第9話 ピックル


 次に彼が目を開けたときにはもう、そこにいるのは正真正銘、怯えたマルコ少年でしかなかった。

 そうなった途端、彼の周りでずっと半径三メートルほどの円を描きつづけていたピックルが、ぴょんとひと跳びして彼の腕の中におさまった。動物の感覚の鋭さたるや、すさまじいものがある。


「ああ……ごめんね、ピックル。怖がらせちゃったんだよね」


 少年の声も表情も、先ほどまでのふてぶてしい真野のものからは一変している。ピックルは頭をしきりにぐりぐりと少年の手や胸にこすりつけていた。「もっと撫でてよ、怖かったんだよ」と言わんばかりだ。鼻をぴすぴす鳴らし、いかにも甘えている様子が愛くるしい。

 それを見ていて、俺はふと、シャオトゥのことを思い浮かべた。


(そうだ……。もしかして)


 いや、それはひどく安直な考えだったかも知れない。が、ともかくも、俺にはとあるアイデアが浮かんだのだ。





「あら……お可愛らしいこと」


 シャオトゥの世話を担当してくれている女官たちは、マルコとピックルを見ると一様に顔をほころばせた。無理もない。ピックルはもちろんだけれども、マルコもな状態であれば十分に容姿の優れた、可愛らしい少年なのだ。

 俺はマルコと、その「監視役」になったヒエンを一同に紹介すると、相変わらず「我関せず」とばかりに壁の花をやっている青年にちらりと目をやった。フェイロンは例のごとく皮肉げな冷たい目をして、事態を観察する風だ。


「この子、ピックルっていうのね」

「あ、はい……」

「ほんとうに可愛いわ。……ねえ、撫でてもいいかしら? マルコ」

「ええ。怖い人じゃなければ噛んだりはしないので。ゆっくり撫でてやってくだされば大丈夫ですよ」

「わあ、ふかふか!」

「お耳もやわらかいのねえ」

「あ、尻尾は触られるの、きらいなので。触らないでやってくださいね」

「わかったわ。ああ、本当に可愛い~!」


 女たちはもうデレデレである。もちろん生き物が苦手な女もいるようだったが、そういう者は少し離れたところから、おとなしくみんなのすることを眺めている。そのさらに奥に、ソファに座ったままのシャオトゥの姿があった。

 無反応ではあるものの、彼女に特に怯えた様子がないのを確認して、俺は女たちに言った。


「済まない。少しだけ、シャオトゥにも触らせてやってもらえないか」

「えっ? シャオトゥ様に……?」

「こういう生き物に触れることで、心の傷を癒すことができる場合もあるらしいんだ。まあ、シャオトゥがこういうものが苦手でなければ、なんだが……。どうだろうか」

 女たちはハッとしたように俺を見た。

「ああ! そうだったのでございますね」

「それは、なんと素敵なお心遣いでございましょうか」

「ぜひぜひ、そうして差し上げてくださいまし」


 俺がマルコに頷いて見せると、彼はこくりと頷いた。そうしてピックルを抱き上げると、そろそろとシャオトゥのソファに近づいた。

 少年が近づいても、少女は大した反応を見せなかった。彼女は大人の男が近づくと、今でも本能的に体をこわばらせる。そのことを考えると、かなりいい状態に見えた。

 マルコは相手を驚かさないように気づかいながら、ゆっくりとシャオトゥの前まで行くと、彼女の膝にそうっとピックルをおろした。さすがに動物に好かれるだけあって、心優しい気遣いのできる少年である。

 みんなは固唾を飲んで、なりゆきを見守った。


 膝にピックルを置かれても、シャオトゥはしばらくは何の反応も見せなかった。視線は宙を見上げたまま、なんの感情も乗せていない。

 そんな状態が、優に三分ばかり続いただろうか。

 ……やがて。

 ぴく、とシャオトゥの指が動いて、本当にゆっくりと膝の上の生き物に触れた。その手がわずかに前後に動く。撫でているのだ。

 と、すうっとシャオトゥの視線が自分の手元におりた。

 それでも、ただ沈黙しているばかりだし、表情も凍ったままだ。


「……『ピックル』というんです。ぼくの、友達なんですよ」


 マルコ少年が、小さな生き物に話しかけるときそのままの、優しい声でそう言った。

 シャオトゥの視線がゆらりと上がって、目の前の少年をとらえた。

 その唇が、ほんのわずかに動いたようだった。


「ぴ、……く?」


 場にいるほとんどの人間が、驚いて彼女を見つめた。

 しゃべった。

 あのシャオトゥが、はじめて声を発したのだ。

 マルコ少年がにっこり笑った。


「そう。ピックル。……よかったら、どうか可愛がってやってくださいね」

「…………」


 シャオトゥはそれ以上、何も言わなかった。言わなかったが、その手は優しく、ピックルの柔らかい毛をずっと撫で続けていた。

 ピックル自身も少女の手がひどく気持ちいいのか、目を閉じておとなしく撫でられている。

 部屋の中に、静かで優しい時間が流れている。

 俺は十分に満足し、足音を忍ばせて扉に向かった。ギーナもすぐにあとに続く。

 後退しながら、目だけでフェイロンとヒエンに「ついて来い」と促すと、さとい彼らはごく自然な動きで、音もなくすっと俺についてきた。

 と、三人を連れて廊下をしばらく歩いたところで、不満そうなガッシュの思念が流れて来た。


《ふん! ふん! どーせオレは可愛くないよ。ふんっ!》

《……何をすねてるんだ、ガッシュ》

《す・ね・て・ねえっ! オレなんて、あんなちっこい生き物より、ずーっとずーっと凄いのに。ドラゴンだぞ? 空だって飛べるんだぞ? 魔撃だってすげえんだぞー!》


 俺はちょっと半眼になる。間違いなく思念だというのに、なんでこいつはこんなにぎゃあぎゃあうるさいんだ。


《わかったわかった。もちろん、ガッシュは素晴らしい。それは、誰が見たって明らかだ》

《……ほんとかよ。ほんとにヒュウガ、そう思ってる?》

 

 相変わらず、どう聞いてもすねた思念が、ふらふらと俺にまといつく。

 意外と甘えん坊なんだな、こいつ。


《いい歳をした男が<かわいい>って言ってもらえないからってすねるんじゃない。ガッシュは可愛いんじゃなくて、<かっこいい>んだ。……そうだろう?》

《……ん。ん~~。そ、そうだよな。オレはカッコイイんだ。カッコイイ黒ドラゴンだ。うん、そうだ!》


 やっと納得したように、思念の波動が落ち着いたものになっていく。俺はちょっと苦笑した。

 ……いや、やっぱり可愛いんだな。

 と、隣を歩いていたギーナが変な顔になった。


「ちょっと、ヒュウガ。なに一人で笑ってんのさ」

「あ、いや。なんでもない」

 言って足を止め、俺は後ろの男二人に向き直った。

「……ときに、ヒエン、フェイロン殿」

「は」

「なんでございましょうか」

「ちょっと相談があるんだが。いいだろうか」


 そうして俺は、とあるアイデアについてその場の三人に語り始めた。



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