第2話 良介


 稽古を終えて帰るころには、日はもうすっかり沈んでいた。道着の入ったナップサックとスクールバッグを肩に掛け、足早に家に戻る。俺の家は、五階建てマンションの四階だ。

 玄関を開けると、中学二年になる末っ子の良介が「おかえりい」とリビングから気のない挨拶をよこした。またゲームにいそしんでいるのだろう。リビング入り口にかかった長めの暖簾のれんから顔を出し、俺は弟の背中に言った。


「お前も少しは運動した方がいいんじゃないのか。まだ太ったりはしてないが──」

「はいはいはーい。かーさんみたいなこと、言わないの。ほんとツグにいは世話焼きだよねえ、男のくせに」


 着古したスウェット姿の良介は、画面にくぎ付けのまま振り向きもせずにそう言った。画面の中では、さっき真野が持っていたキーホルダーのような獣の耳を生やした少女のCGが、思わせぶりにくねくねと腰や猫のしっぽを振りながらこちらを見つめている。


「こういうことに、男も女もないと思うが」

「大丈夫だって。オレはツグ兄のなんとかいうお友達みたいにはなんないからさ~」

「いや。そういうことじゃなくな……」

 

 俺は腰に片手をあて、ネクタイを外しながら少し息を吐いた。別に真野は友達ではない。あまりに一方的にいじめられているのを、つい見かねて関わりたくなるというだけの相手に過ぎない。

 テレビの前のローテーブルには、いつもどおりにスナック菓子やら炭酸飲料のペットボトルやらが雑然と散らばっている。

 部活もしていない良介は、学校が近いこともあってこの時間帯には家にひとりだ。うちも共働きなので、親は九時ごろまで戻らない。長男である兄、孝信たかのぶはこの春大学に受かり、その近くで下宿している。

 中二になるのに良介の成績は下降の一途で、母はずっとおかんむりだ。つい最近、せっかく「勉強したいから」と担任や顧問を拝みたおして忙しすぎた部活を辞めたというのに、これでは親の立つ瀬がない。

 このところずっとこの調子で、ますます良介が傍若無人になっているようで心配なのだ。

 「中学生ってのは、ガタイこそ大きくなってるが脳はまだまだ子供なんだそうだ。だから欲望の調整がきかない。つまり、優先順位を決めてそれを実行する能力が備わってない。個人差は当然あるが、わかっていてもそうできないのはそのためだ」というのが、そちら系列の学部に進んだ兄の言葉だ。兄は脳科学に興味がある。

 とはいえ、「だからいいんだ」という訳にもいかない。

 俺はジャケットを脱ぎながらついまた口を開いた。


「またすぐに試験なんじゃないのか。ゲームをするなとは言わない。だが、まずはやるべきことをやってから──」

「はいはいはいはい! ったく、かーさんより小うるさいよな、ツグ兄はあ!」


 うんざりしたようにそう言って、良介がコントローラーを放り出した。ぶちっとテレビの電源を消し、がしがし頭を掻きながら自分の部屋へと取って返そうとする。俺はそのだらしなくのびたスウェットの襟首をぐいとつかんだ。


「今は俺以外に言える奴がいないだろうが。何度も言ってるが、道場に来ないか。師範は尊敬できるかただし、気持ちが引き締まっていいぞ。集中力の訓練にもなる」

「やーだよ! なに言っちゃってんの? 合気道なんてダッサい武道、やらねっつの。そういう格闘系は兄貴たちにお任せだって言っただろ!」

「お前はお前だろう。何か打ち込めるものがあるならそれでいい。何かあるのか?」


 それは勿論、そこのモニターに映っている「美少女」とやらと戯れるゲームなどは除外しての話だ。俺からすると、それは単に弟の貴重な時間をただ惰性で過ごすためのものとしか思えない。


「せっかく作った時間だろう。家でぼんやり、こんなことをしているのはどうかと言ってるんだ。別に武道でなくてもいい。何か──」

「いいからもう、放せってば!」

 

 ぐいと手首を掴まれた瞬間、思わず体が反応した。

 相手の出した手と呼吸を見切り、ひょいと手首をつかんで一瞬で払う。それと同時に半身になり、相手の体をくるりと回転させて床に倒した。いわゆる呼吸投げというやつだ。

 良介の体が流れるようにきれいに回って、どすんとリビングの床に落下した。


「いいってええ──!」


 大騒ぎをしているが、実は良介だって小学生の頃にほんの少し、兄、孝信にくっついて空手をかじったことのある奴だ。受け身はひととおり身に着けているので、ほんのわずかのダメージしかないのはお見通し。それが分かっているからこそ、俺だってこうして遠慮なく技を掛けるわけだ。

 良介はちょっと悔しげに「ちっくしょう」などと言いながら、それでもひょこひょこと自分の部屋に逃げ込んでいってしまった。


「……困った奴」


 俺はまた少し吐息を洩らす。

 あまり言いたくはないが、このままなし崩しにゲームばかりやっていたら、いずれあの真野のような状態にもなりかねない。

 良介はまだ小柄でやせ型だけれども、真野は似たような背丈なのにかなりぽっちゃりした体形なのだ。そのこともあって、どうしても動きが鈍重になる。体育の授業などでは周囲の男子に迷惑をかけがちでもある。

 性格がおとなしいだけでなく、そういう所も、ああいう手合いから目をつけられる原因になったのではないだろうか。

 将来、自分の弟が真野のような目に遭わないという保証はどこにもない。同じようにして「オタク」などと言われる趣味も持ち合わせているようだし、近くで見ている兄としては甚だ心配だと言わざるを得ないのだ。







 そうこうするうち。

 その日は、突然にやってきた。


 次にそれを目撃したのは、道場から家へ帰る途中の、繁華街の中だった。大通りの方でなく、少し狭い道に入って曲がっていくほうが近道になるために、俺はときどきそっちの道を使うのだ。

 その細い小路からさらに折れた建物と建物の隙間のようなところから、先日と同じような笑い声が聞こえてきた。


『……ちゃ~ん』──


 向こう側は車道になっていて、つぎつぎに走っていく車がちらちら見える。それは小さな川沿いの道で、歩道と車道、さらにガードレールを挟んだ下には整備された川が流れている。

 歩道側は普段から人通りも多くなく、今もこの道のほうをのぞくような通行人はほとんどいないようだ。


 例の「まにょんちゃ~ん」という気味の悪い声と共に、がらん、ばしんと不穏な音が小路のほうから聞こえてきて、俺は眉をひそめた。


(これは──)


 あいつらが、またやっているのだ。あの不愉快きわまりない行為を。

 俺は躊躇せず、ざっとそちらへ足を向けた。

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