第3話 法改正


《キリアカイ殿の兵らに告ぐ。そちらの責任者はだれか。その者と話がしたい》


 返事があるまでには、そこから少しの間があった。

 見ていると、やがて前方のドラゴンの群れの中から、ひときわ大きな緑色をしたドラゴンが前へ出て来た。それに乗るのは、深い紫色の甲冑に身を包んだ偉丈夫だった。口元まで覆う形の兜もつけているため、顔はよく見えない。

 と、おそらくは中年以上と思われる男の声が朗々と頭の中に響いた。


《キリアカイ閣下が配下、北東方面軍第三保安部隊、大隊長を務めおります、オイハンと申します。魔王陛下におかれましては、斯様な遠路をわざわざお越しいただきまして、恐縮至極にございます》

《わざわざの挨拶、いたみ入る。が、早速要点に入りたい。……貴殿ら、兵を引いてくれんか》


 俺はまず、敢えてざっくばらんにそう言った。


《……いえ。まことに申し訳なきことながら、それは承服いたしかねまする》

《ほう。なぜ》

《僭越ながら、申し上げまする。ここ、タオクー砦の内側にある間、民らは飽くまでも我らが領内のものにございまする。すなわち皆、キリアカイ様の領民です。それが勝手にこのようにして、他領へ大挙して移動するなど。とても看過できるものにはございません》


 そうだ。それがこちら魔族の世界の、これまでの「常識」だった。

 いや魔族側だけの話ではない。それは南の人族側でも同じことだ。

 俺は腕組みをし、敢えて微笑を浮かべたまま彼を見つめた。


《ふむ。当然のご判断ですな、今までならば。……ところで、オイハン殿》

《いえ、滅相もない。どうぞ『オイハン』とお呼び捨てくださりませ》

《据わりが悪いな。ちなみに、そちらでのご階級は》

《は……。ただいまは、大佐を拝命しておりますが──》

《それでは、オイハン大佐。あなたはどうやら、この辺境に長くお勤めのようですね。近頃、都へおいでになったことは?》

《……は?》


 オイハン大佐は、なにを訊かれたのか分からないらしい。その思念は明らかに怪訝な色をまとった。


《申し訳ありませぬ。臣の不明にございまするが、陛下のおっしゃる意味が、よく──》

《やはりご存知なかったか。……実は自分が魔王になりましてすぐ、法の改正をおこないました。その中に、『領民なるものの定義、および権利について』という項目がございます。お聞き及びになったことは?》

《えっ……?》


 オイハンが慌てたように周囲の兵らをちらっと見た。が、他の兵らもきょとんとして首を横に振ったり、互いの顔を見合わせたりするばかりだ。

 当然である。北東にこの情報をもたらす者は、恐らく俺が最初だからだ。


《『領民は、その各々の心に従って居住する地を選ぶ権利を有す』。すなわちその心の中で『そこに住みたい』と願った瞬間、その者はその土地の領民とみなされるのです。無論、その後の書類上の手続きは必要だが》

《なっ……。なんですと……?》

《さらに、こうです。『何人なんぴとも、その権利を侵すにあたわず』。つまり魔王であっても、彼らの意思を侵す権利を有しません》


 オイハンだけではない。今や周囲にいるすべての将兵たちが、目を白黒させ、口をあんぐりと開けて俺を見ていた。


《このところ、自分はこれら魔族の国における様々な法の改正を行っておりました。もちろん、なにも領民のことのみに限りませんが。これまでなら単純に不文律とされてきたようなものまで、よくよく精査し、明文化する事業を手掛けて参ったのです》


 そうなのだ。

 新たにこの法律を作り上げるために、俺は宰相ダーラムとも図り、身分の上下を問わずに優秀で誠実な文官を募ってチームをつくった。そうして、いわば「魔族国法」とでも言うべき法体系を調えようとしてきたのだ。

 法律はすべてが出来上がってから施行するのが当然ではあるけれども、そう言っていたのでは様々なことが遅滞する。そのため、この法律に関しては、一定の分量が完成したら順次施行していく形をとっている。この「領民」の項を含む条文も、比較的最近になって施行されたばかりだった。

 さらに、法を遵守するためには多数の法律家が必要である。その育成もまた、魔族の国にとっての急務だった。


《しッ……しかしっ! そ、そのような。そのような、ことがッ……!》

 オイハンが憤然と声を荒らげた。

《法は法です。いずれにしろ、今後この魔族の国は、こうした法治国家へと転換していく必要がある。領民の多くが、自分の努力にきちんとした報酬をもって報いられ、決して理不尽に虐げられることのない世をつくらねばならない。これはそのための第一歩だ》

《む、……う……》

《では、人の心はどうやって測るのか。……それはまあ、今後の課題のひとつではありますが。とりあえず、今はこのガッシュやこちらのドラゴンたちに手伝ってもらうということでお許し願えればと》

 オイハンはしかし、それでも必死に食い下がってきた。

《お、お待ちくださいっ! そ、そのような勝手な……! せめて少し、お時間を下さいませ。一度伝令を飛ばしまして、キリアカイ閣下にご指示をいただかねば。わたくしの権限では、なんとも──》

《黙りおろう!》


 言い放ったのはヒエンだった。

 武骨かつ堂々とした胴間声だ。


《ただいまの陛下のお言葉が耳に入らなかったのか? すでに法は成立している。ここな領民どもはその心に従い、魔王陛下の庇護を求め、その御翼おんつばさのもとに集まっておるのは明らかだ。……見よ、眼下を》

《む……》


 オイハンはつられて、思わず下を見たようだった。

 そこには相変わらず、ことの成り行きを固唾を飲んで見守っている民たちの姿がある。これら<念話>による会話はすべて、まるでライブ会場の大きなスピーカーで拡散しているかのように、すべての民の耳にも届いている。


《わかるであろう? 女子供もいれば、老いた者も病人もいる。この寒空に、満足な防寒服も暖をとる道具もないこのような者らをいつまでとどめておくつもりか。放っておけば死人すら出ぬとは限らぬぞ》

《ぬ……、ぬぬうっ》

《それとも、身分の低い領民どもの命など、いくら喪われようが構わぬと申すつもりか。……それではますます、民の心はそちらから離れようというものだが》


 ヒエンの声は毅然としている中にもどこか、温かな優しさを沈めて聞こえた。それは相手を言い負かすのみならず、明らかに民たちにも聞かせている言葉だった。


(……さすがだな)


 俺は密かに舌を巻いた。

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