第10話 取引き ※
《さあ。もういい加減、諦められてはいかがでしょう》
「創世神の巫女」が微笑みさえ浮かんだ涼やかな声音でそう言ったとき、ユウジンはもう、立っているのがやっとという状態だった。
彼とキリアカイの周囲に張られた魔力障壁は、今や二人の魔力だけでどうにかもっているだけである。すでに二人を包み込むぎりぎりの大きさまで
障壁の表面を走る電撃が、ピシリ、パシリと奴らの体に鞭をふるい、奴らをそれ以上は寄せ付けないように威嚇している。だがそれも、あとどれほどもつだろうか。
もはや、絶体絶命だった。
『食ワセロ、食ワセロ、食ワセロ』。
『腹ガヘッタ、ガマンデキネエ』。
『女ヲヨコセ、女ヲヨコセ』。
『俺ハ子供ダ。子供、食ワセロ』──。
血に飢えた彼らの思念は、噂通りの獣そのもの、いや、それ以下のものだった。
あるのはただただ、肉欲と獣欲ばかり。かすかな仲間意識すらもない。ただただ、食い、犯し、いたぶりたいのだ。こいつらはそういう生き物なのだ。
足元には、すでに彼らに蹂躙されて引きちぎられ、無残な状態になった兵や魔導師らの体の一部があちこちに転がっている。障壁の内部もすでに、臓物と血の臭いしかしなかった。キリアカイはとっくに胃の中のものをぶちまけてしまっており、もはや戻すものもない状態だ。
と、ユウジンが遂に、がくりと片膝を地面についた。
「かはっ……!」
「ユウジン様っ……!」
ハオランの亡骸を抱きしめたまま、キリアカイは夫の体に身を寄せる。
先ほどからユウジンは、障壁の薄くなったところから入り込もうとするオーガどもを次々と斬っては捨て、斬っては捨てを繰り返してきた。すでに何十匹というオーガどもが、彼の得物の餌食になっている。
だが、あまりにも多勢に無勢だった。
いかに素晴らしい武人であっても、彼ひとりで出来ることには限りがある。ましてや彼には、背後に守らねばならない妻がいるのだ。
彼の体には少しずつ傷が増え、美しい軍服は血の混じった泥にまみれ、艶やかな髪は乱れ落ちている。肩で激しく息をして、ぜいぜいと苦しそうだった。それでもユウジンは得物である剣を杖がわりに、またよろよろと立ち上がろうとした。
援軍は、まだ来ない。
先ほどの兵士が、無事に城にたどりついたかどうかも定かではなかった。
《さあ。それ以上、どうなさろうと言うのです。お諦めなさいませ、ユウジン様》
「……黙れ、外道」
ユウジンが、喉奥で低く唸った。
「貴様、などの……指図は、受けぬ」
苦しげな息の下から、それでも光を失わない両眼で、上空の光球をぎゅっと睨みつけている。
と、また薄くなった障壁をすりぬけて、ぬうっとオーガの腕が入り込んできた。ユウジンが、即座に得物を一閃させる。
「グギャアアアアッ!」
奇怪な叫び声とともに、その場に二の腕から先をぼとりと落として、オーガが引き下がっていく。
ユウジンは、オーガどもの血にまみれた刀身をまたぐさりと地面に突き立てて、激しく喘ぎながら言った。
「キリアカイは、我が妻だ。……だれであろうと、触れさせぬ。まして……左様な穢れし手で
ぜいぜいと荒い息をつきながら、ひと言ひと言、噛みしめるような言葉だった。
こんな状況だというのに、キリアカイは胸の奥に、どうしようもないものが溢れ出すのを禁じ得なかった。
それは多分、温かな涙でできていた。
(この、人は──)
気高く雄々しい四天王。
こんなにも美しく聡明で、弟思いの凛々しい兄が。
子煩悩な、優しい父親でもある人が。
(どうして──)
「こんな人が、どうして自分を」と思わない日はなかったのに。
こんな、このような土壇場で、彼は自分を、わが身を
一度は自分の心の弱さに負け、彼自身の毒殺さえ企てた、こんなにも愚かな妻を。
「リュウカイよ。……創世神の、巫女よ──」
ふと気づくと、青ざめた頬を動かして、ユウジンが空に向かって呼びかけている。
《どうなさいまして? ユウジン様》
「そなたらが所望するは、私であろう。私の……この命のみなのであろう」
巫女とリュウカイは、黙って冷ややかな目で夫を見下ろしてきた。
「であれば。……彼女ばかりは、お見逃しを」
「な──」
彼の言わんとすることを悟って、キリアカイはハッと顔を上げた。
「どうか、頼む。この私の一命をもって、キリアカイばかりは助命をお願いいたしたく──」
苦しげにそう言い切り、ユウジンががくりと首を折って頭を下げた。
「ユウジン様っ……! 何を言うの!」
キリアカイは夫の背中に取りすがった。
全身から血の気がひく。口の中に、苦いものがいっぱいに広がっていく。
が、上空からはにやにやと、さも満足げな思念が降ってきた。
《……ふむ。悪いお話ではござりませぬなあ──》
もちろん、リュウカイのものだった。
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