9時55分家族

palospecial

第1話 9時55分家族

「お父さんどこ行くと?」

 発車5分前。席を立とうとした私の小指と薬指を、息子の小さい手が掴んだ。思わず、妻の顔を見る。感情のない、うつろな目で私の動向を見守っている。

「……どこも行かんばい。ちょっと、座り心地が悪かったとたい」

 振り払うべきだった。私と目の前の女との関係を考えれば、それが筋だし、約束でもあった。それでも、離れ難いどうしようもなさが胸に詰まって、席に着いた。

 昨日、私たちは離婚を決めた。

 今日、妻は一人息子を連れて八代の義実家に帰る。電車が好きな息子のために、新幹線を使わず快速を乗り継いで行く。荷物は先に実家に送っていたため、最小限の手荷物しか持っていない。

「あなた」

「分かっとる。ばってん、あと3分ある」

 視線を息子に移すと、呆れたようなため息が耳を打った。ザラついた不快感を感じながら、息子の手を握ると妻によく似た双眸が上目遣いでこの父を見上げてきた。

「……お父さん、急に仕事ができたけん今日一緒に行けんくなった。悪かばってん、先に行って待っとってな」

「え、仮面ライダーがある日はお休みやないと?」

「いつもはそうやけど、急な仕事たい」

「ふぅん」

 明日、離婚届を役所に出しに行かなければならない。昨日のうちに自分の判を押し、妻から封筒に入った書類を渡された。

「あなた」

「分かっとる。もう、行く」

「違うわ。なんでこうなったか、分かる?」

「なんでって……」

 性格の不一致。離婚理由の行き着くところはそこだった。

「私は決めてほしかったの。あなたがどう生きるか。私たちとどう生きたいか。その話をしようとするたびに、今みたいに仕事に逃げていたわね」

「……ああ」

「だから、最後くらいはっきり決めて」

「? どういう事だ?」

「……時間よ」

 発車のベルが鳴った。息子の頭を撫で、私は電車から降りた。ホームの立ち食いラーメンの匂いを嗅ぐと、走り去る電車の気配を忘れられるような気がした。

 快速列車が出ると、ホームにいる人はまばらになり、荒涼としてさえ見えた。

 愛していた。

 不意に実感として、妻子への想いがこみあげてくる。ただ、それを伝えた事はなかった。

仕事に打ち込み家庭に金を入れることが、自分なりの愛情表現であると思い込んで、伝えるよりも理解されようとしてきた。

愛している。

 失って、自分の本当の気持ちに気づいた。愛している。心の底から、妻と子を愛している。

 涙が出てきた。涙、こんなにも熱い。なぜこれを言葉にできなかったのか。

 現実を受け入れようと、懐から離婚届の入った封筒を取り出す。

「…あれ?」

 封がされていなかった。几帳面な妻らしくない。突き動かされるように封筒から書類を取り出す。

 手が、震えた。

 男は走った。手に持っていた書類を捨て、新幹線乗り場に。九州新幹線なら、妻子の乗る快速を追い越して先に八代に着ける。

 ホームに打ち捨てられた離婚届には、男の妻の印鑑が押されていなかった。


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