時代に母の日用の包装紙を2か月前に確保し、完売させた実績がある。ご縁の無かった卸問屋に駆け込み、今後の契約をちらつかせて他社の取り置き分をまとめて現金払いしたのだ。卸問屋はツケ払いより現金払いを優先する。


賭けるか。


「お、上京。営業部に何か用?」

課長の声で気付いたが、上京が息を切らして駆けて来た。

「生田。おまえ、待ってろって言ったのに。どこに電話してたんだよ? 通じないからわざわざ来たぞ、この馬鹿」

まず、課長に挨拶しろよ。

「通販用にためていた分と他社の取り置き分、これが未決済だから通した。5000枚確保したぞ、代わりに発送では無く自社で引き取りだ。それくらいならおまえでも出来るだろ」

一気に捲し立てやがる。

それでも、オレの勝ちだ。感謝しか無い。

「ありがとう。上京を信じて取引先に既製品で行く旨を連絡していたんだ。その代わり、販売価格も設定し直すし、納期は明日と言った」

博打だったけどな。上京じゃなければ、返事を待つところだった。

「……迅速な対応だ。信じてくれてありがとう」

「誰かさんならどうするか、オレは解るからね」

うーんと腕を伸ばして背伸びすると「じゃ、引き取りに行くよ。卸問屋はどこを抑えた?」

上京がタブレットを渡した。

「何なら、スマホに送るか? 運転しながらだと、使いづらいだろ」

ここまで話が通じると、オレも我儘を言いたくなる。いつもならタブレットを持つのは上京だったから。

「上京は時間無い?」

「俺はもう、営業部じゃ無いからな。商品部としての業務はこなした。後は任せた」


やっぱり寂しくなる。距離があるのは実感したくなかったな。


「おい。呆けていないでさっさと行けよ。卸問屋は16時で閉まるんだぞ」

うげえ。

今15時とか嘘だよな。問屋街まで車で20分はかかるんだぞ?

無茶振りされたのか助けられたのか解らない、急がないと!

「ありがとう、上京! 課長、すみません、出ます!」

「行ってらっしゃい。ついでに、上京も連れて行けば?」

は?

「伊藤課長、自分は商品部で」

上京の言う事はもっともだ。

「話を通した担当者が不在なら向こうは『知りません。聞いていません』の一点張りをするのが強面卸問屋だぞ。向こうは信用と実績で判断する」

手強い相手だったのか、卸問屋と直に交渉した経験が無いから知らなかった。


「現金を経理部から拝借しろ。準備万端にして隙を突かれないように装備を固めるのが鉄則だ」

え、そうなのか。

話がこじれるのはまずいな。

迷っていたら上京が「電話貸して」とオレのスマホを奪った。

「上京です。菊原課長、すみません。外出許可をください」



包装紙を引き取る際も上京が名刺を渡して名乗ったし、現金払いなので難航しなかった。

「助かった、ありがとう」

「業務だからな」

社用車に積んで、運転しようとしたら「たまには俺がやるよ」と腕を引かれた。

「気分転換? いつも内勤だから鬱憤がたまるだろ」

「そうでもないよ。誰かさんが無茶振りするからある意味、発散してるし」

出来た奴だな、本当に。ストレスとか無いのかな。

「離れたらどうかなと考えては見たんだけど、毎日のように声が聞けるから思わぬ収穫だ」

そんなに頼ったかな?

「常に納期を考えないし、原価割れする馬鹿相手だと頭が痛いどころじゃない」

ああ、そう。

「俺と同行していて、少しは学んでいないのか?」

「同行していたから信じたんだよ。答えにならないのか」

「……何か、奢れよ」

「アイスコーヒーか? そればかりで、よく腹が持つな」

車を走らせながら、ちゃんと食べるなら晩御飯を奢る気でいたけど、コンビニで停車された。

「適当に」とだけ言って任せるので、アイスコーヒーでは無くグリーンスムージーを渡した。

「げ」

おまえでもそんな驚いた顔をするのか。

「飲んだ事無いんだけど。ありがとう」

そう言いながらストローをさして飲み始めた。スムージー用のストローが太めなので、吸う様にびくついた。失敗した。これは悪手だ。いらぬ妄想をしてしまう、かき消さないとこの車内という密室では隠せない。漂うフェロモンを嗅ぎ分けられる、不安しか無い。

「そういえばさ、ストローをプラスチックより紙製品にしたいって要望出した企業があるんだって? 菊原課長がそう……おまえ、何見てんの?」

「いや。美味しいかなと思って」

やばいです。密室だし至近距離だし、話すの久しぶりだし。

夜景とか街灯とか、あらゆる何かが高ぶらせるんだけど。意識しすぎて逃げ場が無い。

「予想していたより甘いけど美味しいよ。俺、甘いもの苦手なんだけどさ、これなら飲める」

「あ、良かった」

「ふーん。グリーンだから、てっきりレタスとかアスパラガスあたりかと思ったら、マンゴーにオレンジ、レモンも入っているんだ」

容器を眺めている仕草も夜に映える。疲れているな、オレは。早く寝よう、そうしよう。

「酸っぱくないの?」

「生田は飲んだ事が無いのかよ。そういうものを飲ませたのか」

あ、しくじったかな。

「ま、いいけどね」と胸倉を掴まれてキスされ、舌が絡んできた。酸味が残る。それを唾液と一緒にかき混ぜてくるから、甘い味と酸味、苦みが混然一体となるし、呼吸が苦しい。離れようと手を伸ばしたら上京の胸元に触れてしまった。それを契機に圧し掛かられ、唾液が頬を伝うし、胸元に触れた腕をぐいと押さえつけられて辛抱の時間が長すぎる。


「美味しいだろ。おまえが選んだものだからな」

吐息交じりに囁かれて返答に困る。

「惚れたか」

そう聞かれて「まだよく解らないんだけど」と正直に答えた。でも抗えない欲情だけは感じているし、困ったな。これが「好き」なら「欲しいだけ」の気がするんだ。

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