第8話 ガイア


「つまりよ。野郎にゃいたのさ。ヒメのもんになる前に、ちゃあんと心に決めた女ってのがよ──」

 

 俺とレティは再び目を見合わせ、絶句した。

 つまりデュカリスには、ミサキの「奴隷」になる前に恋人あるいは妻たる人がいたということであるらしい。俺たちの表情を読み、ガイアは皮肉げに頬を歪めた。が、彼が次に口を開く前に、宿のほうからヴィットリオが戻って来た。マーロウを連れて小走りにやってくる。話はそこで中断した。

 マーロウは俺たちに軽く会釈をすると、すぐに横になったデュカリスのそばに膝をついた。


「少々、お待ちくださいませ。すぐにお楽にしてさしあげましょうほどに」

 言うなり、デュカリスの額のあたりに片手をかざす。その手がちょうどマリアがするようにしてぼんやりと光りだし、淡い光の粉がすうっとデュカリスに吸い込まれて行った。

 額に玉の汗を浮かべて苦しげだったデュカリスの表情が、たちまち穏やかになっていく。そうして大きく息をつくと、青年は薄く目を開けた。


「さあ、デュカリス様。こちら、いつものお薬にございます」


 言ってマーロウは懐から小瓶を取り出した。それはちょうど、俺があのヴァルーシャ宮でシグルドという老人から受け取ったような品だった。つまり<魔法薬ポーション>なのだろう。ガラスのような瓶の中身は、薄紫色にぼんやりと光っている。

 デュカリスはそれを一気にあおった。

 やがて数秒も経たないうちに、彼の表情はもとの落ち着きを取り戻していった。疲れたような頬に、はらりと一筋、銀髪が落ちかかっている。


「……すまない、みんな。無様ぶざまなところを見せてしまったな」

「いいってことよ。気にすんな」

 

 ガイアが軽くそう答えると、デュカリスは自嘲するような笑みを作った。

 その時、俺は唐突に気がついた。今のデュカリスの身体からだには、最初に会った時に感じた、あの奇妙なの澱みのようなものがはっきりとあらわれているということに。


(そうか。つまり──)


 これはそうした魔法薬や、特定の魔法の影響によるものだったのだ。彼がもともと持っていた理性的な、あるいは感情的な活動の多くの部分を摩滅させ、あるいはそれらに蓋をしたことで生じた、一種のノイズのようなものなのだろう。

 逆に言えば、それまでデュカリスの心に住み着いていた当の女性への想いは相当なものだった、ということになるのだろうか。それを忘れておくために、ここまでの努力が求められるというからには。

 やがて俺たちに見送られるようにして、デュカリスはヴィットリオに肩を貸され、マーロウとともに宿に戻っていった。彼らの姿が見えなくなってから、俺はガイアの方を見た。


「ガイア殿。つまり、これは──」

 言いかけたところを、大きな手がぱっと上がって遮った。

「ま、言いっこなしよ。分かんだろ? 大人のオトコにだって、色々あらあな──」

「…………」


 俺とレティはあらためて、デュカリスの消えた方をちらりと見やった。


「そりゃそうだろ? 俺ら、いい歳した男だぜ? しかもあいつは、あんだけの見てくれと性格ときた。女がほっとくわけがねえ。だろ?」

「それは……確かに」

「事情はよくわかんねえ。が、あいつの場合、最初からヒメの『三人の奴隷』の一人だったしよ。女の方で『一年だけのことなら我慢する』とかなんとか、言いやがったんじゃねえ? だから死ぬのだけは許さねえとか、なんとかよ」

「…………」

「で、しょうがねえからああやって、マーロウのおっさんやら、ポーションやらに頼ってどうにかこうにか、ヒメの傍にいやがるんだろ」


(しかし……)


 だとすればそれはどんなにか、彼にとって心を裂かれるような決断であったことだろう。もちろん想像の域を出ない話だが、俺はそれでも胸を塞がれるような気持ちになった。

 何も言えずに立ち尽くすレティと俺とを見下ろして、ガイアはにかりと自嘲のような笑みを浮かべた。無精髭に覆われたいかつい顎を、手のひらでごしごしこするようにしている。


「まっ、俺なんざ、やくざなもんでよ。別にこれといって決まった女なんぞいなかった。あっちこっちで遊びで抱いた女なら山ほどいるが、全部商売女だしな。だからこうなったって、別にどうってこたあなかったんだ。けどよ──」

 ぱっと見はひどく人情味に薄く見える瞳が、ぎらりと不思議な色になる。

「あいつは……あいつらは、違うわな? ガキ連中はともかくも、野郎どもはそれなりに、相手がいなかったはずはねえんだよ。だろ?」

「…………」


 何も言えなかった。いや、言えることなどあるだろうか。

 ガイアは不思議と明るい顔で、また「がはは」と大口をあけて笑った。そしていっそ、さばさばしたような顔でこう言った。


「あいつ、バカだろ?」

「え?」

 唐突にそう言われて、俺は眉をひそめた。

「あいつ、ミサキ。バカだし、別に大した美人ってんでもねえし」

 なるほど、ミサキの話か。

「度量はせめえし、わけわかんねえ嫉妬まみれだし。そんで、変な劣等感ばっか育ててやがるし。てめえのことが可愛いばっか、大ウソつきで根性なしのバカ女。そう思ってんだろ? おめえらだってよ」

「…………」

「わかってんのよ。俺にだってそんなこたあよ──」


 そっと見れば、ガイアの目は確かに笑っている。


「別に『奴隷』になったからってよ。そういう判断力みてえなもんが、全部ダメになるってもんでもねえみてえでよ。けど、なんてえか……なーんか、俺は憎めねえのよ。あの、のことがよ」


 沈黙しているだけの俺たちの前で、大男は「うーうっ」と言いながら一度大きく伸びをした。そのまま腰に手をあて、ちょっと空を見上げている。


「可愛くってしょうがねえ。ま、<テイム>のせいだって言われりゃあそれまでなのかも知んねえけどよ。けどアレだ、よく言うじゃねえの。『バカな子ほどなんとやら』ってよ。もしかして、あれなのかもしんねえわ」

「…………」


 俺とレティは、思わずまた顔を見合わせた。

 これは、あれか。

 俺たちは二人して、何か壮大な惚気話のろけばなしでも聞かされているということなのか? 


「どっちみち、に行ってもヒメの時間はもう半年ちょっとしか残ってねえ。その前に終わっちまう可能性だってある。そん時、俺がどう思うかなんてわかんねえ。もしかしたら速攻で、首でもひねってくびり殺すだけかもしんねえ。……けどな」


 さらりと恐るべきことを混ぜ込みながら、やっぱりガイアは笑っていた。そうして、すっかり変になっているであろう俺たちの顔など気にもせずに、上機嫌の顔でこちらを向いて言い放った。


「そん時が来たら俺ぁ、ヒメかっさらって逃げっからよ」

「え──」


 俺たちは停止した。

 レティはぽかんと、巨躯の男を見上げて口を開けている。


(なんだって……?)


 この男、いま何を言ったんだ。


「ずっと前からそう決めてんだ。誰にも手なんか出させねえ」

「いや……ガイア殿」

 それはそれで、色々とまずいのでは。

「そんときゃどうか、ほかの奴らの足止めぐらいは手伝ってもらいてえ。……いいだろ、そんくらい。この『鍛錬』の礼ってことでよ。な? ヒュウガ」


 結局のところ、それは全部、そう言いたいがための「告白」であったらしい。

 勝手につらつらとそれだけ言って、男はわずかに視線を泳がせると、「へへっ」と親指でちょっと自分の鼻をこすった。そしてくるりと踵を返すと、デュカリスたちを追うようにして大股に宿の中へ戻っていった。

 俺はふと思いついて、自分の胸の青い宝玉に触れ、一瞬だけ目を閉じた。

 

 ──『274.21.10.03』。


 そんな数字が、鮮やかに脳裏に描かれていた。


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