第8話 黒い影 ※



 全身から、獣の叫びのような唸り声が響き渡った。

 俺が叫んでいるのではない。

 青き鎧そのものが、<挑発の叫び>をあげたのだ。


 途端、腐り落ちていきながらも、翼竜の赤い目がさらに燃え上がってこちらを向いた。体全体から鱗が剥げおち、内側の肉までもが紫色に変色して腐りおちていく。

 もはやなんの生き物に似ているとも言えない奇っ怪な姿になった獣は、もはや骨組みしか残っていない翼をばたつかせつつ、まっすぐに俺に向かって突進してきた。


「きゃあっ!」

「ヒュウガっち──!」


 ライラとレティの叫びが背後で聞こえた。

 今しもこちらの喉笛に食らいつこうとする、奴の嘴にぞろりと生えた尖った歯。

 俺にはそれが一本一本、くっきりと見えていた。

 はっきりと気の流れを感じる。俺の首に食らいつき、胴体から噛みちぎってやるぞという意思──いや、野生の本能のようなもの。


 俺はすいと体を傾けた。無論、軸はブレさせない。相手の攻撃をかわしつつ、吸い込まれるようにしてその首へ<青藍>が伸びていく。

 すべてはスローモーションのように動いた。

 この一瞬、俺の中で時間がどこまでも引き延ばされ、コンマ零秒が永遠にもなる。まことの集中限界、研ぎ澄まされたその境地に入ったとき、人はそうなるものなのだ。


 <青藍>の刀身が魔獣の首にするりとい込み、抜けていく。手ごたえは確かにあったが、抵抗など微塵も感じなかった。最後の皮一枚を絶ち、振りきったところで飛びすさる。魔獣はそのまま前方へと突っ込んでいく。首はそのままの状態だ。

 やがてその体が地面に激突した。その拍子に、まるで玩具が壊れるようにしてぼろりと胴体から首がもげた。ほんのわずかの間をおいて、どばっと黒い液体が噴き出す。

 レティはライラを庇ってすでに脇へ飛びすさっており、それらの飛沫を回避した。


「お見事です! あとはお任せを」


 フレイヤが高らかにそう言って、すぐに転がった魔獣のむくろへ火炎放射を始めた。あっという間にその体が燃え上がり、炭化していく。

 その時だった。


『……ふん。つまんないな』


 どこかからそんな声がして、俺は周囲を見回した。


(なんだ……?)


 なんとなく、聞き覚えのある声だった。

 見れば、燃え上がる魔獣の体の上方に、黒いもやのようなものが現れている。焼かれて炭化した死体が細かくなって舞い上がっているのだったが、それがいつのまにか集まって、何かの形をとりはじめていた。

 周囲の女性がたも呆然とそれを見ている。フレイヤが異変を感じ、手から炎を噴き出すのをやめた。


(なに……?)


 その「影」はゆらゆらと、とある形になっていく。どうやら人型のようだ。とはいえどこも真っ黒で、顔つきが分かるようなものではなかった。ふわふわと集まっただけの黒い煙が、どうにか人の形になったというだけのことである。


『ちょっと顔を見にきてやったっていうのにさ。こういうって、ひどくない?』


 少年のようにも、少女のようにも聞こえる声。


(やはり──)


 そうだ。この声は知っている。

 俺は確かに、この声をどこかで聞いたことがある。

 女性がたと村人たちを背後にかばう形になって、俺はあらためて<青藍>を構え直した。


「……お前は、だれだ」

『ハッ! 陳腐。わざわざ来てやったってのに、そんなことしか訊けないのか』

 声はせせらわらった。

『あーあ。でもダメだなあ。こんなザコ魔獣じゃ、やっぱり持たないよね。今度はもうちょっと考えるわ』


 さもつまらなさそうだ。その声には、自分が「使い魔」にしたらしい魔獣への一片の憐みもありはしなかった。

 まして、その宿主にした村人の男のことなど、抜け殻以下の認識に過ぎないらしい。

 俺はグラグラと胃の腑の煮えるのを覚えた。


「質問に答えろ」

『やーだね。聞きたきゃ、さっさとこっちに来いよ』


 「こっち」というのは、どっちのことだ。

 が、それは考えるまでもないことのような気もした。


『前から言ってんだろ? 早く遊ぼうぜ、ってさ。なのにお前、相っ変わらず甘いこと言いまくって、<テイム>もしてねえみたいだしさ。笑っちまうんだよ』


 ふらふらと、手であるらしい部分が揺れる。「もう話にもならない」と言わんばかりだ。


『何度もそこのシスターに忠告されてたんじゃないの? んなことやってたら、自分てめえが危ないってさあ。もちろん、そこの女どももなんだけど』

 言われて背後のマリアを振り向きたくなる欲求を、俺はどうにか抑えこんだ。何があろうと、目の前のこいつから目を離すわけには行かない。

『別に、犯しまくれなんて言ってねえだろ? たくさん<テイム>してはべらして、いざとなったら盾にでも踏み台にでもして、とにかく自分が生き残る。全部、そのためじゃんかよ。きれいごとばっか言うんじゃねえっての。気色悪いんだよ。おまえ見てると』


 いかにも不快極まりないといった口調で、吐き出すように言葉をつむぐ。背後の女性たちの「気」が戦慄したのが肌でわかった。


『ってことで。一回、レクチャーしといてやる。お前が甘っちょろいこと言えば言うほど、周りの女がどうなるか、ってことをさ──』


 世間話でもするような口調でそう言ったかと思うと、そいつの眼下の死体がごそりと動いた。


(……!)


 身構えた時には、もう遅かった。すでに落としたはずの魔獣の首が飛び出した。それは凄まじいスピードで俺の脇をすり抜けて、まっすぐ後ろへ向かって突進していた。


(しまった……!)


──奴らぁ、たとえ首だけになってもブッ飛んでくるぜ。


 一瞬、ガイアの声が耳の奥で鳴り響いた。

 ハッと後ろを向いたときには、首はもう、背後の一人に襲い掛かっていた。


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