第4話 治癒魔法


 テーブルの上に積みあがった皿を見て、宿屋の主人は困った顔で笑っていた。すでに消えた料理の大半は、レティの胃袋に収まっている。


「さすがにこれでは申し訳ありませんので」

 マリアがバッグからかねの入った革袋を取り出したのを見て、主人は慌てて両手を上げた。いかにも人の好さそうな、赤ら顔をした体格のいい中年男だ。

「いえっ! いえいえ! それはやめて下さいと申し上げたではありませんか、シスター。娘を助けて頂いたのです、お代なんて頂けませんや──」


 この男の言う通りだった。

 実はマリアはこの町に着いてすぐ、近所に困っている病人などがいないかと町の人々に訊ねて回った。<治癒者ヒーラー>としての能力を使い、早速金を稼ごうとしたわけだ。

 求める相手はすぐに見つかった。つまりそれが、この宿屋の娘だった。十歳ぐらいに見える娘は、長患ながわずらいのためにずっととこに就いていたのだという。マリアは彼女をあっというまに治療したのだ。


 マリアが少女の体に手をかざし、口の中で治癒の呪文を静かに唱えると、その手がぼんやりと光りだした。その光が少しずつ少女の体へと吸い込まれていくと、やせ細って青白かった少女の体に生気がどんどん戻っていくのが分かった。

 少女がぱちりと目を開けると、主人と奥方はびっくりしたようだった。何しろ最近では、ほとんど昏睡に近い状態になっていたというのだ。無理はない。

 しまいに少女はベッドからとび降りると、ぴょんぴょんそこいらを跳ね回り、父親である店の主人と、母親にとびついてきゃっきゃと明るい笑い声を立て始めた。

「苦しくない! 父さん、あたし、もう苦しくないよ! どこも、なんにも痛くない。ほら見て、走れる。踊れるよ……!」と叫びながら。


 宿の主人と奥方の喜びようといったら、大変なものだった。主人は歓喜のあまりに涙を流し、「あんた様がたからは今後ずっと、私の目の黒いうちは、この宿の代金はいただきません」とマリアに誓ったというわけだ。奥方は号泣し、娘を抱きしめて何も言えない状態だった。

 それで俺たちはこの宿に、そのまま部屋を借りることになったのだ。もちろん宿代だけでなく、食事代も込みという約束で。


 今も、目の前で「払います」「いやいや、受け取れません」と押し問答している主人とマリアの横で、当の娘の少女が元気な姿でそんな二人を見上げている。

 くるくると動く大きな瞳は、マリアが来るまで土気色の顔をしてベッドで横になっていたのと同じ人のものとはとても思えない。まったく、<治癒>の力というのは凄まじい。


 しかし、マリアが言うにはこの世界では、ヒーラーが庶民の治療をするのは珍しいことなのだそうだ。基本的にこちらでも、それは医者が投薬や手術などでおこなう仕事ということになっている。

 ほとんどのヒーラーは北への守りのために出払っているか、王侯貴族や裕福な商家などのお抱えになっているのが普通。だから普段、こんな市井いちいの人々のために、わざわざ貴重な能力を使ってくれることはないのだと。つまり彼らは、いわば特権階級なのだ。


 あらゆる魔法にはその「燃料」が必要だ。つまり術者の魔力、ゲームでいうところのMPマジックポイントということだろう。それは体力と似たもので、切れればしばらく休むことで溜め直す必要がある。それには時間がかかるのだ。

 リソースは限られていて、それが下々の庶民にまで回ってくることは滅多にない。そのあたりの不公平アンフェア感は、俺のいた世界とあまり変わらないようだった。俺はまた、ひそかに心の底で失望した。

 この世界も、根本的なところでは現実世界の欠点を修正できてなどいない。都合よく動くのは、あくまで「勇者」に対するシステムだけなのだ。貧しいものは虐げられ、こんな幼い子が本来なら治るはずの病気を抱え、死を待つばかりなのが当然だとは──。

 と、俺はふと思いついて、宿の主人に申し出た。


「それなら、こういうことでどうでしょう。自分が娘さんと奥方に、暴漢に襲われたときのための護身術をお教えする、というのでは。大したものではないのですが、少し心得がありますので」

「ほう……?」

「それをお代のかわりにさせて頂くのはどうかと思うのですが。いかがでしょうか」

 主人は目をぱちくりさせたが、そばに居た奥方と目を見かわしてこちらを向いた。

「なるほど。それはいい考えですが」

「ゴシンジュツってなに? おもしろそ~う!」

 少女がまたぴょんぴょん跳ねる。彼女の頭をなでながら、主人が遠慮がちな目を俺に向けた。この宿のだれも、俺が「勇者」だとは知らないが、それでも大恩のある一行の一員なのだからそうなるのが当たり前なのだろう。

「しかし、よろしいのですか? そのような、お手数でしょうに……」

「もちろん、構いません。よろしければどうか、是非」

 俺は簡単にそう答えて頭を下げた。


 実はこれこそ、俺がマリアに相談したことだった。

 凶器を携えた暴漢に真正面からかかってこられた場合、相手をねじふせるなどはまず考えない方がいい。どんな反撃がないとも限らないし、相手がほかの武器を隠し持っている可能性もあるからだ。下手をすれば命が危ない。それでも掛かっていくのだとすれば、それは蛮勇というものだろう。まして、女性ならなおさらである。

 だから、まずは相手の攻撃をかわし、転ばせるなどしてひるませ、一瞬の隙を作ってとにかく逃げる。距離を取る。そして大声で助けを呼ぶ。女性にできるのはせいぜいそこまでと思った方がいい。

 いや、それで十分なのだ。少なくとも、女性にとって大切な顔や体、そして心に傷を作られるよりは何十倍もマシなはずだから。……とまあ、これはほぼ、俺の師匠の受け売りなのだけれども。


 そうした護身のための合気道を、俺なら少しは教えられる。そうは言ってもまだ初段にも達していない若輩の身にすぎないので、できることはわずかだが。

 正直にそう言ったら、マリアはまたあの不可思議な笑みを浮かべて言ったのだ。「よろしいのではありませんか? 是非ともためしてごらんなさいませ」と。



 夜も遅い時間になったので、稽古は改めて明日に行うこととして、俺たちはそれぞれ宿の二階へ引き取った。

 男の俺が女性たちと同部屋というわけにもいかず、俺は小さな一人部屋、彼女たちはみんなで少し大きな部屋を借りている。俺の部屋は、寝台がひとつと小さなテーブルに椅子が二脚あるだけの簡素な仕様だ。どれも全体に木造りの、素朴なおちつくインテリアだった。

 俺は上半身のチュニックを脱ぎ、ベッドに腰を下ろした。

 疲れたというほどのことではないが、長い道のりを歩いてきたわけなのでそれなりの疲労は感じる。


 実は「勇者」の特権を使えば、ハイド村の村人からロバや馬などの騎獣や馬車を召し上げることもできたはずだった。そうすれば旅の行程も格段にが行き、疲れも最小限に抑えられたはずである。

 だが、そんなことは遠慮したのだ。あの見るからに貧しい村から無償でそんな貴重なものを取り上げるなど、できるはずがなかった。そもそも貧しい農家には家畜すらいない。つまりそれだけ、牛馬は人々にとって貴重な財産だということだ。

 それとも、今までここに来た「勇者」たちは「これ幸い」とばかりに、平気でそれらを供出させてきたのだろうか。そうでないことを願いたい。

 と、ベッドに横になろうとしたら、何か柔らかいものが手に触れた。


「……え?」


 誰かがベッドの上に居る。俺は目を剥いた。

 思わず跳び退すさり、身構える。


 ……が、そんな必要はまったくなかった。

 むにゃむにゃとなにか幸せそうな寝言を言いながらベッドの上に丸まっていたのは、例の猫娘、レティだった。

 


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