第3話 猫の女
「つっ、つかまえてくれ! 財布、俺の財布をとったんだ……!」
フードの奴がぴくりと後ろの声に反応した気配がした。
俺は無意識にマリアとライラを背後に庇い、そいつの方に向き直った。
と、その時だった。フードの陰から相手の目が、一瞬だけぎらりと光ったようだった。それはちょうど、エメラルドのように透明な緑色をしていた。
フードの奴が再びふっと身を沈める。また天幕の上へ跳びあがろうというのだろう。俺はその呼吸を
相手はびくっと身を
「フギャア! ギャギャッ」
奇妙な甲高い叫びが響きわたる。見ればその手には、三センチはあろうかという鋭い爪が生えていた。すんでのところでそれを
「フ、……ギャ!?」
そいつも一瞬、なにが起こったのか分からない様子だった。ひっくり返った拍子にフードが外れ、その顔が露わになる。
(えっ……?)
俺は驚いて動きを止めた。
相手もなぜか、まじまじと俺を見つめて停止する。
真っ赤な夕日のような色をして、あちこちはねたような髪。一度見たら忘れられなさそうなほど、印象的なエメラルドグリーンの瞳。不思議なほど澄んだ色をしたその瞳の中心に、縦にひと筋、ナイフで切り裂いたような瞳孔がある。それは人間の目ではなかった。
ぴょんぴょんはねた髪の毛の間から、同じ色をした大きな耳が──そう、耳だ、間違いなく──にょっきりと生えている。形といいなんといい、それは猫のものにそっくりだった。
いや、猫だ。この生き物は猫なんだ。
顔立ちは人のものだし、二足で歩くこともできるようだが、明らかに猫。なぜならそのマントの陰からも、紅色をした長い尻尾がはみ出ている。
ぽかりと開いたその口からは、猫とそっくりの長い牙がのぞいていた。
が、次の瞬間。
「にゃああああん! ご主人サマあぁぁぁ──!」
俺はそいつに、あっという間に真正面からしがみつかれていた。
ごろごろすりすり、大変な勢いで喉を鳴らし、頬や首元に頭をこすりつけられる。これはあれだ、猫の親愛の印というやつだ。何故かしらんが、両足で俺の腰を挟みこみ、がっちりとホールドまでしてくれている。
逃げることも
……そうだ。
こいつはしかも──女だった。
「ちょ……、ちょちょ、ちょっとお! なにをしてくれてるのぉ!」
背後で叫んだのはライラ。やっと我に返ったらしい。
声だけでも十分わかる。「怒り心頭」とはこのことだろう。
しかし、猫の女はそんなもの、聞いてすらいないようだった。
「会いたかったぁ、ご主人サマぁ! レティ、めちゃめちゃ探したにゃよう? すっごいすっごい、探したんにゃからああ! お金なくなって、お腹がすいて……、だから、だからぁっ……うわあああん!」
遂に勝手に泣き出した。まるで幼い子供のようだ。いや、いいんだが、こんな所で大声で泣きわめかれても非常に困る。やかましい上に、これではいい見世物だろう。
周囲の人々も完全にぽかんとした顔だ。先ほど彼女を「泥棒だ」と追いかけて来た男ですらもが、まったく同じ顔で唖然としている。
(勘弁してくれ──)
俺はその猫娘に四肢でがっちりと固定されたまま、頭を抱えてため息をついた。
◇
「だぁから、さっきから言ってるにょ。はむっ、あぐあぐ……レティ、レマイオスの山育ちにゃの。ずうっと、森の奥にいたにょ。んぐっ……しょれで、教会のシスターからご主人サマのこと聞いて、急いでこっちに旅をしてきたにょ……ごっくん」
どうでもいいがさっきから、食べるかしゃべるかどっちかにしてくれないか、この娘。
先ほどの男には財布を返し、レティにはきちんと謝らせ、どうにかその場は事なきを得た。幸い相手に怪我もさせていなかったし、周囲の店にも大きな損害などはなかったのが良かったのだ。
そのまま俺たちはリタを連れ、近くに宿をとった。つまりここだ。その一階にある食堂で、俺たちは木造りのテーブルを囲んでいる。
「れも、レティの村ビンボーだからぁ。みんながお金、集めてくれたんにゃけど、すぐリョヒが無くなっちゃったにょ。森の中では狩りもできたんにゃけど、街に来たら困っちゃって……。ダメってわかってたけどぉ、あそこの店の、パンプキンチキンパイがどうしても、どーうしても食べたくなっちゃったのお。もぐもぐ……あ、でもこれもすっごくおいしいにょ。ごめんなさい、ご主人サマぁ!」
腹ペコだったらしい猫娘──本人(と言ってもいいのかどうか?)の弁によるところのレティ──は、運ばれてきた料理を見て、早速それにがっつき始めた。
ちなみに「レティ」というのは愛称なのだそうで、親から頂いた本名は「レッド・テイル」というのだそうだ。その印象的な、すらりと長く
「しかしどうして、俺がそうだと?」
「ほえあ?」
「いや、あんた一瞥して分かっただろう。つまり俺が……だと」
肝心の「勇者」という単語については、俺は意図的に声を低めた。周囲には同様にして夕食をとっている泊まり客などが大勢いる。変に聞きとがめられては面倒だった。
骨付きの大きな肉の塊をほおばったまま、レティはきょとんと俺を見た。
「しょんなの、すぐにわかるにゃ。レティ、
「…………」
そんなことで個人が特定できるのか。
猫の能力、恐るべし。
「それに、『勇者様はすぐにわかる』ってシスター、言ってたもん。『あっ、この人大好き!』って、ピピッて来るって。ホントだったにゃー! レティ、めっちゃ嬉しいにょー!」
うふふふ、と笑うその頬がほんのり紅に染まる。それを見て、俺の隣のライラがあからさまにムッとした顔になったが、敢えて気づかないふりをした。
マリアの説明によると、
そしてどうやら彼女を観察する限り、基本的には雑食ということらしかった。なぜなら先ほどからレティは、目の前にやってくる料理という料理を片っ端から自分の口に突っ込んでいるからだ。
彼女の腹の虫が落ち着いてきた頃合いをみはからって、マリアがごく端的に言った。
「……つまり、彼女が
(やっぱりか……)
誰か、嘘だと言ってくれ。
思わず頭を抱えた俺に、猫娘が期待いっぱいの目でこう訊いた。
「ねね、ねっ、ご主人サマぁ。それ、そのお料理いらないにょ? いらないならレティ、食べちゃってもいい? ねえ、ご主人サマ、いいでしょう?」
いい年をした娘が、人の目の前でよだれを垂らすな。
「……ああ。どうぞ」
俺はそのまま、目の前の豆と鶏肉のラザニアのような料理の皿を、彼女の方へと押しやった。
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