第11話 別れ ※
キリアカイは夫の背中にかじりついた。
「ユウジン様っ! なんてことをおっしゃるの。わたくしはそんなこと、望んでおりませんわっ……!」
「聞き分けてくれ。キリアカイ」
「いやっ! そんな、そんなことだけは絶対にダメ……!」
喉も裂けよと訴えるのに、ユウジンは厳しい表情で上空を見上げたままだ。
もはや魔力も体力も底をつきかけているのだろう。彼の顔には疲労が濃かった。いつもは強い光を放つ美しい瞳のまわりにも、どす黒い隈がとりまいている。
「私がここから生き残るなど、もはや万にひとつもありはすまい。しかし、君はそうではないんだ。君にはまだ、生き残る道が残されている」
「そんなっ……!」
「可能性があるなら、生きてくれ。……どうか、君だけでも。そして、すぐにここから逃げろ。これは、私からのお願いだ」
「ユウジン、さま……」
キリアカイは絶句した。
聞くに堪えない獣どものわめき声にとりまかれ、ユウジンも自分も汚泥にまみれた姿だというのに。
それでもその時のユウジンほど、気高く見えたものはなかった。
やがてちょっと、ユウジンは苦笑した。
「だが……これで、信じてくれるかな」
「え──」
それはなんだか、不思議なほどにすがすがしい笑みだった。
「君はずっと……どこかで私を疑っていただろう。こうして夫婦になり、子を
「そ、……それは」
胸の奥をぎゅっと掴まれたような気になって、キリアカイは声をなくした。
気づいていたのだ。夫は、キリアカイの心の内にある、暗くて後ろめたくてじめじめした色んなものに、ずっと気づいていた。
戸惑って身を固くしたキリアカイを、ユウジンは信じられないような優しい瞳で見つめた。その目は、どこか悲しげだった。
「愚かなことだよ。とても……愚かなことだ。いや、君がどうしてそう思ったのかは、何となくわかるんだけどね」
「…………」
そこでユウジンは、ふわりと茶目っ気のある笑みを見せた。自分の頬をぴたぴたと、軽く手のひらで叩いて見せる。
「私が、こんな顔をしているのがいけなかったんだろう? しかし、見た目なんていうものは、まことにもって儚いものさ。どんな美貌の人だって、三日も見ていれば飽きると言うし。……実際、君だってそうだっただろう?」
「ユウジン、様……」
「だから……そんなことじゃない。少なくとも君は、私にとってそういう人ではなかった」
言ってユウジンは、ハオランごと、ぐいとキリアカイを抱き寄せた。
「はじめは、確かに同情だったかも知れない。あのまま放っておいたなら、君がバクリョウ閣下の配下の者らの慰み者にされるは必至だった。敗戦の将の娘が、目の前でむざむざとそういう目に遭うところを、私は見たくなかったんだ。最初は確かに、それだけだった」
「…………」
「でも、ハオランを授かって……君と、家族になって。君も知っている通り、私には弟のほかに家族がなかった。親には早くに死に別れたしね」
キリアカイにも、訥々と耳に流し込まれる言葉の全部に、彼の心がしっかりと籠められているのが分かった。
「だから……楽しかった」
そう言うユウジンの笑みは、まことに幸せそうに見えた。そこに嘘があるようには、どうしても見えなかった。
「とても……幸せだった。君と、ハオランと……家族になることができて」
「…………」
「みんな、君のお陰だよ」
「…………」
「だから……礼を言わせてくれ。ありがとう、キリアカイ」
囁くようにそう言って、ユウジンは軽くキリアカイの額に唇を触れさせた。
キリアカイは目を見開いた。
「私のことは、忘れなさい。なるべく、早く」
「ユウ、ジ──」
「そして、幸せになるんだ。いいね」
そう言うと、ユウジンは片手をさっと振った。途端、キリアカイの体が光の球に包まれて浮き上がった。<
「さ、行くんだ。そろそろ、私の魔力も限界だ」
「いやっ……! ユ、ユウジンさまっ……!」
必死に腕を伸ばしたが、何の意味もなかった。キリアカイの体は魔力の球に守られてあっという間に上空へ飛び上がっていた。
それが、ユウジンの魔力の最後の輝きだったのだろう。彼の周囲を取り巻いていた魔力障壁が消失し、次の瞬間にはもう、彼の姿はあっけなく、オーガどもの灰色の波に飲み込まれていった。
「ユウジン様! ユウジンさまああ──ッ! いやあああああ────ッ!!」
キリアカイの絶叫だけが、灰色の空に虚しく響いた。
◇
《そこからのことは、今でも記憶があやふやなの》
扉の向こうから、キリアカイの思念がそう言った。
《なんだかあたくしにも分からないうちに、体じゅうに凄い力が湧いてきて……体が発光したみたいになって。気が付いたら、周りじゅうのオーガを焼き払っていた。リュウカイは、首と胴が切り離されて丸焦げになった死体が、あとになって見つかったわ。『創世神の巫女』とやらは、どこかに消えてしまってた──》
場の皆は凍り付いたように、ただ沈黙して聞いていた。
その後、起こったことは容易に想像がつく。要するに、あまりの出来事がいっぺんに起こったために、キリアカイの隠されていた能力が開花してしまった、ということなのだろう。そして、この一件に関わった父の部下たちを一掃し、みずからがこの地の女帝となった。
《しばらくは、相当、自暴自棄になってたわ。ユウジン様以外の子など欲しくなかったから、魔力で自分の胎だけは閉じたけれど。あとはもう、好き放題の、乱痴気騒ぎよ。うるさいことをいう奴は、すぐに殺して黙らせるだけ。あとは、
《…………》
《……まあ、言ってみれば、それが今まで続いてしまったようなものだわね》
力なく紡がれる思念は、明らかに自嘲の色をまとっていた。
ライラとレティは互いに抱き合うようにして、声を殺して泣いている。彼女たちには彼女たちなりに、何か思うところがあるのかも知れなかった。シャオトゥは耐えられず、側のヒエンの腰のあたりにしがみついて顔をうずめ、嗚咽をこらえているようだ。
ギーナは非常に暗い表情のまま、自分の足元を見て立ち尽くしている。ゾルカンも厳しい目をして扉を睨みつけたままだ。
フェイロンも、今や片手で目元を覆って向こうを向き、黙ってうなだれていた。
《ユウジン様は……あとになって、やっと手首の先だけを見つけたの。それで、ハオランと共にここに葬った》
キリアカイの声は不思議なほどに落ち着いて、淡々としている。
《だから、ここは……ここだけは、誰にも穢させない。無理に入ってくると言うなら、全員殺す。みんな殺して、ここを全部焼き払う。焼き払って、あたくしも死ぬ》
《……わかっております。左様なことは致しません。どうかご安心を》
俺はなるべく静かにそう答えた。
《ですが……ここから、どうされるのです。すでにあなたの臣下たちは逃げ散って、領民たちもどんどん他領へ流れ出ている。もはやあなたが四天王として、ここに君臨することは望めますまい》
キリアカイの思念がふん、と笑ったようだった。
《笑わせないでよ。あんたがそう仕向けたんでしょう。何をいまさら──》
《……それはまあ、そうなのですが》
《だからさ。いいじゃねえかよ、もう》
割って入ったのは、ゾルカンだった。
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