第一章 見知らぬ世界へ

第1話 継道(つぐみち)


 それは、学校が終わり、俺がいつものように部活の代わりに通っている合気道の道場に向かって歩いていたときのことだった。

 公園の植え込みの陰から、どやどやと笑い騒ぐ少年たちの声が聞こえてきた。その時の俺は何となく、それが自分と同じクラス、S高二年の男子生徒たちではないかと思ったのだ。なぜならその声の様子やうっすらと聞こえてくる言葉の中に、聞き慣れた単語があったからだ。


──『まにょんちゃ~ん』。


 気持ちの悪いトーンで繰り返されているその呼び名は、彼らがあの少年に勝手につけたあだ名だった。

 植え込みを回ってそちらを覗いたら、案の定だった。

 うちのクラスでは派手で比較的勉強もでき、見た目もそこそこいい連中──要するに、クラスのヒエラルキーの上層に位置している連中だ──が、数人でひとりを取り囲むようにして騒いでいた。


「うっわ、きンも! こいつ、こんなのまだ持ってやがるぜ」

「まにょんちゃん、ほんとキモいね~。いつになったらこういうの、卒業ちゅるんでちゅかあ?」

「ほんときめぇ。ショー毒しなきゃな、ショー毒!」


 ばさりと何かが投げ出され、がしゃがしゃと妙な音がした。

 ぎゃはははは、と汚らしい哄笑がそれに続く。

 俺は思わず顔をしかめて足を速めた。


「真野! 大丈夫か」

「えっ……」

「やべ!」


 声を掛けたとたん、真野の周囲に立っていた髪を脱色した奴や、耳にピアスを複数付けした奴がこっちを振り向いて顔色を変えた。やっぱりだ。うちのクラスの奴らだった。制服のネクタイを思い切りゆるめ、シャツはスラックスの上にだらしなく出したいつもの姿だ。

 思った通り、彼らの中心にいたのは真野敦也まのあつやだ。彼の周囲には彼の物らしいスクールバッグが口をあけたまま放り出され、中身が地面いっぱいに散らばっている。散々、そいつらに踏みつけられたのだろう。ノートも教科書も足跡まみれだ。

 真野が地面についた手までが踏みつけられているのを見て、俺はかっと自分の頭に血がのぼるのを自覚した。


「お前ら──」

「おおっと。待てよ、日向」

「俺たちは、ちょっと真野のお荷物検査をしてただけよ~ん?」

「今すんだとこじゃん」

「じゃあな。行くわ~。またな、まにょんちゃ~ん?」


 まったく悪びれた様子もなく、へらへらしながらそいつらが散っていく。その目の中には明らかに、俺に対する敵意がひそんでいた。だが、それでも奴らが俺をターゲットにしたことはない。

 別に言いふらしたことはないんだが、俺が前から合気道の道場に通っているということをどこかで聞き込んでいるのだろう。


 奴らが消えたのを確認し、俺は真野に近づいた。

 真野は砂を掛けられたのか、頭から砂まみれになっている。うねうねした癖のある真っ黒な髪が、すっかり砂の色になっていた。真野は唾と一緒にぺっぺっと砂を吐き出し、散らかった文房具をのろのろとバッグに押し込みはじめた。


「真野──」

「いいんだよ。ほっとけよ」

 真野の声は思った以上にすさんで聞こえた。

「何しに来てんだよ。ほんとお前、ヒーロー気取りな」

「…………」


 そんなつもりはない。断じてない。ないが、単純にこういう弱い者いじめというものが、全般的に虫唾が走るぐらいに嫌いなだけだ。

 と、真野は不安な目をして急にきょろきょろと周囲の地面を探し始めた。なにか大事なものがなくなっているらしい。俺もつられてまわりを見回す。すると、真野からは死角になっている植え込みの縁石のかげに小さなキーホルダーらしいものが落ちているのを見つけた。

 すぐに拾って真野に差し出す。


「……これか」

「あっ……!」


 それは、何かのアニメのキャラクターが印刷された柔らかいキーホルダーだった。肌が少し茶色く、髪が薄い紫色に塗られた女のキャラクター。耳がとがって見えるのは、「エルフ」とか「ダークエルフ」とかいう種族だからであるらしい。というのは、そのまま俺のオタクな弟によるレクチャーの引用だけれども。

 弟の良介はこうしたものが大好きだ。兄貴も俺もそういうものにはまったく興味がないんだが、同じ兄弟でも随分違うもんだと思う。

 キーホルダーの裏側はスマホの画面などのクリーナーになっているようだ。奴らに踏みつけられたのか、それも砂だらけの上、明らかに靴裏のあとが残っていた。

 真野はすごい速さで飛んできて、ぱっとそれを俺の手から奪い取るようにした。


「……れ、礼なんて言わないぞ」


 うなるようにそう言われて、俺はちょっと首のうしろを掻いた。もちろん、そんなつもりじゃないんだから構わない。


「ほかに無くなった物とか、ないか」

「い、いいんだってば! じゃあな……!」


 叫ぶようにそう言って、真野がバッグを抱きしめるようにして走り去っていく。

 公園にひとり取り残された俺は、ひとつため息をつき、気を取り直して道場に向かった。


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