第5話 『真』彼女の本質
私は香りを放っているらしき場所への扉を開け中に入った。
部屋には最低限の調理道具と必要以上に大きいシンクを持ったキッチンが隅にあり、真ん中には大量生産でなく職人が一から作ったと思われる木製の机と椅子があった。
彼女はそこに座って私が来るのをじっと待ち続けていた。
私の存在を確認すると徐に立ち上がり、キッチンに置いてあるトースターから食パンを二枚取り出してそれぞれを別の皿に置いた。
食パンの両面は我々の指紋同様、唯一無二の焼き目を持っていた。
「すいてる?」
そこで初めて彼女は言葉を発した。
彼女の声は儚くしっかりと聞いていないと消えてしまうようであった。
そんな声とともに主語を置き去りにしたその言葉は数秒たって私の大脳へ働きかけた。
「あぁ、昨日から何も口にしてないからな」
「座って」
席に座り机に置いてあるグラスを口に運んだ。
中に入っていた冷えた麦茶が喉を潤すとずっと張り付いていた痰のようなものが胃へと流されていった。
グツグツといった何かを煮詰めている音を除いてほとんど音のしない部屋で我々は何時間かわからないほどの時間を過ごした。
実際は数分ないしは数秒だったのだろう。
しかし少なくとも現状が理解できない私にはそう感じられた。
私が正確な時間の流れを感じられるようになったのは彼女が鍋の火を止めて瓶の中にそれを詰め、先程焼いたパンと一緒に私の元へ持ってきた時だった。
その後彼女は私の対面へと座りパンの上にラズベリーでできたソースだかジャムだかわからないものを載せ食べていた。
それを見ながら私も彼女のまねをしてパンの上に載せて食した。
味は控えめにいって美味しかった。
実のところ私は友人と食事に行くとき以外は森にあるものを野性的に食べたりせいぜい酒のつまみを買う程度であったため甘いソースやジャムなんかは口にしたことがなかった。とはいえ彼女の作ったものが一般的に出回っているものよりはるかに美味しいだろうという予想は容易に出来た。
私はペロリと食べ終えるといつの間にか彼女が入れたのであろうハーブティーを飲んだ。
それがハーブティーでよかったと思えた。
私はコーヒーという飲み物を飲むことが出来ない。
別にあのコーヒー独特な香りが嫌いなわけでも舌に残るような苦味が嫌いなわけでもない、むしろそれらは好みな方であった。
どうしても何者も飲み込んでしまうようなあの黒さがダメなのだ、それは私自身を黒く醜いものへと飲み込まれてしまうような気がするのだ。
またそれは大人になるにつれ純粋な心を濁らせるとともにコーヒーを好ましく思っていくのに何かしら繋がりがあるようにしか思えなかったからかもしれない。
牛乳を入れればいいじゃないかと思うかもしれないが修正テープを上から被せたのが剥がれてしまうことがあるように上からなにかで誤魔化しても結局綻びが生じるのが不安でならなかった。
ハーブティーの香りは心をリラックスさせた。
もしかしたらそのような意図があって入れたのかもしれない。
「すべて美味しかった、ありがとう。さてすぐに本題に入って申し訳ないのだがその前にあなたの名は?」
「カナン」
そう一言答えた。
私は今まで忙しなく様々な思考が巡っていたため気がつかなかったのだが彼女は私にとって十分に魅力的であった。
万人に美しいと思われるような感じではないが突出した良さがいくつもあった。
中でも私は彼女の瞳が好きであった。
そんなことを考えながら名前の響きを組み合わせた。
「ここはどこだろう?一見するにあなたの家だろうという予測はつくのだけれど...」
「そう」
彼女の返答はいつも端的であった。
彼女がもともとそういう風にしかしゃべることができないのかわざとやっているのかはわからないが一般的な人ならば苛立たせるのに十分だろうと思えた。
ただ私は短気でもなければ怒りっぽい性格ではなく割りとおおらかなほうであるため指摘することなくそれらを一種のパーソナリティーであると思うよう心がけた。
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