ガーネット
泉宮糾一
ガーネット(柘榴石)
とはいえ、そのつるりとしたのっぺらぼうを玄関先で見たときは流石に堪えきれず、こちらとしても恥じ入りたくなるくらいの頓狂な声を出してしまった。
「なんというか、卵みたいですね」
丸みを帯びた肌色が、蛍光灯を反射する。楕円形の内側には一切の窪みがない。目も鼻も口も全てなくなっていたが、短めに刈り込んだ髪と、外側へ向けられた耳だけは無事に残っていた。それらさえもなかったら、もはや完全に卵であり、柘植さんと認識することさえ難しかったかもしれない。
「呼吸とか、食事とかどうなっているんですか?」
「普通にできるよ。なんかこれ、見えなくなっているだけらしいから」
柘植さんは顎を擦り、そのまま指を這わせた。頬から始まり、中央で止まる。私からはわからないが、おそらく唇あたりを撫でているらしい。
「ほら、ここにある」
私にはわからない。
「ええと、それじゃ料理は普通に食べられるんですね。良かった。ベッドは柘植さんが使って良いですから、ゆっくり静養してください」
「セイヨウ?」
「はあ、あの、明日からお休みかなと」
「勘違いしないでくれ。仕事に行くよ。身体はなんでもないんだから」
柘植さんは胸を張ってリビングへと入っていった。表情が見えないのでわかりにくいが、どうやら怒らせてしまったらしい。
私は柘植さんとともに暮らしている。それなのに知らないことはたくさんある。柘植さんは案外プライドが高いのだと、今このときになって身に染みた。
「労災認定とか、されるんですよね?」
何かを言いたくなって、相応しい言葉を探した。柘植さんは首をだるそうに回したが、ただ単に疲れただけのようだった。
「聞いておくよ、ありがとう」
言葉の途中でテレビが点けられた。雛壇に並ぶ人たちがリアクションを取っている。大口開けて、目を見開いて、煌びやかな光が散りばめられる。光は柘植さんの顔に照らされる。私からは見えない瞳は、きっと微動だにしていないのだろう。
作り置きしておいた料理を取りに行く途中、私は自分の指輪を撫でた。深い赤のガーネットは、昔柘植さんから渡されたものだ。
あのときの柘植さんの顔が、私はうまく思い出せない。
どうして結婚したのだろう。
昔のことを振り返る度に、同じような疑問が浮かぶ。
別に不本意だったというわけじゃない。決定的ではなかったはずなのに、私は柘植さんを選んで、そこに落ちついた。
大学時代の知り合いが、柘植さんと同じサークルに所属していた。といっても、当時は柘植さんと面識がなかった。社会人になって、知り合いの主催した合コンに柘植さんが出席していた。勢いのある人たちの中で、私達二人が隅に寄る形になって、二言三言交わし合った。合コンの後にも会う約束をした。私は三〇代が間近に迫り、柘植さんはすでに迎えていた。社内や世間で無言のうちに浴びせられる焦燥を愚痴り合うと安心できた。鈍い苦しみを二人して味わっているのだとわかると嬉しかった。
柘植さんは大人しいが、悪い人には見えなかったし、同じ場所で暮らすようになってからも印象は変わらなかった。ギャンブルもしないし風俗通いの気配もない。玩具メーカーの営業として、日々忙しなく歩き回り、帰宅するとテレビを見るか、配信されている映画を見て、眠る。休みの日は仕事がないだけで、あとは変わらない。友達付き合いもほとんどない。面と向かっては言えないが、何にしても「薄い」感じがする。だけど決して、悪い人ではないのだ。でなければ一緒には暮らさない。
プロポーズは柘植さんからだった。ケースに入れられたガーネットは、大人びた赤い色が眩しくて、柘植さんには似合わなかった。それをそのまま伝えると、私に合っていればいいと言われた。測られた記憶はないけれど、サイズはぴったりだった。お互いの要望で家族だけの小さな式を開き、その終わりに私は自分の両親の姿を見た。母も父も健在で、顔をくしゃくしゃにして、笑いながら泣いていた。私も鼻の奥がツンとした。
プロポーズされてからも、式が始まりそして終わってからも、職場にほど近いアパートでの同居生活が始まってからも、現実感が湧かなかった。私自身の人生の段階が変遷していることになかなか気づけないでいた。
結婚した事実を認識しようとする度に、両親の顔が思い浮かんだ。嬉しげな涙は私の無胸中を落ちつかせた。私は確かに、二人のその姿を望んでいたように思う。
帰省する度に焦りを見せていたのは、私よりは両親の方だった。何の努力も払わないでいる私に、焦りの視線を直接ぶつけるわけにもいかず、常に私口元あたりを見つめて話していたことも、よく覚えている。
私は本当に結婚したかったのだろうか。両親を喜ばせたかっただけじゃないのだろうか。
相手が柘植さんである必要は、考える限りどこにもない。
指輪のガーネットはなかなか外せないでいる。私には、やっぱり似合っていない。でも、外したらそれを認めたことになってしまう。
私は本当に柘植さんのことを愛しているのだろうか。
悩みはなかなか尽きてくれなかった。
「絶滅危惧種だね」
そう呟いた
「ゼツメツ……」
人に対して言うには物騒な言葉だ。
「愛だのなんだの、普通そんなに悩まないでしょ。悩んでいる暇もないっていうか。誰だって妥協しているんだっての、っと」
樹里は
桐矢くんは口数が少ない。喋れないわけではないけれど、性格なのか、大人しい。樹里は昔から賑やかな性格だった。だからきっと、桐矢くんは父親似なのだろう。でも耳や目をじっと見つめていると、樹里の面影が感じられた。
樹里は私の幼馴染みだ。小学校、中学校と同じ学校に在籍し、高校からは離れたけれど、連絡だけは取り合っていた。大学生になっても、社会人になっても、幸いにもそのラインは途切れずにいた。数少ない、友達と呼べる人だ。今年から職場が異動になり、通勤途中に私の居住地があるとわかると、時折桐矢くんを迎えに行って欲しいと頼んでくるようになった。保育所にいる桐矢くんを、定時上がりの私が預かり、アパートに招いて、残業を終えて帰宅途中の樹里に引き渡す、という段取りだ。保育所に説明するのが手間だったけれど、理解は得られている。
「よ、ほ、はっ! あれえ」
服の裾を上へ下へ、樹里は同じ動きを繰り返していた。
「逆だよ、それ。裏表」
洗濯用のタグが脇の下から飛び出ていた。「あっ」と樹里は息をのみ、慌てがちに服を持ち上げてひっくり返し、桐矢くんの腕が降りる前にすとんと落とした。今度はどこにも引っかからなかった。眠たげな目をした桐矢くんが、妙に嬉しげな笑みを見せていた。
「ごめん、
「いいよ別に」
忙しいのだから、と言いそうになって、堪える。樹里だって好きで忙しくしているわけじゃない。育児休業の期間が終わり、復帰した職場に慣れようと努力しているだけだ。余計な刺激は与えない方が良い。樹里を嫌いになりたくなかった。いや、嫌われたくない、という方が正しいか。
「佳純、大丈夫?」
「え、あ、ごめん」
樹里の視線を感じ、慌てて首を振った。
「違う違う、旦那のこと考えてて」
「ああ、顔の」
顔がなくなった柘植さんは、今日も仕事に行っている。労災認定は降りなかった。顔を失ったこと以外何の外傷もないうえに、仕事上も支障がない。だから、柘植さんはやめるわけにいかなかった。
「じゃあ、お大事に」
私に向けて樹里は手を振った。桐矢くんも小さく振ってくれていた。無口だけど、笑顔は可愛い。私も小さく手を振って送り返した。
樹里はどうして結婚したんだろう。
静まりかえった玄関先で、飲み込んだ質問をしばらく口の中で転がし続けていた。
朝になると、柘植さんは早々に洗顔し、スーツを着て、その姿で朝食に臨む。ゆっくりするために、先に忙しなくしておく。
顔がなくなってからは、オレンジやピンクの、見慣れないネクタイをすることが増えた。顔がない分印象づけてもらうためだと聞いている。名刺の束もいつでもポケットに忍ばせていた。
「大変じゃないの?」
私が訊くと、柘植さんは肩を竦める。オーバーなリアクションも、顔がなくなってから増えたものだ。
「僕の仕事は会社の商品を薦めることだからね。僕のことなんかどうでもいいんだ。商品の名前と連絡先さえ伝えられればそれでいい。それに、こんな顔をしていると結構楽なんだよ。初めての人は絶対『なんですかそれ』って訊いてくるからね」
気楽そうに、柘植さんは笑う。椅子の背もたれに肩を広げ、テレビに顔を向けている。相変わらず、画面はその肌色の表面に映りこんでいる。
本当にそれでいいのだろうか。
柘植さんの背中は小さくなったように感じられる。
笑っている声はする。
顔さえあればすぐわかるのに。
どうにもならないことを、言うわけにはいかない。
「今夜、何か食べたいものある?」
代案の質問に、柘植さんは顎に手を当ててしばらく考えた。
「ううん、なんでもいいよ。佳純さんの好きなので」
柘植さんはまたテレビに戻る。
私は唇を噛みしめた。軋んだ肉の音がした。
それじゃ何もわからない。柘植さんのことは何も。
柘植さんは本当はどう思っているのだろう。
柘植さんは、どうして。
時計の音が鳴った。
「いってきます」
柘植さんは流れるように立ち上がり、私に手を振って玄関から出て行った。毎朝の習慣の、滑らかな動作。引き留めている暇はなかった。
遠ざかる柘植さんの背中を目で追う。私の方も、パートの時間が迫っている。ごちゃごちゃと考えてはいられない。
悩みは今は、奥にしまいこむ。
柘植さんの帰りは遅い。顔がなくなる前も、なくなってからも、それは変わっていない。
ジャケットを脱いで、くつろいで、やがて背伸びして寝室へと入る。いつもは私も同伴するけれど、その日は洗い物をして、少し遅くなった。
寝室は暗くなっていた。私はまだなのに、と訴えかけようとして、耳に聞こえた声が言葉を詰まらせた。
震えを帯びた吐息だった。
「柘植さん?」
私が言うと、音はぱったりと止んだ。それは逆に、柘植さんの声であることの証しだった。
「柘植さん」
私は柘植さんのことを苗字で呼ぶ。
深い意味があるわけじゃない。出会ったときから「柘植さん」と呼んでいた。デートやプロポーズを終えても、変える気になれなかった。
どうしてだろう。
私は自分のベッドには入らず、柘植さんのベッドに腰掛けた。
布団の下の膨らみがS字に曲がっていた。柘植さんは胎児のように身体を丸めて眠る。私の手がその腰に触れると、少しだけSの字が縦に延びた。
毛布の繊維にそって腕を滑らせて、その頸元にまで触れた。温かかった。当たり前だけれど、柘植さんは確かに生きていた。
薄暗い中、私の手は湿り気を帯びた。涙の痕だった。見なくても、見えなくとも、それくらいはわかった。
頬をなぞるうちに、私は息をのんだ。
「口……」
あった。
凹凸を感じる。一際温かい、柔らかな一帯が、微かに震えた。
「最初にも言ったけど、見えなくなっているだけなんだよ」
柘植さんは教えてくれた。
それもそのはずだ。でなければ、息もできないし、前も見えない。薫りも感じない。
柘植さんは変わっていなかった。周りの見方が、より残酷になっただけだった。
「柘植さん」
私は身を横たわらせた。
布団越しに柘植さんの身体の膨らみに触れた。離さずに置いた手を今度はまた頬にずらし、私の方を向いてもらった。
「はい」
柘植さんの声が耳に優しく響いた。
誰にも見えなくなってしまったこの人の顔が、泣いていることを、それでいて頬が綻んでいることを、今は私しかしらない。
嬉しかった。
いつからだろう。私は何時の頃からか、柘植さんのことが頭から離れなくなっていた。
どうして結婚したのかはわからない。だけれども、どうして結婚しているのかは、言える。
「下の名前を教えてください」
「……今まで知らなかったの?」
「最初に聞きそびれたので、それきり」
「そんなはずは、そんなの、いくらでも」
調べられたはず、と言おうとするのを私が塞いだ。
私の指に嵌められた指輪が窮屈そうに頬に刺さる。
深く赤いガーネットが、その様相に相応しく、今は熱く滾っていた。
ガーネット 泉宮糾一 @yunomiss
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