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刺すものスティンガー”というのが、ギャング時代の俺の通称だった。蜂が外敵を刺すように容赦なく相手を撃ち殺すことから、そう呼ばれていた。

 しかしネイルズ・ファミリーに引き抜かれて以降、もっぱら〝しみったれスティンジー〟と呼ばれることの方が多くなっている。古巣のギャング・グループ〈赤いどくろレッドスカル〉のエンブレムである、赤いどくろのピアスをいつまでも付けているからだ。だが外そうとは思わない。こいつは俺が始めてをこなしたときに渡された勲章で、裏社会に受け入れられたという証明だった。

 また、仮にピアスを捨てたとしても俺が舐められている現状に変化はあるまい。若者中心のギャング内では一目置かれてその気になっていた毒針スティングも、この都市最高のマフィアの中ではかわいい下っ端テイルに過ぎなかったのだ。

 一人だけ、ネイルズ・ファミリーにあって俺のことをスティンガーと呼んでくれる男がいた。

 バリー・ワンダー。二十歳そこそこの俺より二回りは歳の離れた、マフィアらしくない朗らかな男。毟られる側から、毟る側へと俺を引き上げてくれた恩人だ。

 バリーは多くのことを教えてくれた。ファミリーの歴史。ボスであるロック・ネイルズの凄さ、恐ろしさ。その息子ニコラスの油断ならなさ。銃の正しい手入れ方法。上質な麻薬の見分け方。つれない女のコマし方。

 中でもためになったのは、教訓めいた言葉だった。

「肝心なのはな、スティンガー。己の非力さを知ることだ。自分を強いだの利口だのと思い込んでる馬鹿が足元を掬われるのを、これまで嫌ってほど見てきた。俺は自分が優秀でないことを知ってる。だから、できることに手を抜かない」

 バリーは酒が入ると、最後にはいつもその話をした。しかし不快ではなかった。これまで、俺を想ってそんなことを言ってくれる人間は、 一人としていなかったからだ。

 そして、家族の話。

 バリーは捨て子だった。親の顔も、名前も知らない。気づけば施設にいたという。女の孤児は職員にいたずらされ、男の孤児は盗みを強要される、最悪の児童養護施設。仲間を先導し、建物に火をつけて集団脱走したのは、下の毛が生え揃う前だったそうだ。

 対して、俺の父親はイカれたクズだった。そして母親は、愛してはくれなかった。最後の記憶は、熱湯を顔に浴びせかけられ絶叫する俺を、腹を揺すって哄笑する飲んだくれの父親。そして、ただおろおろするばかりの母親。十二歳の誕生日、俺は家を出た。

 思い返すたび、左頬に残った醜い火傷痕が疼く。しかしバリーに身の上を打ち明けるときだけは、不思議と平気だった。

 彼と俺と、どちらが幸福だろうか。あるいは不幸だっただろうか。けして答えの出ない、くだらない感傷を二人で笑いながら語り合う。そうやって過去を過去のものとして受け入れられる現在の自分が、とても誇らしく思えた。俺の居場所はここなんだと、心から確信できた。

 今日もまた、仕事をこなす。相手が誰だろうが躊躇はしない。はただ、上の指示本能に従うだけだ。居場所を失わないために。

 標的の男はよく逃げた。それはもう、感心するくらいに。ここ数ヶ月、恐怖心を打ち消すため乱用した麻薬で、心身共にボロボロのはずだった。しかし、それでも這いずり、駆けまわり、潜った。ニコラス・ネイルズの手の上だと悟りながらも、懸命に。

 彼はいままでと同じように、生きるため、できることに手を抜かなかった。



 ファミリーのボスが代替りしてしばらく経った頃、ニコラスに呼び出しを受けた。

 隠れ家のひとつ、その一室。コンクリートに覆われた、情緒皆無の空間。だからこそ盗聴される危険性は低く、何かあったときは躊躇なく捨てることができる。

 いくつかの家電と、簡素なベッド。酒瓶やつまみの並んだガラステーブル。シックなソファ。他に何もない淋しい部屋で一人、彼は護衛も付けずに待っていた。

 その新しいボスは、俺の憧れだった。

 ダークブルーの瞳と、ブロンドに染めた髪。冷徹な知性と計り知れない野性を併せ持つ、裏社会新世代のリーダー。

 バリーから散々聞かされていた、この都市におけるロック・ネイルズの逸話と伝説。ニコラスはその強大な遺産を引き継ぐだけの器を持った、キレ者のガンファイターなのだ。

 彼は俺みたいな若輩者の下っ端に、ひどく友好的だった。形式的な挨拶を済ますと、すぐ隣に座らせられ、肩を抱き寄せられた。通常ならば足元を見ることさえ敵わない相手だ。正直、緊張を隠せない。手渡された酒瓶へ直に口をつけながら、呼びつけられた理由に考えを巡らす。

「そう鯱張しゃちほこばることはねえさ。ちぃと、お前に頼みがあってな。なあに、“刺すものスティンガー”からすりゃあ簡単な仕事だ」

 ニコラスが自分の通称を知っている。その事実は嬉しく、こそばゆかった。

「過分な呼び名、お恥ずかしい限りです、ボス」

 謙遜でも何でもない、混じりっ気なしの本音だ。ファミリーに入った当初、俺は射撃の腕なら誰にも負けない自信があった。しかし、あるときニコラスが銃を抜いたところを遠巻きに見て、それがただの自惚れだと悟った。

 相手は新興ギャングのチンピラで、みかじめ料をつっぱね、あろうことかファミリーに弓を引いてきた大馬鹿者共。“釘打ち屋ネイルズ”の恐ろしさを想像もせず、自ら棺桶に飛び込んできた救いようのなさは都市指折りだが、そのぶん腕も確かな武闘派だった。

 しかしニコラスは、連中を実質一人で片付けた。

 奴らの本拠地ホームを人数で囲って逃げ道を塞ぐと、単独で乗り込み、姿を見せた者から撃っていった。動きは滑らかでブレがなく、構えたときには弾丸が発射されている。何より正確。物陰から覗いた拳銃を掌ごと撃ち抜き、血と肉、悲鳴の雨を降らせた。

 信じられない早撃ちクイック・ドロウと、針の穴を通す精密射撃シャープ・シュート。そして驚くべきことに、連中は一人として致命傷を負っていなかった。無論、相手を思い遣ってのことではない。

 女もいた。子供ガキもいた。全員、生きてはいるが無事ではない。ニコラスは悶える連中を残らず拘束し、マフィアの流儀をその体に叩き込み、見せしめにした。

 ぬるいギャング共とは違う、修羅場をくぐってきた本物のタフガイ。

 いま、そんな男が、にたりと笑いながら俺の耳元で囁く。

「お前に一人、消してほしい奴がいる。たっぷりと時間をかけてな」

 ニコラスは一枚の写真を俺の太腿の上に置いた。写っているのは、誰よりも見知った顔。ぎくりと身を固くする。腿を撫でてくるニコラスの手にも、その緊張は伝わったのだろう。彼は笑みを深めた。

 憧れと畏怖を抱く男からの命令に、背くことなどできるはずがない。たとえ標的が、恩人のバリー・ワンダーであろうとも。



 ニコラスの目的は旧世代――というより、ロック・ネイルズ派の一掃だった。

 マルドゥックシティ創成の影の立役者である先代は、あるとき突如として狂った。麻薬を打って子供の腹を裂き、手足を吹き飛ばし、そうしてファックすることに快楽を覚えたのだ。

 何が原因なのかは、俺にはわからない。積み上げてきた悪徳がそうさせたのか。けだものの素養がもともと備わっていたのか。あるいは、これが老いというものなのか。とにかくロックのイカれた趣味は、多くの者の忠誠心を揺さぶり、代替りの大きな契機となった。

 当然、抗う者たちもいた。特にロックの弟であるチャップを始めとした古い幹部たちは、新しい波に逆らった。だからこそ彼らはもう、糞の海に沈み、物言わぬむくろと化している。

 退いた梟雄に代わるのは、圧倒的な力とカリスマを持つ若きリーダー。歯向かう者には容赦せず、そのぶんファミリーの結束は高まった。事実として、ニコラスがボスに就任して以来、その勢力はますます増大している。誰もが彼をボスだと認めざるをえない状況下で、バリーだけは例外だった。

 表立った反抗はしないまでも、内外でニコラスへの不満を仄めかす。ガキの遊びの延長。男の世界をわかっちゃいない。浅薄。未熟。

 ささやかながら、組織の団結を揺さぶる不遜な行為。愚かとしか言いようがない。こんなの、ニコラスの耳に入るのは時間の問題だっただろうに。

 理由ははっきりしている。バリーはロック・ネイルズを英雄視しすぎていた。心を傾けすぎていたのだ。しかし無理もない。バリーにとっては、ロックこそが自分を引き上げてくれた恩人で、憧れだった。

 最後のロック信奉者。その引導役として、俺は選ばれた。

 時間をかけるようには言われたが、特別なことをやるわけじゃない。俺にできるのは銃を弾くことだけだ。当然、ニコラスもそれはわかっている。だから実際は、前もって出された指示に従って動くだけだった。あくまで弟分の主導のもとで粛清が始まったと、些細な反逆者に伝わればよかったのだ。

 ニコラスはあえてバリーを見逃し、泳がせ、そして心を削った。一度やれば引き返せなくなる類の、強烈な商品ヤクを抱えさせて。

 それから二月ふたつきあまり。月と風のない夜。グレイ・アヴェニュー。

 これまでバリーは刺客として現れた俺を目にしても、一言も発さなかった。つまりはそういうことなんだろう。

 ロックの失脚後、俺にだけはニコラスへの不満をこぼさずにいたのと同じ理由。巻き込まないために。初めから、消されることは覚悟の上だったのだ。

 中途半端な殉教精神の影に隠れた、一欠片の優しさ。だからこそニコラスは俺を射手に選んだ。自分に歯向かう者をいっそう苦しめるために。

 なあ、バリー。もしアンタがこそこそ和を乱す程度でなく、本気で反逆してたなら。そのとき俺に声をかけていたのなら。俺はどうしてたかな。俺がニコラスを憧れてるのは知ってただろう。憧れと恩人、どちらに天秤は傾いたかな。

 そんな選択肢を与えてくれなかったのも、彼の優しさだと信じたかった。

 久しぶりに間近で見るバリーは、見る影もなくなっていた。栗色の髪は赤茶色に濁って変色し、目はくぼみ、シャツも肌もボロボロだった。染みついた汗と脂、糞尿の臭いは、まるで獣のよう。

 さらに、その日のバリーはこれまでと違っていた。俺の姿を見ると、よたよたと歩み寄ってきたのだ。思わず息を呑む。彼は媚びへつらうような、虚ろな笑みを浮かべて言った。

「なあ……アンタ、クスリ持ってねえか」

 かろうじて嗚咽を堪えた。

 バリーはもう、麻薬なしでは生きられない体になっている。そんなことは知っていた。わかりきっていた。数週間前から手ぶらになっていた彼が、とっくに限界を越えていることも。なぜなら、上に言われるがまま、俺がそうなるように追い込んだのだから。

 ただただ、俺を忘れていることがショックだった。もう、あのバリーはいないのだと現実を突きつけられた。

 バリーが縋り寄るより早く、懐から銃を抜く。きょとんとした目。こいつが何かすら、判然としないのか。

 夜空に向かって腕を伸ばし、引き金を引いた。これだけで、発砲音に慣れた付近の住人は、巻き込まれないために姿を消すだろう。

 どうやらバリーはこの音が何を意味するかくらいは理解できたようだ。びくりと身を震わせ、背を向けて逃げ出した。死という根源的恐怖は、肉体そのものに刻まれているらしい。

 銃を手にしたまま、ポケットから携帯電話を取り出す。発信。数回のコールで相手が出た。

 ニコラスは陽気に俺の調子を聞いてくる。問題ないことを告げ、本題を切り出す。

「ボス。バリー・ワンダーはもう限界です。粛清の許可をください」

 懇願に、とぼけた声が返ってくる。

「……バリー? ああ、そうか。そうだな。お前に任せてたっけな、スティンガー」

 思わず悪態をつきそうになる。

 ファミリー内でニコラスに歯向かう者は、すでに皆無となっていた。彼のリーダーシップが優れている点や、カトル・カールという凶悪な傭兵集団を抱えている点が大きな要因だろう。あるいはバリーへの制裁が、いくらか効果的に働いているのかもしれない。

 だからこそニコラスは、組織内最後の的となったバリーを嬉々として苦しめ続けた。その渦中で忘れているはずがないのだ。

「……ボス」

 電話越しに、カラカラとした笑い声が響く。

「冗談だ。いいぜ、やっちまえ。死体の後始末は気にしなくていい。好きにしな」

「ありがとうございます」

 本心でそう答えた。



 思っていたより、バリーの逃げ足は速かった。不毛な追いかけっこ。干からびる寸前のような体で、路地を縫うように駆けていく。

 頼むから、もう逃げないでくれ。そう叫びたかったが、できるはずもなかった。どこで密偵が覗いているのかもわからない。これは俺の忠誠心を測るテストでもあるのだ。彼の教えの通り、生き残るため、できることに手を抜くわけにはいかなかった。

 街灯に照らされた人気のないストリートに出る。目を数回瞬いて、バリーの姿を探した。彼はぽつんと突っ立ったままでいる少女に向かって、まっすぐ走っていくところだった。

 頭によぎる、ロック・ネイルズの老狂。心身共に壊れた現在のバリーが、娑婆の子供に何をする気かなど考えたくもない。

 気づけば腕が伸びていた。そこそこ距離はあったが、迷いなく発砲。ヒット。背中に銃弾を受けたバリーが倒れる。

 少女を慮ったのではない。どのみち目撃者は消す。でなければ、俺が消される。あの子はもう助からない。巻き込んでしまった負い目はあるが、自分の命より優先する程ではなかった。

 ただ、とにかくバリーを楽にしてやりたいという一心だった。これ以上の醜態を晒させたくなかったのだ。

 地に伏して虫のように悶える男と、呆然と突っ立ったままの少女。二人共を殺すため、静かに歩を進めた。この日一番の衝撃が待ち受けていることなど、知る由もなく。



?」

 拘束し、手下を使って散々痛めつけた俺に向かって、ニコラスは怒りの滲んだ声で尋ねた。

 いつかも呼び出された隠れ家。コンクリートに覆われた無機質な空間。ただし今度の部屋は地下室で、さまざまな拷問器具が取り揃えられている。隅で控えたサディスティックな部下達が更なる多彩な道具の使用許可を心待ちにしているのが、ぼやけた視界に映った。

 血の混じった唾を床に吐く。恐怖と痛み、そして腫れによって硬直した口をどうにか開いた。

「……俺に。与えられていた……任務は、バリー・ワンダーの始末だけ、です。ボス」

 言外に忠誠心を主張する。立派に果たしました、恩人の頭を後ろから弾きました、と。

 ニコラスはぴしゃりと額を叩き、天を仰いだ。

「おいおい、冗談はよせスティンガー。お前はその甘さがどういう事態を引き起こすことになるか、わからねえほどボンクラか?」

 人気がなかったとはいえ、大通りでの銃撃だ。おそらく目撃者はバリーの娘以外にもいただろう。しかしスラム周辺に住む連中は、よほど自分に関わりの近いトラブルでない限り、口を閉ざしがちだ。通報したところで何の益もなく、むしろ災いの降りかかる確率の方が高いことを彼らは知っている。

 だが小綺麗な格好をした、一目でその辺の人間じゃないとわかるような相手は別だ。育ちのいい、お上品な奴らは、を進んで行う。ならば娘は俺の外見や状況を、事細かに警察関係者へ伝えているだろう。

 無言でいる俺に向かって、ニコラスはため息を吐いた。

「一度は銃を向けたんだろ? そのまま撃っちまえばよかったんだ。だったら俺は、こんなかわいそうな真似をせずに済んだってのに」

 やはり密偵に見られていたのか。いや、だったらそいつに娘を殺させればいいだけの話だ。娘は現在、厄介な連中に保護されてしまったが、もしあの現場に部下がいたのなら、そうなる前に片を付ける機会はいくらでもあったはずだ。おそらく駆けつけた警官辺りに金を握らせ、情報を聞き出したのだろう。

 怒りの反面、ニコラスは心底、残念がっているようでもあった。それだけ俺を買ってくれていたのかもしれない。仕事の腕か。忠誠心か。あるいは同性愛者の目から見た、別の何かか。いずれにしろ、光栄な話だ。これから続く苦痛多き死を前にして、最高の餞をもらった気分だった。

 だからこそ、言っておきたいことがあった。確かめたいことがあった。

「倒れた……バリーに近づいていく、途中……。立ち竦んでるガキが、だと気づきました」

「そう?」

「バリーの……娘だと。娘でなければ、確かに俺は撃ち殺していたでしょう」


 ニコラスに任務を言い渡された後、すぐ行ったバリーの綿密な身辺調査。教訓通り、できることに手を抜かなかったが故に発覚した事実。十年程前までバリーと関係を持っていた女性が、娘を出産していた。

 認知――なし。

 婚姻――無論なし。

 妻子との交流――調べた限り一切なし。

 お堅いハイスクールの教師とマフィアの構成員。障害多き恋愛。尻切れに終わる。かつての愛の証しは、一粒種の娘だけ。

 逡巡したものの、この調査結果を報告しないわけにはいかなかった。たとえ、よりバリーを苦しめることになろうとも。

 しかし意に反して、そのときだけはニコラスもつまらなそうに、

「ふん。だったら放っておいてかまわねえだろう。アイツが娘の存在を知っているのかさえ疑わしい」

 そう答えたものだった。実の父親ロックを排除しておきながら、その実、血のつながりというものに何か特別な思い入れがあるのかもしれない。憧れが、ただの外道とは違うことを知った一幕。


 だからこそ、いま理解してもらいたいという想いが湧き立つ。

「バリーを撃った直後、ただ目撃者だから……と、いう理由で。その娘を撃つことが……撃つことに、抵抗がありました……。ボスも以前、放っておけと」

 怒声が響く。

「そんときゃあガキが蚊帳の外だったからだ! 現場に居合わせた時点で抹消対象に決まってるだろうが」

 ぐうの音も出ない正論。否定のしようがない。あの場で見せる情けはマフィアの――ニコラスの流儀に反する。

「要は俺への忠誠ロイヤリティより道徳モラリティを優先したってことだな? お前が捕まれば、俺はまた留置所にぶち込まれるかもしれねえ。それがわかってて見逃したってんだな? ええ? このクソッタレの“しみったれスティンジー”が!」

 ニコラスは先日、とある大規模な銃撃戦の末に身柄を拘束されていた。証拠不十分、証人不在で釈放はされたものの、いま目立った動きは見せられない。彼への不平をこぼしていた構成員が、その息のかかった人間に消されたという事実。もし俺が捕まれば、連邦組織はあらゆる手を使ってニコラスが指示したという証言を引き出すだろう。

 危険だった。ファミリーにとって、俺が生きているという現状は。

「もう一度聞いてやる。なぜ撃たなかった。どうして俺の信頼を裏切った」

「バリーは……知っていました。ガキが自分の娘だと」

「何?」

「……お互いの反応を見た限り、娘の方は……想像もしていないでしょう。しかし……奴は、明らかに気づいていました」

 地に這ってもがく男に囁いた、最後の言葉。

 ――自分の娘だとわかってて近づいたのか?

 答えは聞く必要もなかった。呆然。愕然。そして開いた口から、かぼそく漏れ出した声。

 ――ア

 頭を撃ち抜く。最後まで名前を呼ばせたくはなかった。

 それはゴミ同然の姿となった男への、最後の情けか。

 そいつが父親だと娘に気づかせないための配慮だったのか。

 もしくは嫉妬? 俺のことは忘れていたのに。

 あるいは自分が娘どころか、標的すら撃てなくなってしまう可能性を恐れてか。


「……なぜ、あの場に。アリス・スタンリーがいたんですか」

 全身が軋む。こうしてしゃべること自体、もう限界に近かった。そもそもの疑問をぶつける機会は、いまこのときしかない。

 ニコラスは一転、落ち着いた声音だった。

「お前はどう思うんだ、しみったれ」

 息を大きく吐いて、深く吸った。そして吐いた。乱れた呼吸を整える。

「もしアレも……バリーを苦しめるための、演出で。その娘を殺すことが……俺へのテストに含まれてたってんなら。……それこそクソッタレです、ボス」

 こちらを見つめるダークブルーの瞳が、ぎらりと光った。射竦める眼光。しかし死を間近にした人間を止めるには至らない。

「なぜガキを撃たなかったのかって?」

 何も知らない無垢な少女。恩人の娘。アリス・スタンリーを撃たなかった理由。

「それが俺の流儀だからです」

 遠巻きに様子を伺っていた連中が、途端に歓声を上げた。口笛を吹く。野次を飛ばす。笑い声が響く。そのうちの一人の頭が吹き飛ぶ。

 静寂。

 気づけば愛銃を握っていたニコラスが、感じ入ったように囁いた。

「なるほど、そういうことか。疑われてたのはこっちってわけだな? ……誤解があるみてえだが、俺はバリーの娘を巻き込むつもりなんて、これっぽっちもなかったぜ。端っから、本当にだ」

「それじゃあ、なぜ」

「ハッ、俺が知るわきゃねえ。どういう因果か、たまたま居合わせちまったんだろうな」

 都市最高のマフィアの若き頂点。憧れ。ただの外道ではないという再認識。ほっとする。これからどんな責め苦に遭おうと、俺は恩人と憧れを胸に抱いて死んでいける。

「スティンガー。この銃を使うことを許す」

 ニコラスは床に膝をついて、先ほど部下の頭を弾いた愛銃を俺の目の前に置いた。四五口径セミオートマチック。スライド側面に棺桶のマークとMOWの刻印が入った、銀色の拳銃。

 MOW――“俺の唯一の流儀マイ・オンリー・ウェイ

「それは……どういう」

 意図を読み取れず問いかける。彼は静かな、優しい目をしていた。

「本当はこの後、脇に控えた馬鹿共にカトル・カールの手際を見せてやるつもりだったんだが、気が変わった」

 ごくりと唾を呑む。暗殺、拷問、誘拐、脅迫をこなすダークタウンの傭兵集団。さっきまで受けていた苛烈な拷問をぬるいと確信できる、数々の逸話。もう少しで奴らの餌にされていたということか。

「いまの啖呵の報酬だ。自分で片を付けろ」

 親しみのこもったウィンク。それ以上は何も言わずに地下室を出ていく。不興を買った部下達も、仲間の死体を置いたまま、ぞろぞろと後を追っていった。

 血と脂の臭いが充満する拷問部屋で、一人佇む。そばにあるのはニコラスの銃と、脳漿をぶちまけた死体。

 バリーの教訓に救われた。できることに手を抜かず足掻いた結果だ。死こそ免れないものの、おかげで最悪の最期だけは迎えずに済んだ。

 彼の娘、アリスは09オー・ナイン法案関係者に保護されたらしい。連中から保護証人を強奪するのは至難の業だ。だったらファミリーのためには、俺が死ぬしかない。さらに下手人が消えれば、彼女が狙われる理由もなくなる。俺はバリーを殺したが、バリーの娘の命だけは守れたのだ。

 もっと上手いやり方はあったのだろう。しかし、この迂闊さも不器用さも甘さも、尊敬する恩人譲りだ。仕方ない。

 納得し、俺は銃把じゅうはへと手を伸ばした。

 このクソッタレの世界から、おさらばするために。

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sting 渡馬桜丸 @tovanaonobu

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